人喰い勇者の英雄譚 ~俺は、お前たちを喰らってでも世界を救う~
☆ほしい
第1話
ぐちゃり、と嫌な音がした。
それが自分の身体から響いたのか、それともすぐ傍で折り重なるように倒れている名も知らぬ兵士のものだったのか。
判別はつかない。泥と血の臭いが混じり合って、鼻腔の奥を刺激する。
ああ、まだ生きているのか、俺は。
瞼が鉛のように重い。無理やりこじ開けると、最初に映ったのは赤黒く染まった空だった。
もう夕暮れなのか、それとも大量の血煙が陽の光を遮っているのか。
恐らく後者だろう。この地獄のような戦場で、悠長に夕焼けを眺める余裕など、誰にもありはしない。
左腕の感覚がない。だらりと力なく横たわっていて、まるで自分のものじゃないみたいだ。
見ようとしたが、首を動かすことすら億劫で、代わりに右手を顔の前に持ってきた。
鎧は砕け、ところどころ鋭利な刃物で引き裂かれたような傷がある。
血と泥で汚れた自分の手。まだ、動く。
「……っ、う……」
呻き声が漏れた。腹の底からせり上がってくるような、鈍い痛み。
全身が軋んでいる。骨の何本かは確実に折れているか、ヒビが入っているだろう。
魔法による治療を受けた記憶もないから、この傷は負ったそのままのはずだ。
よく今まで意識を失わずにいられたものだと、どこか他人事のように感心する。
「……ろ……な……」
掠れた声で、すぐ隣にいるはずの相棒の名を呼んだ。
返事はない。だが、微かに息をしている気配だけは感じ取れた。
まだ、生きている。それだけで、ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなるような気がした。
気休めに過ぎないことは、分かっているけれど。
身体を起こそうと試みる。右肘に力を込めて、泥濘んだ地面に押し付ける。
だが、腹部に走る激痛に、思わず動きが止まった。
「ぐ……ぅっ……!」
歯を食いしばり、短い悲鳴を飲み込む。駄目だ、この身体ではまともに動くことすらできない。
俺は、カイ。ただのしがない傭兵団の一員だった。
魔王軍の侵攻が激化し、徴兵される形でこの大戦に参加させられた、ありふれた若者の一人。
特別な力があるわけでも、優れた剣技を誇るわけでもない。
それでも、故郷を守りたい一心で、ただ必死に剣を振るってきた。
その結果が、これだ。
夥しい数の死体。敵も味方も関係なく、大地を埋め尽くしている。
勝利の雄叫びは聞こえない。ただ、負傷者の呻き声と、カラスの不吉な鳴き声だけが、この戦場を支配していた。
俺たちの部隊は、どうなったのだろうか。壊滅したのか。それとも、まだどこかで戦っているのか。
もう一度、隣の気配に意識を集中する。
「ロナ……聞こえるか……?」
今度は、ほんの少しだけはっきりとした声が出た。
すると、ごそり、と微かに布の擦れる音がして、ロナがこちらを向いたのが分かった。
血塗れの顔。普段は快活な彼女の瞳が、今は虚ろに宙を彷徨っている。
「……か……ぃ……?」
蚊の鳴くような、か細い声。だが、確かに俺の名を呼んだ。
「ああ、俺だ……無事……とは言えないが、生きている」
「……よかった……」
ロナの口元に、ほんの僅かな笑みが浮かんだように見えた。
だが、その笑みはすぐに苦痛に歪む。
「……わたしは……もう……だめ、みたい……」
そんなことはない、と喉まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。
彼女の腹部には、禍々しい魔族の槍が深々と突き刺さっていた。
血は既に流れきったのか、どす黒く変色している。あれでは、もう。
どんな優れた治癒師でも、助けることは不可能だろう。
「……そんなこと、言うな……。諦めるな……」
自分の言葉が、ひどく空虚に響く。
こんな状況で、何を言ったところで気休めにしかならない。
それでも、何か言わずにはいられなかった。
ロナの目が、ゆっくりと俺を捉える。
「……カイは……逃げて……。まだ……あなたなら……」
「馬鹿を言うな。お前を置いて、一人で逃げられるわけがないだろう」
「……でも……このままじゃ……二人とも……」
その通りだった。このままここに留まっていれば、いずれ巡回に来るであろう魔族の残党に見つかり、嬲り殺されるのが関の山だ。
あるいは、この傷が原因で、ゆっくりと死んでいくだけか。
どちらにせよ、未来はない。
それでも、ロナを見捨てるという選択肢は、俺の中にはなかった。
彼女は、俺にとって初めてできた、心から信頼できる仲間だったからだ。
剣の腕は俺よりもずっと上で、何度も俺の窮地を救ってくれた。
彼女がいなければ、俺はとっくにこの戦場で命を落としていただろう。
「……最期くらい……わがまま、聞いてよ……」
ロナの瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
「……置いて……いって……」
弱々しく、だがはっきりとした拒絶の言葉。
俺は、何も言えなかった。
唇を噛み締める。血の味が口の中に広がった。
悔しさと、無力感と、そして言いようのない怒りが、腹の底から込み上げてくる。
なぜ、こんなことになった。
なぜ、俺たちはこんな場所で、こんな無惨な死に方をしなければならないのだ。
魔王。
その元凶を、俺は心の底から憎んだ。
奴さえいなければ、こんな悲劇は起こらなかった。
ロナが死ぬことも、俺たちがこんな苦しみを味わうこともなかったはずだ。
