第2話 見えざる世界の掟と、祝言の夜
あの夜、瑠璃色の瞳の彼――水蔵(みずくら)様に「妻となる」約束をしてから数日。私の心は、どんよりとした梅雨空みたいに晴れないままだった。
水蔵様は、あの日以来、昼間はどこかへ姿を消し、夜になるとふらりと店の奥の空き部屋に戻ってくる。会話なんて、ほとんどない。ただ、時折向けられるあの冷たい視線が、私を見えない檻に閉じ込めるみたいで、息が詰まりそうだった。
〈花水茗舗〉の朝は、相変わらず静かだ。
「釜じい、おはよう……」
力なく声をかけると、釜じいは「しゅぅん……」と、いつもより弱々しい湯気を吐き出した。まるで、私の不安が伝染(うつ)ってしまったみたいに。
「だめだめ、私がしっかりしなくちゃね!」
私は両頬をぱちんと叩いて気合を入れる。お父っつぁんのためにも、お店のためにも、そして……私自身の、ほんの少しの意地のためにも。
その日の昼下がり。私が屋台で作り置きの白玉を丸めていると、店の入り口にすっと影が差した。
「……ごめんください」
低く、硬質な声。顔を上げると、そこには見慣れない男の人が立っていた。背が高く、鋭い目つき。髪は黒々としていて、水蔵様とはまた違う、近寄りがたい雰囲気をまとっている。
「い、いらっしゃいませ……!」
慌てて声を出す私を、男の人は値踏みするようにじろりと見た。
「水蔵様は奥におられるか」
「え……? あ、はい……」
水蔵様のお知り合い? 私が戸惑っていると、男の人はつかつかと土間を上がり、奥の部屋へと向かってしまう。その堂々とした態度に、私はただ唖然とするしかなかった。
しばらくして、水蔵様とその男の人が店先に出てきた。
「桜花とやら。こちらは絡羽(からすばね)。私の……まあ、世話役のようなものだ」
水蔵様が、初めて私に誰かを紹介した。けれど、その声はやっぱり温度を感じさせない。
「絡羽と申します」
絡羽と名乗った男の人は、深々と頭を下げた。丁寧な仕草なのに、その目からは一切の感情が読み取れない。
「この方が、水蔵様の……奥方様にございますか」
彼の視線が、私を射抜く。それは、まるで何かを試すような、探るような……。
「……あ、はい。桜花です。よろしくお願いします」
私が頭を下げると、絡羽様はふっと息を漏らした。
「水蔵様。人間との契約、くれぐれも軽々しくお考え召されるな。我らの一族の掟、そして…『穢(けが)れ』の恐ろしさを、お忘れなきよう」
その言葉は、明らかに私に向けて発せられていた。ひやりと背筋が凍る。
「……わかっている」
水蔵様が短く答えると、絡羽様は再び私を一瞥し、風のように去っていった。
「『穢れ』……」
ぽつりと呟くと、釜じいが「ごとんっ」と小さく揺れた。まるで、その言葉に反応したみたいに。河童の世界には、私たちの知らない厳しい掟が、たくさんあるのかもしれない。そして私は、その世界に足を踏み入れてしまったのだ。
その重たい空気を打ち破るように、がらりと店の戸が開いた。
「おーい、瑞水(みずみ)の旦那! 今日はちと景気のいい話をしに来たぜ!」
現れたのは、派手な縞(しま)の着物を着流した、細身の男の人だった。年の頃は三十代後半くらいだろうか。やけに自信満々な態度で、値踏みするように店の中を見回している。
「これはこれは、神津屋(こうづや)の半兵ヱ(はんべえ)様。どういったご用向きで?」
奥から出てきたお父っつぁんが、少し警戒したように声をかける。
神津屋半兵ヱ――最近、深川で急速に力をつけている新興の商人だ。水運を使った新しい商売で一儲けしたと聞いている。
「いやね、旦那。いつまでも古臭いやり方で甘味屋やってても、先は見えてるってもんよ。どうだ? いっそ店を畳んで、俺の新しい川舟商売に一枚噛まねえか? こっちの水は、甘いぜ?」
