第3話(上)
俺は、一体どうすればいい…?
目の前には、無惨に殺された兵士たちの亡骸。まだ新しい。その肉を喰らえば、あるいはロナの時のような力が再び手に入るのかもしれないという、おぞましい期待が鎌首をもたげる。
ホブゴブリンを喰らっただけでは、この身を焦がすような飢餓感はほとんど癒えなかった。あれは、魔族の肉よりほんのわずかにマシという程度で、本質的な渇望を満たすものでは到底なかったのだ。
やはり、「人間」でなければ駄目なのか? この力は、同族の血肉を啜ることでしか、その真価を発揮しないというのか。
「う…うぅっ…」
呻き声が漏れる。頭を抱え、その場に蹲りそうになるのを必死で堪えた。
駄目だ。考えるな。そんなことを考え始めたら、俺は本当に人ではなくなってしまう。
ロナ…彼女は、俺に生きろと言った。だが、こんな生き方を望んでいたはずがない。
仲間を喰らい、その力でさらに別の人間を喰らって生き永らえるなど、それはもはや勇者でも何でもない。ただの、最も忌むべき怪物だ。
だが、この飢えはどうだ。腹の底からせり上がってくる、この強烈な渇きは。
それはもはや単なる空腹ではない。魂そのものが何かを欲しているような、根源的な欲求だ。このまま放置すれば、いずれ俺の理性など簡単に焼き尽くしてしまうだろう。
そうなれば、俺は本当に見境なく人間を襲うようになるのかもしれない。
そうなってしまう前に、何とかしなければ。
だが、どうやって?
視線が、再び兵士たちの亡骸へと吸い寄せられる。
彼らはもう死んでいる。助からない。その命は、あのホブゴブリンによって無慈悲に奪われた。
俺が彼らを喰らったとしても、それは死体冒涜にはなるだろうが、新たな殺人を犯すわけではない。
そうやって、自分に言い訳をするのか? カイ。
一度許容すれば、次はどうなる? 生きている人間を「食料」と見なすようになるまで、どれほどの時間がかかる?
いや、もう既に、俺はそうなりかけているのかもしれない。
ホブゴブリンを喰らった時、俺は何を考えていた?
人間を喰らった魔物だから、人間の生命力が残っているかもしれない、などと。
それはつまり、俺が「人間」の味を、その力を求めている証拠ではないか。
「くそっ…! くそぉっ!」
拳で地面を殴りつける。泥と血が跳ね、俺の顔にかかった。
どうすればいい。何が正しい。
そんなものは、この地獄のような状況ではどこにも存在しないのかもしれない。
あるのは、ただ生きるか死ぬか。喰うか喰われるか。
俺が勇者だというのなら、こんなところで無様に飢え死にするわけにはいかない。魔王を倒すという、途方もない使命があるのかもしれないのだから。
そのためには、力が必要だ。圧倒的な力が。
そして、その力は…おそらく、目の前に転がっている。
俺はゆっくりと立ち上がった。足が鉛のように重い。
一歩、また一歩と、兵士の亡骸に近づいていく。
一番近くに倒れている男は、まだ若そうだった。おそらく俺と変わらないくらいの歳だろう。その瞳は虚ろに空を見つめ、恐怖と苦悶の表情を浮かべたまま固まっている。
こいつにも、故郷に待つ家族がいたのかもしれない。恋人が、友がいたのかもしれない。
その人生を、俺が今から踏みにじろうとしている。
だが、俺がやらなければ、この肉体はいずれ腐り、土に還るだけだ。
それならば、俺が力として受け継ぎ、魔王を倒すために役立てるのなら…それは、少しは浮かばれることになるのだろうか。
いや、そんなのはただの自己欺瞞だ。俺自身の罪悪感を薄めるための、汚い言い訳に過ぎない。
それでも。
それでも、俺は…選ばなければならない。
剣を鞘に納め、震える手で男の鎧を解こうとした。
バックルがなかなか外れない。指先が上手く動かないのだ。焦りと嫌悪感で、呼吸が荒くなる。
ようやく鎧の一部を剥がし、その下にある肉に触れた。
まだ、微かに温もりが残っている。
