第13話 白石琴音7




 夜。アパートに帰ると、いつものように白石琴音が俺を待っていた。白石は基本的に10時以降に待っているのだが、今日は大分早かったらしい。


 公園で赤城凛に捕まったせいで、少し帰りが遅くなった。それでもいつもと比べれば早い。早いはずだったのだが……それ以上に早く待ち構えているとは。


 俺を視界に入れると、体育座りから立ち上がる白石。


「ゆう、くん。おかえり」


「……ああ、ただいま」


 もう慣れてきてしまった。別に白石の家ではない。白石の家ではないが、もう白石の家でいい気がしてきた。


 彼女は口元を微かに緩めて、俺が鍵を開けるのを待っている。


 そしていつものように、俺の顔ではなく胸元あたりに視線を固定した。その視線がゆっくりと俺の髪、そして肩へと移動していく。


 その時だ。


 白石の鼻が微かにピクリと動いた。彼女の表情は相変わらず無表情に近いのだが、その視線が俺の肩のあたりで僅かに止まる。


 視線に鋭さが混じって、くんくんと匂いを嗅ぎ始めた。


 犬か己は。猫の可能性もあるかもしれない。正直どっちでもいい。そこまで匂いを嗅がれるということが問題である。


 そんなに汗臭かっただろうか。今日は何ならバイトも早く終わって匂いも薄いはずなのだが。


 ……もしかして、赤城凛の汗の匂いだろうか。公園で彼女の練習を見ていた時、近くにいたせいか、多少なりともその匂いが移ったのかもしれない。バスケに打ち込む彼女の汗は甘酸っぱいような、独特の匂いを放っていた。臭いわけではないと思うんだが……。


 白石は何も言わない。ただその瞳が、普段よりもほんのわずかに、しかし確実に冷ややかになったように見えた。


 しかし、白石はそのことに一切触れてこない。彼女はただ数秒間、俺の肩をじっと見つめた後、何事もなかったかのように視線を外し、家の中へ向かった。


 ……なんだろう。この、なんなんだろう。別に悪いことをしているわけではないのに、謎の罪悪感に駆られる。おのれ白石琴音、俺をここまで追い詰めるとは。


 夕食後、俺はソファに寝転がり、テレビを見ながらうつらうつらしていた。白石はいつものように風呂に入り、俺の服に着替えて戻ってきた。彼女はいそいそと俺の体勢を無言でズラし、隣に座った。


 テレビ画面をぼんやりと眺めている。部屋にはテレビの音と、エアコンの低い駆動音だけが響いている。


 緩やかな時間。小さな白石の呼吸が聞こえてきて、たまに呼吸が重なる。それに反応したのかこちらに視線を寄越して、すぐ戻す。こんなやり取りが何度かあって、これが俺と白石の過ごし方だった。