だが、憎んだところで何かが変わるわけではない。
俺は無力だ。仲間一人救うこともできない、ただの雑兵に過ぎない。
その時だった。
腹の奥底から、奇妙な感覚が湧き上がってきたのは。
それは、飢えに似ていた。だが、ただの空腹感とは明らかに違う。
もっと、こう、根源的な渇望。
身体中の細胞が、何かを求めて叫んでいるような、そんな感覚。
「……ぅ……?」
なんだ、これは。
今まで感じたことのない、強烈な欲求。
まるで、身体の内側から何者かに突き動かされているようだ。
それは、ひどく不快で、同時に抗いがたいほど魅力的だった。
この感覚には覚えがある。
いや、正確には、戦場で極限状態に陥った時、ごく稀に感じることがあった。
だが、これほどまでに強く、明確な形を持ったことはなかった。
まるで、俺の中で何かが目覚めようとしているような。
目の前の、瀕死のロナ。
彼女の白い首筋が、やけに鮮明に目に映った。
そこに流れる血の温かさまで、感じ取れるような気がした。
ごくり、と喉が鳴る。
何を考えているんだ、俺は。
彼女は仲間だぞ。瀕死の仲間に対して、こんな、こんなおぞましいことを。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
理性と本能が、激しくぶつかり合っている。
だが、本能の叫びは、理性の声を容易くかき消していく。
「生きろ」と、それは囁く。
「生き延びるためには、喰らうしかないのだ」と。
この感覚は、確か、初めて勇者としての力が発現したと言われた、あの時からだ。
名誉ある称号。世界を救う希望。
だが、その力の源が何なのか、具体的な使い方は何なのか、誰も教えてはくれなかった。
ただ、「汝、危機に際して道は開かれん」という曖昧な神託があっただけ。
これが、その「道」だというのか。
だとしたら、あまりにも、残酷すぎる。
ロナの呼吸が、さらに浅くなっている。
もう、時間の猶予はない。
俺の身体は、ますます強く「それ」を求めている。
意識が、朦朧としてきた。
飢餓感が思考を鈍らせ、原始的な欲求だけが俺を支配しようとしている。
「……か……ぃ……」
ロナが、何かを言いかけた。
だが、その言葉は途中で途切れ、彼女の瞳から最後の光が消え失せた。
動かなくなった。
もう、息をしていない。
ああ、ああ。
間に合わなかったのか。いや、そうじゃない。
俺は、心のどこかで、こうなることを望んでいたのか。
彼女が死ねば、この悍ましい欲求から解放されるとでも思ったのか。
だが、飢餓感は消えない。むしろ、より一層強くなっている。
死んだばかりの、まだ温かい身体が、そこにある。
「喰らえ」と、声がする。
俺自身の声なのか、それとも、俺の中に潜む何者かの声なのか。
もう、どうでもよかった。
俺は、壊れてしまったのかもしれない。
この地獄のような戦場が、俺のまともな部分を全て食い尽くしてしまったのだ。
ゆっくりと、震える右手を、ロナの亡骸に伸ばした。
指先が、彼女の冷たくなり始めた肌に触れる。
ひと思いにやってくれ、と誰かが言ったような気がした。
それが誰の言葉だったのか、もう思い出せない。
ただ、俺は、生きなければならない。
生き延びて、魔王を倒さなければ。
そのためならば、どんな手段だって。
覚悟を決めた。
いや、それは覚悟などという綺麗なものではない。
ただの、生存本能の暴走だ。
俯き、彼女の首筋に顔を埋めた。
鉄錆のような血の臭いと、微かに残る彼女自身の甘い香りが混じり合う。
目を閉じる。
そして――。
硬い感触と、生温かい液体が口の中に流れ込んでくる。
それは紛れもなく血の味だったが、不思議と不快感はなかった。
むしろ、干からびた大地に染み込む水のように、俺の身体がそれを貪欲に吸収していくのが分かる。
身体の奥底で、何かが満たされていくような、そんな充足感。
どれほどの時間そうしていただろうか。
ふと顔を上げると、目の前のロナの亡骸は、まるで生気を吸い取られたかのように色褪せていた。
そして、俺の身体には、信じられないほどの力が漲っていた。
あれほど酷かった傷の痛みが、嘘のように消えている。
左腕も、先程まで感覚すらなかったのに、今は自由に動かせそうだ。
試しに左手を握り、開いてみる。問題なく動く。
鎧の破損箇所から覗く肌には、おびただしい量の血糊が付着しているだけで、傷跡らしきものは見当たらない。
まるで、最初から何もなかったかのように、綺麗に治癒している。
これが、俺の力だというのか。勇者の力。
「人を喰らう」ことで、傷を癒し、力を得る。
なんという、呪われた力だろうか。
だが、感傷に浸っている暇はない。
この力が本物なら、今はそれを使ってでも生き延びなければならない。
ロナの犠牲を、無駄にするわけにはいかない。
俺はゆっくりと立ち上がった。
先程までの衰弱が嘘のように、身体は軽い。
視界もクリアになり、周囲の状況がより鮮明に把握できるようになった。
見渡す限りの死体の山。風に乗って運ばれてくる腐臭。
ここは、まさしく地獄だ。
それでも、俺は行かなければならない。
ロナの最期の言葉が、脳裏に蘇る。「逃げて」と。
いや、ただ逃げるだけでは駄目だ。
この力を手に入れた以上、俺にはやるべきことがある。
魔王を倒す。
そのために、俺はこの呪われた力と共に生きるのだ。
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