ロナの時とは違う。彼女は仲間だった。だが、こいつは誰だ? 名も知らぬ、敵ですらなかったただの死体。
それでも、同じ人間の肉だ。
これを喰らうという行為の重みに、押し潰されそうになる。
目を閉じた。
もう何も考えるな。ただ、生きるために必要なことだと、そう自分に言い聞かせろ。
そして、俺は――歯を立てた。
硬い筋肉の繊維を食い千切り、生温かい血の味が口の中に広がる。
不快感よりも先に、強烈な生命力の奔流が全身を駆け巡った。
そうだ、この感覚だ。ロナを喰らった時と、同じ。
腹の底から力が湧き上がり、身体中の細胞が歓喜の声を上げているような錯覚。
先程までの飢餓感が嘘のように消え去り、代わりに圧倒的な充足感が俺を満たしていく。
視界がさらにクリアになり、聴力も、嗅覚も、あらゆる感覚が先程よりもさらに鋭敏になっていくのが分かる。
これは…間違いなく、力の向上だ。レベルアップ。
魔族やホブゴブリンを喰らった時とは、比較にならない。次元が違う。
やはり、「人間」でなければ駄目なのだ。この力は。
どれほどの時間、そうしていただろうか。
我に返った時、目の前の亡骸は、まるで生気を全て吸い取られたかのように干からびていた。
そして俺の身体は、かつてないほどの力で満ち溢れていた。
これが…これが、俺の勇者としての力。
人間を喰らうことで得られる、呪われた英雄の力。
俺はゆっくりと立ち上がり、空を見上げた。赤黒く染まった空は、まるで俺の心の色を映しているようだ。
罪悪感がないわけではない。むしろ、先程よりも強く、深く、俺の魂に刻み込まれた。
だが同時に、ある種の諦念と、そして歪んだ高揚感が俺を支配していた。
俺はもう、後戻りできないところまで来てしまったのだ。
ならば、進むしかない。この血塗られた道を。
まだ、足りない。
この一体だけでは、まだ不十分だ。
魔王を倒すには、もっと、もっと多くの力が必要だ。
俺の視線は、自然と残りの兵士たちの亡骸へと向けられた。
躊躇は、先程よりもずっと少なくなっていた。
一度一線を越えてしまえば、二度目三度目は容易くなるものなのだろうか。
それとも、この力が俺の精神を蝕み、倫理観を麻痺させているのか。
俺は、機械的に次の亡骸へと近づいた。
もはや、感傷はなかった。ただ、効率よく力を摂取するための「作業」として、その肉を貪った。
二人、三人…その場の全ての亡骸を喰らい尽くした時、俺の身体はもはや人間のものではないかのように強靭になっていた。
鎧は窮屈に感じられ、内側から筋肉が膨張しているのが分かる。
ほんの数時間前まで、ただのしがない傭兵崩れだった俺が、今や超人の域に達している。
その代償が、俺自身の人間性だとしても。
ふと、先程倒したホブゴブリンの死体が目に入った。
もう用はない。こいつから得られるものは、たかが知れている。
俺はそれに一瞥もくれず、この場を離れることにした。
いつまでもこんな死体の山の中にいては、精神がおかしくなる。
それに、いつ他の魔族や、あるいは人間の生き残りが現れるかもしれない。
この力を得た今、俺は以前よりもずっと慎重に行動しなければならない。
この力が公になれば、俺は確実に追われる身となるだろうから。
さて、どちらへ行くべきか。
まずは、この戦場から完全に離脱し、安全な場所を見つける必要がある。
そして、情報を集めなければ。魔王軍の動向、この世界の現状、そして…俺自身のこの力について。
何か手がかりがあるかもしれない。古の文献や、あるいは賢者と呼ばれるような人物ならば。
だが、そんなものが簡単に見つかるとも思えない。
歩きながら、俺は絶えず周囲を警戒していた。
鋭敏になった五感が、あらゆる危険を事前に察知してくれる。
森の中を進んでいく。日は既に高く昇り、木々の間から陽光が差し込んでいるが、森の中は薄暗く、不気味な静寂に包まれていた。