 しかし、この夜の白石はどこか様子が違った。


 普段なら彼女が自分から何かを話すことはほとんどない。会話は俺が質問を投げかけ、彼女が簡潔に答える、という一方的なものだった。その頻度も決して多くない。


 電気が消えた、暗い部屋。寝床に戻ろうとする俺を引き留めるように、白石は声を掛けてきた。


「……ゆうくん」


 俺はぼんやりしていた意識を、ゆっくりと覚醒させる。


「……ん?」


 布団の隣に座り、返事を促す。


 白石は普段とは違う、儚い声で呟いた。その小さな手が俺のパジャマの袖を、ぎゅっと掴んだ。その指先が、微かに震えているのが伝わってくる。


 ……大事な話っぽいな。


「……あのね」


「ああ」


「わたし、ね。い、要らない子なんだってさ」


 絞り出すような声だった。彼女は布団に潜り込んで、身を守るように縮こまる。その言葉が俺の脳内に直接響いた。


 まるで、過去の俺自身の言葉が、別の誰かの口から発せられたかのようだった。


『要らない子』


 親戚から、生前の両親から、耳にタコができるほど聞かされた言葉だ。そして、俺自身が心の底からそう信じ込まされてきた言葉でもある。


 白石は、震える声で続けた。


「……おかあさん、言ってた。……あたら、しい、こども、来たから。……もう、琴音は、いらないって」


 その言葉は淡々とした響きの中に、深い絶望を含んでいた。


 いいや、違うか。


 言葉の中に絶望があるのではない。言葉に絶望が混じっているのではない。


 絶望が言葉の形をしている。


 きっと、そういうことなのだ。


 俺は布団に潜り込んだ白石の小さな背中を見つめた。


 初めからなかった「居場所」の苦痛。

 元々あったはずの「居場所」をなくす苦痛。


 どっちが大きいかと言われれば、俺はどう答えるべきだろうか。過去の俺は、苦しんでいたときの俺は。


 今の俺にどう答えてほしいだろうか。


 ……答えなんて、ないか。苦しいことに変わりはないのだ。


「どうしたら、よかったのかなぁ……。ちゃんと、頑張ってきたのに。おかあさん、おかあさんは、もう、ことねのこと好きじゃ――」


 嗚咽混じりになった言葉。


「もういい。話さなくていい。琴音は十分頑張った。俺でもわかる。凄いよお前。何年も頑張ってきたんだろ。無理に言葉にしなくていい。余計辛くなるだけだ」


 行き場のない冷ややかなストレスが頭の中に充満してくる。反吐が出るほど懐かしい感覚だ。


 死ねばいいのに。なんで白石がここまで苦しめられないといけないんだよ……生んだのは、ここまで生かしたのは、お前らだろうが。


 パジャマの袖を掴んでいた小さな手を握り返す。手のひらの中で白石の震えが伝わってくる。冷たい手に熱を送り込むように、俺はしっかり握り込んだ。


 白石琴音の母は、白石の「価値」を彼女から新しい家族の出現によってあっさりと奪い去ったのだろう。そして、これまでの愛情や関心が、まるで水が引くように、優秀な「新しい子供」へと移っていったのだ。


 流行りが過ぎたすぐに捨てる玩具のように、簡単に。


 ふざけている。


「……はじめて、そう言われたとき、ね。どうしたらいいのか、わかんなくて、何も考えずに逃げ出して、気付いたらゆうくんが傘を差しててくれたの」


 俺の手を握り返す白石。白石の声に変な熱が入り始めた。


 ……?


「白石、?」


 なにか、変だ。


 確かに俺は傘を差した。彼女が、白石が壊れかけの人形のように見えた。助けなければ、きっとこのままでは白石はダメになると思ったのだ。


 あの雨の日の幼い子供のような白石を、放っておくことはできなかった。


 白石は俺の手をぎゅっと握り返したまま、さらに言葉を続けた。その声は一音一音、確かめるように紡ぎ出される。優しく、宝物を数えるように。


「……傘、貸してくれた。……家、入れてくれた。……ご飯、作ってくれた。……琴音のこと、要らないって、言わない。……ことねがワガママしても、ゆうくんは許してくれて、『居場所』をくれて……」


 彼女の言葉が俺の頭の中に、パズルのピースのように嵌まっていく。俺の無意識の行動が、彼女にとっては「居場所」となり、自分を認めてくれる人を失った彼女の唯一の拠り所になっていたのだ。


 間一髪。予想でしかないが、俺があのまま彼女を見過ごしていれば、きっと――。


「……だから、だからね? ゆうくん、は……どこにも、いかないで」


 ――見捨てないで。


 白石は布団からゆっくりと顔を上げた。色んな感情が渦巻いた異様な光を放つ蒼い瞳が、暗闇の中で強く、俺を捉えている。


 ぐるぐる、ぐるぐる、らせんの瞳。氾濫する感情がぜんぶ、一つの思いに集約されているように見えた。夜の海のような深い魅力を放つ瞳から視線が離せない。


 その視線には懇願の色と、僅かながら、歪んだ好意のようなものが含まれているように思えた。俺にはそれがよくわからないが、きっと好意だと思う。


 これだけ強い思いは、きっとそういうものだろう。


「……行かないよ」


 脳が軋む。


 俺の言葉に安心したのか、見たこともないような緩んだ顔で、俺の身体に覆いかぶさった。


「今日は、いっしょに寝よ、?」


 爛々と輝く大きな蒼い瞳。子供のような期待した表情に、俺は断ることはできなかった。


 まぁ断る気もなかったのでいい。


 人肌というものに少しだけ俺も興味があったし。どういう感じなんだろうか。暑苦しいと聞くが。二人で一つの布団か……。


「いいけど服脱ぐなよ。暑いから」

「っ!? ぬ、ぬがない! ゆうくんえっち!」

「……何言ってんだお前」

「ぇっ、わ、わたしがわるいの!? ちっ、ちがう! わたしえっちじゃない!」


 騒がしいやつだ。ちょっとだけ白石は夜に人格が変わるのかもしれないな。まぁそういうこともあるんだろう。




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