江戸の甘味屋見習いが河童御曹司と政略結婚したら、屋台の茶釜がドキドキして止まらない件

象乃鼻

第壱章 河童御曹司との政略結婚

第1話 あやかし御曹司と約束の茶釜

ひんやりとした朝の空気が、私の頬を撫でていく。まだ薄暗い江戸・深川の町は、朝靄(あさもや)に包まれて、どこか夢の中みたいだ。

「ん……しょっ」

私は店の引き戸を力を込めて開けた。ギギギ、と年季の入った音が静寂に響く。甘味屋〈花水茗舗(はなみずめいほ)〉の朝は、いつもこの音から始まる。


店の土間に据え付けた竈(かまど)に火を入れ、奥の棚から愛用の屋台を引きずり出す。父が病に倒れてから、この小さな屋台で甘味を売るのが私の日課だ。

「釜(かま)じい、おはよう。今日も一日、よろしくね」

屋台に乗せられた、つるりとした黒鉄(くろがね)の茶釜――私が密かに「釜じい」と呼んでいる大切な相棒に声をかける。すると、釜じいは「しゅんっ」と小さく湯気を吐き出して応えてくれた気がした。ふふ、可愛い。この釜じい、私が嬉しい時は楽しそうに湯気を立てるし、悲しい時はなんだか元気がないように見える、不思議な茶釜なのだ。


でも、最近の釜じいは少し元気がない。

それはきっと、お店の元気が、私自身の元気が、ないからだろう。

屋台を店の前に出し、のれんをかける。けれど、このところ、お客さんの足はめっきり減ってしまった。

「お団子、いかがですかー! 焼きたてですよー!」

精一杯明るい声を張り上げても、通りを行く人々は忙しそうに足早に過ぎていくだけ。ちらりと屋台に目を向ける人はいても、足を止めてくれる人はほとんどいない。


原因は、わかっている。最近、深川一帯で使っている井戸水が、どうもおかしいのだ。ほんの少し濁っていて、お茶を淹れても、餡(あん)を練っても、昔のような澄んだ風味がどうしても出ない。お団子のタレだって、なんだかキレが悪い。

「はぁ……」

思わずため息が漏れる。このままじゃ、お父っつぁんが守ってきた〈花水茗舗〉は……。


「ゴホッ、ゴホッ……桜花(おうか)、無理はするなよ」

店の奥から、お父っつぁんの咳き込む声と、優しい言葉が聞こえてきた。

「お父っつぁんこそ、ちゃんと寝てなきゃだめだよ!」

私は慌てて店の奥に声をかける。お父っつぁんの身体は、日に日に弱っている気がして、胸がぎゅっと苦しくなる。私がしっかりしなくちゃ。この店も、お父っつぁんも、私が守らなくちゃ。


その日の午後、珍しくお客さんの姿が途絶え、屋台の片づけをしていた時のことだった。

「桜花」

いつもよりずっと真剣な声で、お父っつぁんに呼ばれた。店の帳場で、彼は布団から半身を起こし、私をまっすぐに見つめていた。その顔は青白く、いつになく神妙な面持ちだ。

「大事な話があるんだ」

ごくり、と喉が鳴る。嫌な予感が、胸の奥をざわつかせた。


「うちの店のこと、そしてこの深川の水のことで……お前に、頼まなければならないことがある」

お父っつぁんは、一つ一つ言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。それは、この深川に古くから伝わる言い伝えだった。

この辺りの水は、川と、そしてその奥に住まう「水のカミサマ」……つまり、河童の一族によって守られてきたこと。そして、その恵みと引き換えに、時には人間の娘が河童の長に嫁ぐという「契約」が結ばれてきたこと。

「まさか……」

私の声が、震えた。

「近頃の水のおかしさは、カミサマのご機嫌を損ねたせいかもしれん。……そして、そのカミサマの使いが、間もなくここに来る手筈になっている」

お父っつぁんの目が、懇願するように私を捉える。

「桜花……お前に、河童の御曹司の許(もと)へ、嫁いではもらえないだろうか」

「そ、そんな……! わ、私が、河童の……お嫁さんに……?」

頭が真っ白になった。だって、河童なんて、絵草子の中だけの存在だと思っていた。それが、本当にいて、しかも私がそのお嫁さんに? 無理だ、できるわけがない。


けれど、お父っつぁんの苦しそうな顔、寂れたお店、そして釜じいの心なしか元気のない湯気……。

それらが、ぐるぐると頭の中を巡る。

私が、この縁談を断ったら? お店は? お父っつぁんは……?

涙が溢れそうになるのを、ぐっとこらえた。


その夜。

お父っつぁんに言われた通り、私は一人、深川の川べりに立っていた。時刻は丑三つ時(うしみつどき)。月明かりもなく、ただ川の流れる音と、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。

昼間、こっそり屋台から下ろしてきた釜じいを、足元に置いている。こんな心細い時、そばにいてくれるだけで、少しだけ勇気が湧いてくるから。

「……本当に、来るのかな」

独り言が、冷たい夜気に吸い込まれていく。

その時だった。


「しゅごおおぉぉ……っ!」

足元の釜じいが、突然、聞いたこともないような音を立てて激しく震えだした! まるで怯えているみたいに、カタカタと蓋が鳴り、釜全体が異常な熱を帯びていく。

「きゃっ!? 釜じい、どうしたの!?」

私が釜じいに駆け寄ろうとした瞬間――。


「……来たか」


鈴を転がすような、けれど氷のように冷たい声が、すぐ背後から聞こえた。

びくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返る。

そこには、闇よりも深い色の着物を纏った青年が、音もなく立っていた。

霧が彼の姿を曖昧にしているけれど、それでもわかる。人間離れした、ぞっとするほど美しい顔立ち。月明かりがないのに、その瞳だけが、まるで瑠璃(るり)のように妖しくきらめいている。髪は……淡い水色? 夜目にも透き通って見えるようだ。

これが……河童……?

私は言葉を失い、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


青年は、私を一瞥(いちべつ)すると、ふん、と鼻を鳴らしたように見えた。

「お前が、〈花水茗舗〉の娘か」

その声には、何の感情も乗っていない。

「……契約だ」

彼は、まるで道端の石ころにでも命じるように、淡々と言い放った。

「我が妻となり、深川の水を清めよ」

「っ……!」

息が詰まる。わかっていたことなのに、実際に目の前に突き付けられると、その言葉の重さに押しつぶされそうになる。

「いや……です……」

かろうじて絞り出した声は、情けないほど震えていた。

「そんな結婚……っ、できるわけ……!」

言いかけた言葉が、喉の奥でつっかえる。脳裏に浮かぶのは、お父っつぁんの弱々しい笑顔と、寂れた店の暖簾(のれん)。私がここで断ったら、何もかもが終わってしまうかもしれない。


悔しさと、悲しさと、ほんの少しの諦めが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、涙が頬を伝った。

俯いた私の足元で、釜じいが「しゅうぅ……」と悲しそうな湯気を立てている。ごめんね、釜じい。でも、私……。


「……わ、かり……ました……」

絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。

顔を上げると、瑠璃色の瞳が私を射抜いていた。その瞳に、喜びも、哀れみも、何の色も見出すことはできない。

ただ、冷たい夜風が、私と彼の間を吹き抜けていく。


これから、私の人生は、どうなってしまうのだろう。

深川の夜霧のように、何も見えない未来への不安だけが、私の胸を重く、重く満たしていくのだった。

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