第12話『鉄を打つ音と、風呂上がりの布のすき間』
鍛冶屋の仕事は、火との対話だ。
赤く焼けた鉄の色を読み、音を聞き、温度と湿度、そしてその日の“気”までも感じ取って、槌を振るう。
村上湊にとって、それは日課であり、信仰であり、唯一の“平穏”であった。
――少なくとも、数日前までは。
「師匠ーっ、今夜も焼き魚でいいですかぁ? 塩多めのやつ、クラリッサさんが気に入ってくれてて~」
遠く、台所からルフナの声。
「うむ、あの塩加減は剣技にも通ずるものがある」
「いやそこは通じなくていいですって!」
元・聖騎士クラリッサと、ドワーフ娘ルフナの声が重なり、かまどの火が勢いよく燃えている。
湊は鍛冶場の金床の前で、黙々と打ち続けていた。
(……最近、静けさが足りない)
槌を振るう手を止めて、ふと、炉に炭をくべ直す。
鉄の匂い、炭の匂い、油の香り。
それらが混じり合うこの空間だけは、彼にとっての“聖域”だった。
――だった。
そう、“だった”のだ。
小さな物音が聞こえたのは、鍛冶の音がひと段落した夜のこと。
◇
その夜、鍛冶場の裏手にある湯沸かし場。
温泉でもなければ、豪奢な風呂でもない。
薪で湯を沸かし、木の桶で流すだけの簡素な入浴場だ。
クラリッサはその簡素な風呂に、特に文句も言わず慣れた手つきで使っていた。
元・王国騎士。戦場で泥にまみれた経験など数知れず。
だからこそ、この静かな湯の時間だけは、心から安らげるのだった。
だが──
「……湯が……ぬるい……」
ふと、湯温を確かめて、薪を追加しようと外へ出た。
その一瞬。
「──おわぁッッ!?!?!?!?」
向かい側から現れた人影と、完全に鉢合わせになった。
白い湯気の中、視線が交錯する。
――片や、タオル一枚の状態で、肩から腿までがしっかり露わ。
――片や、手に水桶とトングを持ったまま凍りつく、鍛冶師の男。
「…………」
「…………」
沈黙が、森の中に刺さるように響いた。
次の瞬間──
「て、鉄の冷却だァァァァァァァ!!」
湊が叫んだ。
「なにぃ!?!?」
クラリッサが目を見開く。
何が「鉄の冷却」なのかは誰にもわからなかった。
ただ一つ確かなのは、湊が全力で“誤魔化し”に走ったという事実である。
湊は脱兎の如く駆け出した。
水桶をぶちまけ、鍛冶小屋の戸口まで一直線。
クラリッサは呆然と、頬を赤らめたままその場に立ち尽くす。
「……冷却って、どこを……どこの……」
その顔は、“聖騎士”として鍛えられた鋼鉄の表情ではなく、一人の年頃の女性の顔だった。
◇
「……見たな」
「見てない」
「見たでしょ」
「見たけど、見てない」
「どっちだよ!!!」
翌朝。朝食の卓上で、ルフナが突っ込んでいた。
クラリッサは無言でパンをかじっているが、耳まで赤い。
そして湊は、目を合わせようとしない。
(……俺はただ……水を汲みに行っただけなのに……)
だが、湊は理解している。
昨夜、自分が見たものを。
柔らかく濡れた髪から滴る湯。
タオルの端から、わずかに覗いた白い素肌。
“その奥”は見えていない。だが、“見えそう”の破壊力は、“見えた”に匹敵する。
(あれは──芸術だった)
思わず唇を引き締めた湊に、ルフナが呆れ顔を向ける。
「師匠、今ちょっと笑ってませんでした?」
「いや、鉄のことを……」
「鉄って便利ワードですね……!!」
◇
その日の昼。
クラリッサが、一言だけ、湊に話しかけた。
「……一つだけ、確認させてほしい」
「ああ」
「昨日のあれ……“冷却”の意味は、やはり嘘なのだな?」
「……ああ」
湊は視線を逸らし、だが口元はどこか、笑っていた。
クラリッサもまた、少しだけ微笑む。
「……ならば、せめてもう少し、“堂々と”見ればよかったのではないか?」
「む、無理だ……」
顔を赤らめて項垂れる湊に、クラリッサはほんのりと笑みを深めた。
「――なら、次は許可を出す」
「……は?」
「“今度から、タオル一枚のときは近寄るな”という意味だ。
“事前に声をかけよ”という騎士団式の“承認制”と同義だ」
「どこが許可だそれぇぇぇぇぇ!!!」
◇
こうして、鍛冶屋の日常に**新たな“距離感の規定”**が生まれた。
だが、その“距離感”こそが、これからの関係を形作っていく。
鉄と火の中に、微かな恋の温度が加わったのだった。
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