穏やかなる球体
うつぼ
穏やかなる球体
一羽の鷹の眼下に世界が広がっていた。鷹は体の割に大きな翼を広げて、風を掴んで離さない。風を支配し、空の支配者として君臨する。
鷹の眼にはこの世界がいかように映るだろうか。
猛禽類とは小動物を狩る鳥類のことを指す。当然、鷹は猛禽類タカ目だ。かといって、「あっしは猛禽類タカ目です、以後お見知りおきを」などと口上を述べるはずもない。
タカ目とは人間の言葉だ。猛禽類だって人間の言葉だ。そもそも鷹という呼び名だって人間の言葉だ。「お前は猛禽類タカ目の鷹なんだから、鷹らしくしろ」と鼠一匹狩れない鷹に恫喝したって、理解するわけがない。
空の支配者たる鷹は勇ましく、美しかった。太陽光線を翼が弾き、光の粒子を生む。光の粒子が風に溶けて、空に道を作る。風は鷹に従順な小鳥のよう。鷹の翼に風が巻かれ、風が渦を巻く。翼が風の渦を掴んで離さない。
翼は空を飛ぶ目的の為、風を切る流線形の形をしていた。爪は獲物を捕獲する目的の為、強靭な力強さを持っていた。嘴は肉を食いちぎる目的の為、金属的な硬さを持っていた。それが猛禽類タカ目というわけだ。
風を掴んで離さない翼で空を支配する。
両の脚にある鋭い爪で獲物を捕獲する。
金属の刃のような嘴で肉を食いちぎる。
翼、爪、嘴以外に鷹が生きるのに必要なものがある。
遥か彼方の空から世界を見極める眼。物陰から物陰へ動く獲物を捕捉する眼。それが鷹の眼だ。湾曲した鷹の眼に世界が映る。
世界には街が並ぶ。規則的に並ぶ建造物。平行に伸びるアスファルトの道路。道路脇には自由に繁る木々。建造物に太陽の光が差し込み、光と闇を作る。歩道橋、道路標識などの無機質な物体が影を傾かせる。安売りごめんののぼりが色褪せて、風にたなびく。風にたなびく物以外に動く影はなかった。
鷹は眼下の世界に獲物を探す。太陽の光が建造物の割れた窓ガラスに反射し、煌めく。建造物の割れた窓ガラスから侵入し、幹を伸ばし、枝を絡ませる木々。その一部と化した木々が障害物となり、鷹の眼を惑わせる。
猫や兎のような地を這う小動物は街の建造物の影に隠れていた。悠々と道路を横断していたら、空の支配者たる鷹に捕獲されてしまう。だから、警戒心を怠ることはない。それでも、捕獲された仲間は数え切れない。
雀や鳩のような空を舞う小動物は建造物に繁る木々に巣を作り、身を隠し、空の支配者たる鷹に注意を怠らない。注意を怠った結果を家族や仲間の死で知っているからだ。
街に潜むのは小動物だけではない。時間の止まった動物園の檻を運よく抜け出した大中の動物達が建造物の主となり、その眼を光らす。
建造物に電気はもう通っていない。太陽の光のみが光源。太陽の光が届かない場所に湿った闇がある。本能と知恵に従い、群れることで身を守る、小さき逃走者達。マーキングで己一匹の縄張りを刻み、常に牙を剥いて見張る、孤独な支配者達。今では彼達が建造物の主となり、湿った闇に幾つもの眼を光らせている。
鷹の眼が光る。
太陽の光が反射しただけ。
鋭い眼が瞬きしただけ。
鷹の周りの風が唸った。
鷹は突然、風を掴むのを止める。空にあった鷹の道はまだ続いているが、鷹はもういない。
時速一三〇キロメートルに歪む世界。
風が突き刺さる。
空気の壁に体が軋む。
内臓が逆流する。
眼球が押し潰される。
だが、耐えた。
鷹は時速一三〇キロメートルの弾丸の如き墜ちていく。
ただ一点を除いて、鷹の視界が鮮やかな色の線と化した。空は青。雲は白。建造物は灰色。木々は緑色と茶色。視界にあるべき物は色鮮やかな線となり、その速度に溶けていく。ただ一点とは捕獲対象。鷹の眼ははっきりとその外形を捉えていた。四本の脚と尻尾。三角の耳。街の物陰から物陰へ動く獲物に鷹は墜ちる。
鷹の道から街へは一瞬だった。
アスファルトに砂埃が舞い、何事もなかったかのように、鷹の爪が確実に獲物を捕獲していた。
鷹の眼に映る世界には建造物が規則正しく空に伸びる。建造物に四角く区切られたアスファルトの上、鷹がいた。鷹は鋭い爪で猫を掴んで離さない。爪が締め付けるたび、生暖かい血が噴出する。まだ猫は生きていた。かろうじてだが、静かに息を吸って、吐いている。目的は生きること。爪と牙を隠し、鷹の隙を狙っている。 鷹が隙を見せることはない。生きるために獲物を食べる。その行為に躊躇いなどない。躊躇いが生ずれば、隙を生む。血にまみれた猫が牙と爪を隠し、息を潜め、鷹の隙を狙っているということを知っているのだ。
そして、このアスファルトの上が危険極まりないことも知っている。建造物の物陰から幾つもの気配がする。鷹の隙を狙っているのは猫だけではない。