時折、獣の遠吠えや、得体の知れない鳥の鳴き声が聞こえてくるが、それ以外は俺自身の足音だけだ。
しばらく進むと、微かに水の流れる音が聞こえてきた。
小川でもあるのかもしれない。ちょうど喉が渇いていたし、血と泥で汚れた身体を少しでも清めたい。
音のする方へ向かうと、果たして、澄んだ水を湛えた小さな川があった。
俺は川辺に膝をつき、手で水を掬って飲んだ。冷たい水が喉を潤し、火照った身体を内側から冷やしてくれるようだ。
顔を洗い、腕や鎧についた血糊をできる限り落とす。
水面に映った自分の顔は、どこか以前とは違って見えた。
目の光が鋭くなり、頬はこけ、全体的に人間離れした精悍さが漂っている。
もはや、以前の俺の面影は薄れつつあった。
水を補給し、少しだけ身綺麗になったところで、再び歩き始める。
この森を抜ければ、どこか人の住む場所に出られるだろうか。
だが、今の俺が人里に近づくのは危険かもしれない。
この力は、隠し通せるものではないだろう。いずれ、何かのきっかけで露見してしまう。
その時、人々は俺をどう見るだろうか。
やはり、恐れ、憎み、排除しようとするだろう。
俺は、永遠に孤独なのだろうか。
そんなことを考えていると、不意に前方から複数の足音が聞こえてきた。
それも、かなり数が多い。
咄嗟に大木の陰に身を隠し、息を潜めて様子を窺う。
やがて、茂みの向こうから現れたのは、武装した一団だった。
その数、十数名。鎧の紋章から見て、どこかの領主の兵士たちらしい。
彼らは何やら話し合いながら、こちらへ向かってきている。
まずい。見つかるわけにはいかない。
「…本当に、この森に『化け物』が出たというのは本当なのか?」
「ああ、近くの村からの報告だ。旅人が何人も姿を消しているらしい。生き残った者の話では、血に飢えた獣のような…いや、もっとおぞましい何かだったとか」
「馬鹿な。ただの魔物ではないのか?」
「それが、どうも様子が違うらしい。非常に狡猾で、力も強いと…」
兵士たちの会話が断片的に聞こえてくる。
『化け物』『血に飢えた』…まさか、俺のことではないだろうな。
いや、考えすぎか。俺がこの森に入ってから、まだそれほど時間は経っていない。
それに、俺はまだ誰にも姿を見られていないはずだ。
だが、油断はできない。
彼らが俺のことに気づいていないとしても、このまま進めば鉢合わせになる可能性が高い。
どうする? 引き返すべきか?
いや、引き返せば、またあの戦場跡に戻ることになる。それも避けたい。
ならば、彼らをやり過ごすしかない。
幸い、この辺りは木々が密集しており、身を隠す場所には事欠かない。
俺は、兵士たちが進んでくる方向から少しでも離れるように、音を立てずに移動を開始した。
木の幹から幹へ、影から影へと渡り歩くように。
高められた身体能力のおかげで、そのような動きも以前よりずっと容易になっていた。
彼らの話し声が徐々に大きくなってくる。緊張で心臓が早鐘を打つ。
見つかるな。絶対に、見つかってはならない。
兵士の一団が、俺が隠れている場所のすぐ近くを通り過ぎていく。
その中の一人が、ふとこちらの方に視線を向けたような気がして、息が止まりそうになった。
だが、彼は特に何も気づかなかったのか、すぐに仲間たちとの会話に戻った。
どうやら、上手くやり過ごせたようだ。
彼らの足音が遠ざかっていくのを確認し、俺は安堵の息を吐いた。
しかし、安心するのはまだ早い。
この森には、ああいった武装した集団が他にも巡回している可能性がある。
一刻も早く、この森を抜け出さなければ。
俺は再び歩き始めた。今度は、先程よりも速度を上げて。
どこへ向かうという当てもない。ただ、この危険な場所から遠くへ、もっと遠くへと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます