第17話 ■■■1






「……久しぶりにこんな遅くなった気がするな」


 俺はため息をつきながら、帰路を急いでいた。時刻は深夜をとうに回っている。普段ならとっくに白石の夕食を済ませ、ソファで惰眠を貪っている時間だ。しかし、今日のバイトはイレギュラーで、いつもより遅い時間に終わった。


 人通りもない住宅街を生ぬるい夜風が通り過ぎていく。こんな時間まで外にいるのは新鮮で、どうにも馴染みがない。白石も空腹で不機嫌になっているかもしれない。もしくはもう寝てしまっているか。一応炊飯器には米が炊いてあるから、食べたくなったら食べると思うが……。


 そう考えると、足取りが自然と速くなった。


 しかしその道の途中、不意に視界の端を捉えた「何か」に、俺の足はぴたりと止まった。


 またしてもあの公園だ。この公園は呪われているのかもしれない。


 街灯の光が届かない、滑り台の影が大きく伸びるその奥に、それはいた。


 淡いペールピンクのワンピース。まるで夜闇に溶け込みそうでいて、しかし確かにそこに存在する、透明な色合い。夕方の空に残る薄い雲のような儚い存在感。


 少女だ。


 微かに揺れるブランコに彼女は座っていた。小さな揺れに身を任せ、その揺れに合わせてゆっくりと体を揺らしている。


 その顔には薄く、どこか遠くを見ているような微笑みが浮かんでいた。


 焦点が合っているようで合っていない、ラベンダー色の瞳。夜の暗闇に紛れることなく、異様な光を放っているようにすら思えた。


 ――壊れている。


 俺が彼女を認識して思い浮かんだことは、たったそれ一つ。


 彼女はあまりにも静かすぎた。深夜の公園に一人でいるにも関わらず、恐怖も、不安も、寂しさも、一切の感情がその表情から読み取れない。ただ、薄い微笑みだけがそこに貼り付いている。


 吸い込まれるような感覚に陥り、俺は彼女から目を離すことができなかった。まるで絵画の中の人物を眺めているかのようだ。しかし、絵画と違うのは、そこに微かな呼吸と淡い色合いの存在感が、確かにあったこと。


 それ以外に現実味はなく、そして俺は彼女という存在が居る現実を認めたくなかったのかもしれない。


 風が吹いた。夜の風は、誰であろうと平等に吹く。それは例え、亡霊のような彼女にも。


 彼女のプラチナブロンドの髪がふわりと夜風に揺れる。その瞬間、彼女はゆっくりと首を傾げ、そのラベンダー色の瞳が初めて俺を捉えた。


 感情のない、しかしどこか不思議な輝きを宿した瞳が、俺の目を真っ直ぐに見つめる。


 そして、その薄い微笑みが、ほんのわずかだけ、深くなったように見えた。


「――こんな時間に、散歩? ダメだよ、ちゃんと寝ないと……ねぇ、聞いてるの? おにいさん」


 きっと、出会うべきではなかった。


 俺の頭の中に警報が鳴り響く。これまでの人生で感じたことのない、強烈な予感。今まで出会ったどの人間よりも俺に近くて、そして俺を越えてしまった存在。


 同類だからわかる。わかってしまった。


 彼女は分水嶺を越えてしまったのだろう。


 少なくとも、俺にはそう思えた。


「……ああ、聞いてる」


 彼女のラベンダー色の瞳は、俺の存在を認識しているようで、その奥には何も映していないように思えた。無機質な硝子玉のような、怖気の走る瞳。


「こんな時間に散歩はダメだよ」


 そう繰り返す声はまるで録音された機械音声のようだ。声だけ上下する癖に感情の抑揚がなく、ただ音として耳に届く。その薄い微笑みは崩れることなく、ただ存在している。


「……そうだな。お前は、何してるんだ」


 俺はなんとか声を絞り出した。問いかけたところで、まともな答えが返ってくるとは思えないが……それでも、この異様な空間を少しでも現実に引き戻したかった。


 少女は問いかけに対し、わずかに首を傾げた。その仕草すらどこか人形めいている。


 白石を人形のよう、と度々表現していた気がするが、その表現は正しくなかったらしい。こいつが、この女こそが真に人形と表現するのに相応しい。


 人形が人間の振りをしている。そんな妄想すら浮かんでくる。


「ん? 何してる、って……」


 彼女はゆっくりと立ち上がると、くるりと一回転した。パステルピンクのワンピースの裾がふわりと舞い、夜闇の中で幻想的な残像を描く。


「ブランコに乗ってたの」


 彼女はにこやかに、しかしやはり感情の宿らない声でそう答えた。


「見てたでしょ? おにいさん」


 まるで当然のことのように言われるが、そもそもこいつが俺の存在を認識していたかも怪しい。


「……こんな時間に一人でか」


「うん」


 躊躇なく返事が返ってくる。そこに、寂しさも、怖さも、何もない。


「親は?」


 俺の問いに彼女はまた首を傾げた。その瞳は、まるで初めて聞く言葉であるかのように、純粋な疑問を浮かべている。


「親?」


 繰り返された言葉に色はない。


「……ああ、保護者はいないのか?」


 彼女はゆっくりと俺に近づいてきた。一歩一歩が、まるで地面に足がついていないかのように軽い。そのラベンダー色の瞳が、さらに俺の顔を覗き込む。


「いるよ? でも、わたしはいなくてもいいから」


 その薄い微笑みが、ほんの少しだけ深くなった。


 その言葉に、俺は白石の顔を思い出す。かつて、自分もそう思っていた。親にとって「いなくてもいい」存在だと思っていた。しかし、この少女の言葉からは白石が感じていたような深い絶望が一切感じられない。ただ事実として、感情なく語られているだけだ。


「……そうか」


 他に言葉が出なかった。これ以上、何を尋ねればいいのかも分からなかったし、それに彼女を刺激したくなかった。


「おにいさんは、早く帰って寝なきゃダメだよ」


 そう言い残し、彼女は再びブランコへと戻っていった。俺から完全に意識を逸らし、またゆっくりとブランコを揺らし始める。


 俺は公園を後にした。彼女の存在が、俺の頭の中に深く焼き付いていた。


 本当に、出会うべきではなかった。


 底なしの空虚。パステルカラーの亡霊。


 笑顔の仮面の下に、一体何が隠されているのか。俺は中身を想像しようとして、即座に止めた。中身なんてないのだ。空っぽの器に、笑顔という蓋を被せているだけ。


 俺という個人が、神原憂という存在が彼女から感じたことだ。きっと、間違ってはないと思う。


 行くところまで行ってしまった俺は、きっとあんな感じなのだろう。その世界を想像して、そしてすぐに搔き消した。



 何が、彼女をあそこまで壊したのだろうか。


 何があったら、人はあそこまで。



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