鷹は猫を嘴で食いちぎり、肉片を飲み込む。生暖かい血と肉が喉を通る。喉を通る感触に身体が震える。細胞が活性化する。毎日、獲物が捕獲できるわけではない。それでも、生きることは諦めない。鷹は生きるために獲物を食いちぎる。残酷という感情はない。当たり前のことだ。これが生きるということなのだ。
突如、鷹が顔を上げた。
空気が解けて、風が起こる。
上へ、上へと風の渦が伸びていく。
鷹は翼を広げて、風を掴んで離さない。
そのまま、上へ、上へ。
空に伸びる鷹の道に再び翼を滑らせていく。
遥か彼方の空へと、鷹の道へと鷹は消えていった。
風が止んだ世界で、鷹がいなくなると同時に犬達が残りかすを求めて、走り込んでくる。犬達は痩せこけている。筋肉がないわけではない。生きるという目的の為だけに必要最低限についた筋肉が逞しく躍動する。犬達の足音と足跡、逞しい筋肉が脈打つ音が交差する。爪と牙は獲物を狩るためにより形状が鋭く進化している。その爪がアスファルトを削り、その牙が残りかすを奪い合う。生きるためには食べねばならぬ。もうドッグフードなどないのだから。
犬達の残りかすの奪い合いが激しさを増していき、奪い合いに負けた犬が弾かれて、建造物の壁にぶつかった。
[ガラ]
建造物の壁が音を立てて、崩れ落ちる。雨風に曝されても、朽ちぬよう頑張っていた建造物にも限界がきたようだ。アスファルトの上にコンクリート片が拡散し、土埃が舞い、視界を濁らす。
犬達は突然の壁の崩落に身を翻し、物陰に潜り込む。静かに息を吐き出して、吸い込む。さっきまで激しく刻んでいた心臓の鼓動を落ち着かせていく。
土埃に濁った世界で建造物の闇に光が光線のように貫く。小さな奇声とともに、闇に群れる小さき逃走者達がさらに奥へと消えていく。
そこには穏やかなる球体があった。
少し地球に似ている穏やかなる球体。
太陽の光に反応するように鈍く光を歪ませる。
それはこの世界の頂点に君臨した人間のなれの果てだった。
穏やかなる球体の中で人間は呼吸し、生きているのだ。
二〇九九年、ストレス社会が真っ盛りだった。ストレス耐性が高い人間ほど優秀と評価された。ストレス耐性が低く、ストレス社会に適応できない人間は生きることができず、社会不適応者として政治的な保護を受けるか、ストレスに耐えきれず、自らの意思で命を絶つしか選択肢がなかった。
ストレス社会に順応できない、ストレス耐性の低い人間の増加。これこそが国力の減退の要因となる。国という会社を経営する特権階級が頭を悩ませる。
このままでは国が崩壊する。
全国民のストレス耐性を上げればいいではないか。
ああ、ストレス耐性を高くするよう教育を施せばいいではないか。
いや、駄目だ。
ストレス耐性の高い人間の特権がなくなってしまう。
かといって、国力は勢いの削がれたグライダーのように墜落寸前だ。
やはり、国力を上げるんだ。
ストレス耐性を上げずに。
殺さずに。
生かさずに。
全国民を飼い慣らすんだ。
同年、崩壊寸前の国に画期的な発明品が生まれた。
それが穏やかなる球体。
[ゴロリゴロリ]
建造物の壁がこの穏やかなる球体の支えとなっていた。壁が崩れると同時に穏やかなる球体が転がり始めて、太陽の下に現れる。
ゆっくりと転がる穏やかなる球体は道路を横切って、向かいの建造物で止まる。同時に音楽が流れ出し、穏やかなる球体が軽快にしゃべりだす。
「サイズはエスエスからエックスエルまであり、子供から巨人まで対応。癒やしの地球をデザインした球体型。球体の表面は七対三の青い地球。見た目の癒し感もバッチリ。何よりも凄いのは、あなたが溜め込んだストレスを食べてくれます。
食べられるのが怖いって。
否。否。怖がることはありません。
この穏やかなる球体が食べるのはあなたのストレスだけ。
家族のために一生懸命働いているお父さん。
ママ友のつき合いを断りきれないお母さん。
学校と塾の往復を繰り返す毎日のお兄ちゃん。
みんなストレスを感じてる。ストレスを溜め込んでいる。ストレスに耐えている。でも、いつかストレスにやられます。冗談抜きですよ。ストレスってのはヤバい奴なんです。気持ちの問題ですって? 否。否。気持ちじゃあないですよ。体やられちゃいますよ。ストレスってのは難儀で、心だけでなく、体も蝕んじゃいます。ストレスってのは溜め込んだ分だけ体を細胞レベルで酸化させてしまうんです。酸化、つまりは錆びってわけです。細胞が錆びれば、どうなりますか? 決して目には見えません。だって、細胞ですもん。見えるわけないです。でも、私たちは細胞の集合体です。ストレスマックスで細胞が錆びれば、ハードル競争のハードルだって倒しまくりです。でも、ストレスがなければ、ハードルだって跳びまくりです。その為の穏やかなる球体。