■後編 焼きつく光
暗い控室に響く時計の針の音。
ヒカルは、鏡の前でじっと自分を見つめていた。
アイラインを引く手が止まる。
肌の奥に焼きついた、かつての“ヒカル”という名の重さを、いまさらながらに感じていた。
名前は記号であり、ブランドでもある。そして、呪いでもある。
「ヒカルちゃん、五分前です」
スタッフの声に、ヒカルは浅くうなずいた。
まるで昔の自分が声をかけてきたような錯覚にとらわれ、胸がざらついた。
かつて“ヒカル”は、画面の向こうで笑っていた。
羞恥と混乱と、自分が自分でなくなる虚無感、それでも逃げられない恐怖を抱えながら・・・。
そんな姿を、黒川は黙って見ていた。
「君は便利だったよ。叩かれても戻ってくる。従順で、壊れたと思っても這い上がってくる」
あの頃、彼はいつも笑っていた。
彼の笑みには“冷たさ”も“怒り”もない。ただ、温度のない無関心だけがあった。
その無関心が、ヒカルにはいちばん怖かった。
黒川の言葉は、いつも結論を曖昧にした。
「判断は君に任せる」「自己責任だよ」「自分で決めたんだろ?」
彼は強制しない。指示しない。ただ、選択肢を並べる。
そのうえで、“正解”が一つしかないように感じさせる技術を持っていた。
USBメモリには、黒川の会話ログが入っていた。
隠し録音を重ねたものだ。
だが、それを世に出しても、黒川は傷つかないだろう。
「“どう受け取ったか”は相手次第でしょ」
そう言って、彼はまた笑う。
誰かが自殺しても、彼の言葉が責任を問われることはない。
「俺は命じてない。選んだのは、“彼”だ」
冷静で理屈が通っていて、なのにどこまでも人間的ではない。
その不気味な“余白”こそが、黒川という男の本質だ。
ヒカルはUSBを見つめた。
これは刃にならない。だが、“沈黙”を破る起爆剤にはなる。
「私はあなたを告発するんじゃない。ただ、沈黙しないだけ」
そうつぶやいて、ヒカルは記者の待つカフェへ向かった。
数週間後、記事は出た。内容は曖昧だ。黒川の名は出ない。
だが、“誰のことか”は業界の人間には明らかだった。
SNSではさまざまな声が上がった。擁護、嘲笑、応援、中傷。
ヒカルは、自分がどの渦の中にいるのか、わからなくなった。
でも、どれも“自分の名前”で受け取ったものだ。
“ヒカル”という名前。
それは、彼が何気なくつけた名前。
明るく、無邪気で、無垢なイメージ。
その名に似合うキャラを、彼は演じ続けた。
だが、いま彼はその名を、自分の手で使い直そうとしていた。
名は他人に与えられるものだとしても、それをどう鳴らすかは自分で決められる。
・・・
地下劇場。雑居ビルの三階奥にある、定員二十名にも満たない小さなスペース。
照明も簡素で、舞台はただの黒いフローリング。
その狭くて暗い場所で、ヒカルは静かに立っていた。
役は、「名前のない少女」だった。
台詞は少ない。ただ立ち、歩き、時折、言葉にならない叫びを発するだけ。
観客のほとんどが、チラシを見て偶然来たような人たちで、ヒカルの名前を知る者はいなかった。
だがそれでいいと、思っていた。
SNSの虚像から逃れ、黒川の影からも逃げ切り、ヒカルはようやく「ゼロ」になれた。
何者でもない、誰からも注目されない存在として、小さな舞台の片隅で演じる。
そこにいる誰もが、彼の過去を知らない。
初日の幕が下りたとき、拍手はまばらだった。
それでもヒカルは、一歩も動じなかった。
これまでと違い、客の誰一人として“ヒカルちゃん”と呼ばなかったことに、むしろ救われた。
公演は一週間続いた。劇団の代表が言った。
「よかったら、次の作品も出てくれない?」
彼はうなずいた。
小さな光だった。それでも、それは本物だった。
・・・
日々は静かに過ぎていった。
バイトと稽古の繰り返し。収入は最低限。知名度もない。
けれど、ヒカルの中には奇妙な充足感があった。
夜遅く、稽古後の帰り道。
コンビニで温かいスープを買い、ひとりベンチに腰掛ける。
