1章 葬儀

1日目:葬儀の日

 父の自慢の旧字を使った名前も今日から戒名になる。

  葬儀は、梅雨の合間の、湿った空気が体に重くのしかかる日だった。享年75歳。祖父が亡くなったのと同じ歳で、父もまた、この世を去った。会葬に訪れた参列者は数えるほど。父が会社を退職して10年以上経つことを考えれば、それも仕方ないことなのだろう。弔辞を読む声も、焼香の煙も、どこか頼りなく、この家が静かに朽ちていく様を見ているかのようだった。

 隣で、母が静かに涙を拭いている。その姿を見ていると、私の胸にも言いようのない虚無感が広がった。隣に立つ妻の菜摘も、そしてその傍らで少し落ち着かない様子の中学3年生の息子、浩の姿も、どこか居心地が悪そうに見えた。

 大学進学で東京に出て以来、長く愛媛に滞在することはなかった。就職してからは、祖父の葬儀にさえ出なかった始末で、少々居心地が悪かった。高校まで過ごした地元は、人の訛りも、風景も、一見同じに見えるよく似た違う何か、のようだった。自分がこの場所の物語から切り離され、傍観者になっているような疎外感を覚えた。

 一生のほとんどをこの地で過ごした父は、何を思って逝ったのだろう? 少々呆けが入っていたのはわかっていたが、最後は大変だったようだ。久しぶりにじっくり見る母の顔は深く老け込んでいて、いまさらながら申し訳ない気持ちになった。少ないながらの参列者の顔がいちいちわからないまま、私は静かな会釈に無言で頭を下げる。「この人、誰?」心の中で何度も呟いた。


 知らせを聞いたのは一昨日、父の容態が急変したと連絡を受けてのことだった。呆けていたのは知っていたが、これほど急なこととは思いもしなかった。昨日の朝一番でようやく到着したとき父は斎場に運ばれていた。何年かぶりに触れた父の顔は冷たく、すでにこと切れていた。そこに横たわるのは、父によく似た痩せた老人で、まだ逝ってしまった実感はなかった。

 葬儀の準備に追われる私と妻の菜摘、そして何もわからずただ黙って私たちに寄り添う一人息子の浩だった。彼にとっては愛媛は何回か遊びに来た事のあるだけの完全な異邦なのだ。

そこからは葬儀まで怒涛のように時間が流れた。通夜、葬儀の手配打ち合わせを業者としつつ、死亡診断書に役所関係と、やることは山のようにあるようだ。東北育ちの妻は北も南もわからず、ただおろおろと私の後ろについてくるだけ。それも仕方ないだろう、喪服に袖を通すこと自体、ほとんど経験のない妻は、こちらの葬儀の習慣に驚きの連続だったようだ。 浩も、慣れない場所で、見知らぬ人たちに囲まれ、どうしていいか分からず、ただ母の隣に立っているだけだった。

 よくわからない緊張と、お坊さんの読経が続く中、父の従兄弟だという孝さんが大きく手招きしていた。その先には、知らない老人男性がシャキシャキと歩み寄ってくる。もっとも、ほとんどの参列者が知らない老人ばかりだったのだが。

 父の従兄弟の横に座った老人は、静かに祭壇に進み、私と母に会釈すると焼香へと進んだ。その後に、小柄な女性が続き、彼女もまた焼香を済ませた。少々長めの間をおいて一礼して祭壇から離れる、帰り際に再度会釈。母は顔を伏せたままだった。

「……誰?」私のつぶやきを聞きつけた母が、はっと顔を上げた。その目には、驚きと、そして微かな怯えが宿っていた。

「お兄さん」母は小さく答えた。

 なるほど、どこかで見たことがあるわけだ。どことなく父に似ていると言えば似ている。似てないと言えば似てないのだけど。

 母が立ち上がろうとすると、伯父は手でそれを制し、自身の席に戻っていった。父と伯父の因縁めいた関係は、それとなく聞いていたし、地元の親族で知らない者はいないのだろう。葬儀場の澱んだ空気が、まるで別の次元へと切り替わったような錯覚を覚えた。父の死は、ある物語の終わりであると同時に、それがまだ終わっていない物語なのだと知った。


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