あなたの持つ細胞から複製した細胞と同質のジェルを満たした穏やかなる球体のお風呂にドボンと飛び込んで、沈んちゃいます。大丈夫。溺れません。酸素たっぷり含んだジェルですから。ジェルが酸素も込みで、体に浸透して、細胞の錆びを食べてくれるんです。あなたの細胞はメガリフレッシュして、とってもヘルシー。あなたの細胞がですよ。代わりに細胞から複製した同質のジェルが酸化して、錆びついて、オートマチックに球体内で何度もリサイクルされて、再び、細胞と同質のジェルに精製される。だから、何度でもメガリフレッシュできるわけで。電源は? ノープロブレムっす。全面球体型太陽光発電システムがあらゆる角度から光を吸収し、発電する。窓から差し込む西日だってオーケーっす。どんどん発電。どんどん蓄電。どこにって? 人間ですよ。あなたの体を蓄電器として利用してるんですよ。球体の限られた体積、ジェルのリサイクルシステム、全面球体型太陽光発電システム、その上、蓄電器なんて容量的に無理っす。だから、あなたが蓄電器。穏やかなる球体が稼働している間、あなたの体に電気を蓄電して、メガリフレッシュ。だから、ストレス感じたら、穏やかなる球体へいらっしゃ~い。いつでも、どこでもメガリフレッシュ。あなたをストレスから解放してさしあげるわ。それが我がメガリフレッシュ社が開発した穏やかなる球体なのです。♪♪♪」
メガリフレッシュ社の穏やかなる球体は爆発的に国中に広がった。
穏やかなる球体最高とツイッター。
穏やかなる球体最高とリツイート。
大人も子供も。
男も女も。
この穏やかなる球体に夢中になる。
そして、ちょっとしたリフレッシュのつもりが穏やかなる球体から誰も出てこなくなる。
穏やかなる球体依存症候群。
ストレス耐性の低い国民を飼い慣らすために穏やかなる球体が活躍するはずだった。確かに大活躍した。ストレス耐性を上げずに国力を上げるつもりだった。
思惑は思惑のまま。
国民の半分が穏やかなる球体依存症候群となり、国力が半減する。ストレス耐性の高い特権階級は仕方がなく、国力の維持に努める。だが、半減した国力の埋め合わせに二倍以上の労働を強いられる特権階級のストレスは簡単にマックスになってしまう。
だから、悪循環。
ストレス耐性を常にオーバーするストレスの山。特権階級も耐えられず、穏やかなる球体へ。ストレス耐性の高いはずの人間も穏やかなる球体から出てこなくなる。そして、この世界から人間が消えてしまった。
穏やかなる球体のコマーシャルが一巡し、黙り込む。穏やかなる球体は街角に飾られたオブジェにしか見えない。そんなオブジェに癒される人間もいない。
穏やかなる球体に警戒しながらも、再び犬達が残りかすを奪い合う。爪がアスファルトを削り、牙が残りかすを奪い合う。犬達の鳴き声と爪と牙の音が街に響いていた。
どこからか聞こえる仲間の遠吠えに犬達は動きを止める。耳をピンと立てて、遠吠えを返し、残りかすを残したまま、建造物の中に、マーキングした我が家に帰っていく。
残りかすは雨風に晒されて、微生物に分解されて、土に還る。土に還った残りかすの残りは木々の栄養となり、緑豊かな森を作る。
ストレス社会が生み出した、画期的な発明品。大人も、子供も、男も、女も、みんな、穏やかなる球体がなければ、生きていけなくなる。結果、穏やかなる球体から誰も出てこなくなる。
人間が作り出した街は今も世界にある。港には船が浮かび、空港には飛行機が並ぶ。だが、人間はいない。
船長も穏やかなる球体の中。
副船長も穏やかなる球体の中。
操縦士も穏やかなる球体の中。
副操縦士も穏やかなる球体の中。
整備士も穏やかなる球体の中。
お客様だって穏やかなる球体の中。
人間はみんな蓄電器だ。全面球体型太陽光発電システムの発電した電気を蓄電し、細胞と同質のジェルが細胞の錆びを食べてくれる。そして、代わりに錆びついたジェルをリサイクルし、精製し、再び、細胞と同質のジェルが出来上がる。それにかかる電気は全面球体型太陽光発電システムの電気、人間に蓄電された電気。永遠に終わらない循環システムが出来上がった。
まるで小さな地球だ。
朽ちた世界には人間の数の分だけの穏やかなる球体が転がっている。
ここは人間がいた世界。
そして、もう人間がいない世界。
人間はみな穏やかなる球体で呼吸し、生きている。
ストレスを感じない世界。
穏やかなる球体の世界。
穏やかなる球体の世界は幸せかい?
そして、今、地球は最も穏やかなる時間を過ごしている。
【了】
穏やかなる球体 うつぼ @utu-bo
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