そのときふと、遠くで笑い声が聞こえる。
学生たちがスマホを覗き込みながら笑っていた。
「これさ、懐かしくね? ヒカルっていたじゃん、あの子。やばかったよな~」
一瞬、身体が固まった。
画面に映っていたのは、かつての自分。虚構の「ヒカル」。
レースの下着、笑顔、媚びた仕草。
全てが“売られた商品”だった。
データとして、今もネットに漂い続けている。
目をそらし、立ち上がる。
だが、胸の奥に残った痛みを、ヒカルは初めてまっすぐ見つめようとしていた。
過去は消せない。
だが、呑まれる必要もない。
それが、今のヒカルの闘いだった。
・・・
二年が過ぎた。
名前を変えずに活動を続けたヒカルは、小劇場界隈で少しずつ顔を知られるようになった。
特別な賞を取ったわけでもない。
ただ、観た人が誰かに薦めてくれた。
その積み重ねだった。
あるとき、地方の市民会館での公演後、年配の女性がヒカルに声をかけた。
「ねえ、あの……私ね、昔いろいろあって、自分のことずっと責めてたの。でも、あなたの演技、まるで自分を見てるみたいで……ありがとう。本当に、ありがとう」
その言葉に、ヒカルは何も言えなかった。ただ頭を下げ涙した。
(誰かに届いた……)
過去の“光”が偽物だったとしても、今ここにある光は確かだと信じられた。
ある日、黒川からのメッセージが届いた。
《久しぶり。最近、舞台やってるんだって? 見たよ。驚いた。でも、いい演技だった》
《また俺のところに戻ってこないか?》
《俺なら、君を今以上に輝かせることができる》
ヒカルは一瞬、スマホを閉じようとした。
だが、思い直して、返信した。
《あなたに褒められても、何も嬉しくない。私は今、ちゃんと“私”をやってるから》
既読はついたが、返信は来なかった。
それでよかった。
・・・
三年目の春。
都内のアートイベントに呼ばれたヒカルは、インスタレーション演劇のメインキャストを任されていた。
テーマは、「匿名性と自己再生」。
観客は舞台上を自由に歩き、キャストと距離なく交わる。
そのなかで、ヒカルは自身の過去をモチーフにした台詞を語った。
「私の名前はヒカル。光って意味。なのに私は、ずっと闇にいた。人に照らされることでしか、存在できなかった。でも、今は自分の足元に、ちゃんと灯りがある――」
その声を聞いた数人が、静かに涙を流していた。
終演後、会場にいたジャーナリストが言った。
「“ヒカル”って、あの人じゃないですか? ネットで話題になってた……」
スタッフが制止しようとしたが、ヒカルはそれを止めた。
「いいんです。全部、私ですから」
そう言った自分に、少し驚いた。
逃げなくていいと思えた。
後日、ヒカルは公式のSNSアカウントを作った。
かつての虚像ではない、自分の名前で。
そこには、地味な舞台写真や稽古風景、時には好きな小説の感想が載っている。
まだフォロワーは少ない。だが、そこに並ぶコメントは、どれも温かい。
「舞台、素晴らしかったです」
「ヒカルさんの声、心に届きました」
彼はそれを一つひとつ、静かに読んだ。
・・・
あるインタビューでこう語った。
「光って、何かを照らすだけじゃなくて、自分を見せるものでもあるんです。私はずっと、“誰かのための光”になろうとしてました。でも今は、私自身のために、灯す光があると思ってます」
記者は驚いて聞いた。
「その“ヒカル”という名前、続けるんですね」
ヒカルは笑った。
「はい。だって、私はその名前で、闇も越えましたから」
“ヒカル”という名前。
その名は、誰かに消費されるためのものではない。
自分の意思で燃やし、自分の手で光らせるためのもの。
そして、焼きつけるのだ。
ここに、自分が生きている証を。
終
フィルター越しの墜落 リナ・タカハシ @x73wpeia
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