半兵ヱ様はニヤニヤしながら、お父っつぁんに言い放つ。その言葉には、あからさまな侮蔑(ぶべつ)が滲んでいた。
「お言葉ですが、半兵ヱ様。うちは代々この〈花水茗舗〉を守ってきましたんでね。そう簡単に畳むわけには……」
「ちぇっ、だから頑固もんは困るんだよ」
半兵ヱ様は、私の屋台に目を止めると、わざとらしく鼻を鳴らした。
「こんな水が濁ったご時世に、団子だの饅頭だの……。第一、不衛生ってもんだ。噂じゃ、この店、とうとう得体の知れねえもんにまで手ぇ出したそうじゃねえか。河童だか何だか知らねえが、そんなもんに頼ってるようじゃ、おしまいだな!」
「なっ……!」
私はカッとなって言い返そうとしたけれど、お父っつぁんがそっと私の肩を押さえて制した。
「半兵ヱ様、お言葉が過ぎますぞ」
「おっと、こりゃ失敬。だがまあ、俺ぁ事実を言ったまでだ。じゃあな、瑞水の旦那。気が変わったら、いつでも声をかけてくれや」
嵐のように言い捨てて、半兵ヱ様は去っていった。
店の空気が、ずしりと重くなる。
「ごめんね、桜花……辛い思いをさせて……」
お父っつぁんが、申し訳なさそうに私を見る。
「ううん、私は大丈夫だよ、お父っつぁん」
気丈に答えたけれど、胸の中は悔しさと不安でいっぱいだった。釜じいが、「しゅごっ、しゅごっ」と怒ったように湯気を荒立てている。
そして、その数日後。
簡素ながらも、「祝言」の日がやってきた。
場所は、あの夜、水蔵様と初めて会った川べりに設けられた、小さな臨時の社(やしろ)。夜の闇に、数本の蝋燭(ろうそく)の灯りが揺らめいているだけ。
私は、お母っつぁんの形見だという、少し古びた白無垢(しろむく)に袖を通していた。似合っているのかどうかもわからない。ただ、胸が苦しくて、今にも逃げ出したかった。
社の前に立つと、水蔵様が静かに佇んでいた。いつもの黒い着物ではなく、月白色(げっぱくしょく)の、どこか神聖な雰囲気の衣(ころも)を纏っている。その姿は、人間とは思えないほど美しく、そして恐ろしかった。
「……始めよ」
水蔵様の低い声が響く。どこからか現れた、顔を布で隠した者たちが、厳かに儀式を進めていく。
祝詞(のりと)のようなものが唱えられ、私は震える手で榊(さかき)を捧げた。涙が滲んで、目の前がぼやける。私は、本当に、このあやかしの許へ嫁ぐのだ。
儀式の最後に、盃事(さかずきごと)が行われた。
小さな土器(かわらけ)に注がれたお神酒(みき)を、水蔵様が先に口にする。そして、その盃が私に回される。
震える手で盃を受け取り、くいと煽る。お神酒の味なんて、まったくわからなかった。
これで、私たちは夫婦になったのだろうか。
その時だった。
川岸に置いてあった釜じいが、ふわり、と優しい湯気を立てた。それは、いつもの湯気とは少し違って、ほんのり虹色に輝いているように見えた。そして、釜の蓋が「こんっ」と一度だけ、澄んだ音を立てたのだ。
まるで、小さな鐘の音みたいに。
それは、悲しみでも、怒りでもなく、どこか……厳かで、清らかな音だった。
私は、はっと顔を上げた。水蔵様が、じっと私を見つめている。その瑠璃色の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、何か温かい光が宿ったような気がした。
……気のせい、だろうか。
祝言は、あっけなく終わった。
私は、名実ともに「河童の妻」になったのだ。
これから始まる、見知らぬ世界での生活。不安しかないけれど、あの釜じいの音と、水蔵様の瞳の奥の微かな光が、なぜか心の片隅に小さく灯っている。
それは、希望と呼ぶにはあまりにも頼りない光だったけれど。
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