第3話 水鏡しること、夜毎の秘密

祝言の儀式を終えても、私と水蔵様との間に、目に見えるような変化はなかった。

相変わらず水蔵様は口数が少なく、その瑠璃色の瞳は深淵(しんえん)のように何を考えているのか読めない。〈花水茗舗〉の奥の、物置同然だった小さな部屋が水蔵様の居室になったけれど、私たちは顔を合わせても挨拶を交わすくらい。まるで、薄い氷の壁が私たちの間にあるみたいだった。


「釜じい……私、これからどうなっちゃうんだろうね」

朝、屋台の準備をしながら釜じいに話しかけると、釜じいは「しゅん……」と心細げな湯気を揺らした。やっぱり、釜じいには私の気持ちがお見通しなんだ。

それでも、お店は開けなくちゃ。お父っつぁんの薬代だって稼がなくちゃいけない。

「よしっ!」

私は気合を入れ直し、作り置きの餡を丁寧に練り始めた。この餡だけは、誰にも負けない自信があるんだから。


水蔵様との奇妙な同居生活が始まって数日経った頃、私はあることに気がついた。

水蔵様が、毎晩、夜更けになるとこっそり部屋を抜け出しているのだ。初めは気のせいかと思ったけれど、ある晩、厠(かわや)に起きた時に、彼の部屋がもぬけの殻になっているのを見てしまった。そして明け方近くになると、何事もなかったかのように戻ってくる。

一体、どこで何をしているんだろう……?

絡羽様が言っていた「一族の掟」や「穢れ」という言葉が、不吉な影のように心をよぎる。もしかして、私と祝言を挙げたことで、水蔵様は何か大変なことに巻き込まれているんじゃ……。

そう思うと、胸がちくりと痛んだ。冷たくて、何を考えているかわからない人だけど、彼が苦しんでいるかもしれないと思うと、放っておけない気がした。


何か、私にできることはないだろうか。

そうだ、甘いもの。甘いものは、人の心を慰め、元気を与える力があるって、亡くなったお母っつぁんがよく言っていた。

水蔵様は、河童だから人間の食べ物なんて好まないかもしれない。でも、あの祝言の夜、ほんの一瞬だけ見えた瑠璃色の瞳の奥の光……。あれは、きっと何かのしるしだったんじゃないかって、私は信じたかった。


次の日、私は早起きして、特別な甘味を作ることにした。

使うのは、お父っつぁんが大切にしまっていた上等の白玉粉と、丹波(たんば)の大納言小豆(だいなごんあずき)。そして何より、私が心を込めて汲んできた、今朝一番の井戸水。まだ少し濁ってはいるけれど、それでも一番澄んでいる水を選んだ。

「釜じい、お願いね。とびっきり美味しいおしるこ、作るんだから!」

釜じいは「しゅごごっ!」と力強い湯気を上げて、私の決意に応えてくれた。


丁寧に小豆を煮て、雑味が出ないように何度もアクを取る。白玉は、耳たぶくらいの柔らかさになるまで、愛情を込めてこねた。おしるこは、甘すぎず、けれど小豆の風味がしっかりと感じられるように、絶妙な塩梅(あんばい)で味を調える。

出来上がったのは、お椀の中で艶々と輝く、宝石みたいなおしるこ。水面(みなも)には、窓から差し込む朝の光がきらきらと映っている。

名付けて、「水鏡(みずかがみ)しるこ」。

私の今の精一杯の気持ちを、この一杯に込めた。


お盆に乗せて、水蔵様の部屋の前にそっと置く。

「み、水蔵様……あの、おめざに、おしるこを……作ってみました。お口に合わなかったら、残してくださって構いませんので……!」

早口でそう言うと、私は逃げるように台所へ戻ってしまった。ああ、緊張した……。


しばらくして、お盆を下げに行くと、お椀は空っぽになっていた。

残さず、食べてくれた……!

それだけで、胸がきゅんと高鳴る。釜じいが、私の足元で嬉しそうに「ぽっぽっ」と湯気を弾かせている。

「でも、美味しかったのかな……」

その時だった。

「……あのしるこ」

背後から、低い声がした。振り返ると、水蔵様がいつの間にか私のすぐ後ろに立っていた。

「ひゃっ!?」

驚いて飛びのくと、水蔵様は相変わらず無表情なまま、私を見下ろしている。

「……甘すぎず、悪くなかった」

「え……?」

「白玉も……お前が作ったのか」

「は、はい! その、心を込めて……」

水蔵様は、ふいと視線を逸らした。その時、ほんの少しだけ、彼の口元が和らいだように見えたのは、私の気のせいだろうか。

「……また、作れ」

「!」

それだけ言うと、水蔵様はさっさと部屋に戻ってしまった。

後に残された私は、顔が火照(ほて)って、心臓がドキドキと鳴りやまない。

「『また作れ』って……ふふっ」

思わず笑みがこぼれる。釜じいも、「しゅわしゅわ~♪」と、まるで鼻歌でも歌うみたいに楽しげな湯気を立てている。

冷たい氷の壁が、ほんの少しだけ、溶けたような気がした。


けれど、そんなささやかな喜びも束の間。

数日後、再び絡羽様が〈花水茗舗〉を訪れた。今度は、水蔵様が不在の時を狙ったように。

「桜花殿、少々よろしいかな」

絡羽様の鋭い視線に、私は背筋を伸ばした。

「水蔵様は、今、一族の中で非常に厳しい立場に置かれておいでだ。人間との祝言、それも『穢れ』の恐れがある娘との契りは、長老たちの逆鱗(げきりん)に触れた。夜毎、水蔵様が里へ戻り、弁明と説得を重ねておられるのを、ご存じか」

「……!」

やっぱり、そうだったんだ……。私のせいで、水蔵様は……。

「水蔵様は優しいお方だ。一度結んだ契約を、違(たが)えるようなことはなされまい。だが、もし桜花殿が水蔵様にとって足手まといになるようなら……その時は、我ら一族が黙ってはいない。……肝に銘じておくがいい」

その言葉は、静かだが、有無を言わせぬ重みを持っていた。

「……はい」

私は、唇を噛みしめて頷くことしかできなかった。

絡羽様の言葉は、河童世界の掟の厳しさと、水蔵様の置かれた危うい立場を、改めて私に突き付けてきた。


水蔵様は、私を守ろうとしてくれているのかもしれない。あの冷たい態度の裏で、たった一人で戦ってくれているのかもしれない。

「水鏡しるこ」を食べてくれた時の、ほんの少しだけ和らいだ表情。

『また作れ』という、不器用な言葉。

それらが、今になって温かい光のように心に蘇ってくる。


「私……水蔵様の、足手まといには、絶対にならない……!」

釜じいが、「ごおぉっ!」と力強い音を立てて、私の決意を後押ししてくれた。

でも、私に一体何ができるだろう?

お店の経営は相変わらず苦しいし、あの神津屋半兵ヱという人も、何かとちょっかいを出してくる。

前途は、まだまだ暗くて長い。

それでも、私は諦めたくない。水蔵様のために、お店のために、そして、私を信じてくれる釜じいのために。

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