第12話『鉄を打つ音と、風呂上がりの布のすき間』

鍛冶屋の仕事は、火との対話だ。


 赤く焼けた鉄の色を読み、音を聞き、温度と湿度、そしてその日の“気”までも感じ取って、槌を振るう。


 村上湊にとって、それは日課であり、信仰であり、唯一の“平穏”であった。


 ――少なくとも、数日前までは。


「師匠ーっ、今夜も焼き魚でいいですかぁ? 塩多めのやつ、クラリッサさんが気に入ってくれてて~」


 遠く、台所からルフナの声。


「うむ、あの塩加減は剣技にも通ずるものがある」


「いやそこは通じなくていいですって!」


 元・聖騎士クラリッサと、ドワーフ娘ルフナの声が重なり、かまどの火が勢いよく燃えている。


 湊は鍛冶場の金床の前で、黙々と打ち続けていた。


(……最近、静けさが足りない)


 槌を振るう手を止めて、ふと、炉に炭をくべ直す。


 鉄の匂い、炭の匂い、油の香り。


 それらが混じり合うこの空間だけは、彼にとっての“聖域”だった。


 ――だった。


 そう、“だった”のだ。


 小さな物音が聞こえたのは、鍛冶の音がひと段落した夜のこと。


 



 


 その夜、鍛冶場の裏手にある湯沸かし場。


 温泉でもなければ、豪奢な風呂でもない。

 薪で湯を沸かし、木の桶で流すだけの簡素な入浴場だ。


 クラリッサはその簡素な風呂に、特に文句も言わず慣れた手つきで使っていた。


 元・王国騎士。戦場で泥にまみれた経験など数知れず。

 だからこそ、この静かな湯の時間だけは、心から安らげるのだった。


 だが──


「……湯が……ぬるい……」


 ふと、湯温を確かめて、薪を追加しようと外へ出た。


 その一瞬。


「──おわぁッッ!?!?!?!?」


 向かい側から現れた人影と、完全に鉢合わせになった。


 白い湯気の中、視線が交錯する。


 ――片や、タオル一枚の状態で、肩から腿までがしっかり露わ。


 ――片や、手に水桶とトングを持ったまま凍りつく、鍛冶師の男。


「…………」


「…………」


 沈黙が、森の中に刺さるように響いた。


 次の瞬間──


「て、鉄の冷却だァァァァァァァ!!」


 湊が叫んだ。


「なにぃ!?!?」


 クラリッサが目を見開く。


 何が「鉄の冷却」なのかは誰にもわからなかった。

 ただ一つ確かなのは、湊が全力で“誤魔化し”に走ったという事実である。


 湊は脱兎の如く駆け出した。


 水桶をぶちまけ、鍛冶小屋の戸口まで一直線。


 クラリッサは呆然と、頬を赤らめたままその場に立ち尽くす。


「……冷却って、どこを……どこの……」


 その顔は、“聖騎士”として鍛えられた鋼鉄の表情ではなく、一人の年頃の女性の顔だった。


 



 


「……見たな」


「見てない」


「見たでしょ」


「見たけど、見てない」


「どっちだよ!!!」


 翌朝。朝食の卓上で、ルフナが突っ込んでいた。


 クラリッサは無言でパンをかじっているが、耳まで赤い。

 そして湊は、目を合わせようとしない。


(……俺はただ……水を汲みに行っただけなのに……)


 だが、湊は理解している。


 昨夜、自分が見たものを。


 柔らかく濡れた髪から滴る湯。


 タオルの端から、わずかに覗いた白い素肌。


 “その奥”は見えていない。だが、“見えそう”の破壊力は、“見えた”に匹敵する。


(あれは──芸術だった)


 思わず唇を引き締めた湊に、ルフナが呆れ顔を向ける。


「師匠、今ちょっと笑ってませんでした?」


「いや、鉄のことを……」


「鉄って便利ワードですね……!!」


 



 


 その日の昼。


 クラリッサが、一言だけ、湊に話しかけた。


「……一つだけ、確認させてほしい」


「ああ」


「昨日のあれ……“冷却”の意味は、やはり嘘なのだな?」


「……ああ」


 湊は視線を逸らし、だが口元はどこか、笑っていた。


 クラリッサもまた、少しだけ微笑む。


「……ならば、せめてもう少し、“堂々と”見ればよかったのではないか?」


「む、無理だ……」


 顔を赤らめて項垂れる湊に、クラリッサはほんのりと笑みを深めた。


「――なら、次は許可を出す」


「……は?」


「“今度から、タオル一枚のときは近寄るな”という意味だ。

 “事前に声をかけよ”という騎士団式の“承認制”と同義だ」


「どこが許可だそれぇぇぇぇぇ!!!」


 



 


 こうして、鍛冶屋の日常に**新たな“距離感の規定”**が生まれた。


 だが、その“距離感”こそが、これからの関係を形作っていく。


 鉄と火の中に、微かな恋の温度が加わったのだった。

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