時の狭間で謳いましょう

東堂杏子

時の狭間で謳いましょう

 キャニル王国は、かつて栄華を誇った大帝国時代の帝都である。

 だが現在は古代世界の残滓にすぎない。

 学問の聖地と呼ばれ、鉄壁の城門は真摯だった。学問を志す人間ならば、性別や国籍や宗教観、思想良心の隔てなく万人を受け入れる。学者の課税が減免されることもあり研究者は他大陸からも海を渡ってやってくる。

 特に王立大学院は、キャニル国内のどの私塾よりも高い水準を誇り、入学するための試験も教授職にありつくための選考も厳しかった。 

 入学するだけで一生分の運と頭脳と努力を使い果たした者も数多い。


「いっで!!」


 寮の一室で甲高い声が響いた。

 叫んだのは少年、草原の遊牧民ウハ族の末皇子。

 東方からの留学生だった。長い黒髪を丁寧に編みこんだ姿は特徴的で、東国人の中性的な可愛らしさがある。だがその可愛らしさというのは決して褒め言葉ではない。東国人は西国人よりもひとまわり躰が小さく、肌が黄黒く、声が高く、足が短く、顔のえらが張って眼窩が小さい。

 外見のせいで西国では不利な立場に陥りがちだ。


「リシル、どうした」


 同室の学友が目を丸くする。


「痛い、うう、足」


 新しくおろした西国風の靴を履こうとしたたリシルがいきなり悲鳴をあげ、右足を抱えている。


「何かが足の裏に刺さったっぽい。靴の中に入ってたみたいだ」

「この大事な日に何やってんだよ」


 今日はふた月の一度の全学休講日なのだ。

 学生たちが忌まわしき鎖から解き放たれる休暇日だった。

 この日だけは特別に遊興地区の出入りが許される。節約して貯めた仕送りを握りしめ、学生たちは歓楽街に走る。そこには若者向けの安い娼館があり、広場では奇妙な連中が奇妙な芸を披露しており、朝から樽酒をふるまう居酒屋があり、腕の良い髪結いがおり、一攫千金の闘犬場があり、なんと公衆浴場までもが軒を連ねている。

 だがリシルたちのような風俗の快楽を知らぬ幼学生にとっては、なんと言っても芝居小屋で上演される冒険活劇が最高の娯楽だ。一刻も早く芝居小屋に駆けつけて良席を陣取らねば、序幕から終幕まで延々と前に座った客の後頭部を鑑賞するはめになる。

 急いで出発しなければ時間がない。


 右足を持ち上げてみると、足裏に大きな毒虫が噛みついていた。

 しかも二匹。

 深紅の頑丈な地這虫で、巨大な顎と両腕の鋭い鋏であらゆるものに噛みつき切り裂いてしまう。しかも気性が荒く、人間の皮膚もひと裂きで血塗れだ。


「でかい毒虫にがっつりと食いつかれてるよ。二匹いる。あんたの新しい靴の中に住み着いてたんだな、いま剥がしてやる」


 学友は一匹ずつ掴み、躊躇なく引き剥がした。


「びええええええええええ」


 足裏の肉も一緒に削がれてしまいリシルが絶叫する。

 わあわあと涙が出た。


「毒で痺れないうちに傷を手当したほうがいい。それだけ血が吹き出したならもう解毒は心配ないと思うけど」


 学友は毒虫二匹を床で踏み潰し、ぺたんこにしてから摘まんで窓の外に投げ棄てた。


「というわけで悪いけどさ、芝居がはじまりそうだからあんたを置いて行ってきていいよな?」

「行けよバカ! 冷酷非道!」

「そう言うなって、土産を買ってきてやるから。リシルは傷が膿まないように消毒して安静にしたまえよ。ついでに今日一日はお暇だろうから僕のぶんの宿題も片付けてくれてたらありがたいんだけどさすがにそれは頼みすぎかな。それじゃ行ってくる、あんたの分もしっかり楽しんでくるからな」

「もう帰ってくんなバカ! ぼくも行きたかったのにちくしょう!」


 リシルは学友の背中に靴を投げつけ、見送った。



 学問の都に差別がないというのはもちろん嘘だ。

 恐ろしき抑圧と暴力は風邪よりも身近にある。

 残酷な暴行を受け魂を殺された女学生は腹が膨れる前に退学する。男らしくない男が殴られ、女らしくない女が除け者にされ、血統なき庶民の子は道楽息子の奴隷にされ研究成果を奪われる。世界最高峰の頭脳たちが切磋琢磨する学院内でさえ、学業成績と才能だけでは覆せない過酷な格付けがあるのだ。

 故郷の期待を背負って留学している秀才たちには逃げ場がなく、対人関係に悩んで休学が続けば単位を失い問答無用で除籍される。鬱憤を晴らすためにと設けられた完全休講日も焼け石に水、月齢はじまりの夜には悲観した学生たちが塔の上から身を投げる。……


 ――そして草原辺境の少数民族は、仕立てたばかりの靴に獰猛な毒虫を仕込まれるというわけだ。


 リシルは呻きながら裸足で右足を引きずっている。

 寮内に人影はなく、学生すべてが外出してしまった。薬箱が常備されているはずの歓談室は施錠され、寮監ルヂアシウム教授までもが不在だ。

 最悪のなかの最悪だった。

 仕方がない。

 リシルはさらに歩いて大学院敷地内の医療塔を目指した。

 医療塔では世界一の術者をめざして医学生たちが研鑽している。人類上位の頭脳を持つ変わり者連中ならば、きっと、全学休講日も研究三昧で過ごしているだろう。医療塔付属施設の医務室に行けば適切な治療も受けられるはずだ。

 期待を込めてようやくたどり着いた医療塔だが、やはり閑散としていた。

 いやな予感がする。

 リシルはそっと侵入し、まずは様子を窺う。活気がなく暗い。来訪者の記録をとる門番の姿はなく、学生の気配もない。話し声もない。どうやら医療塔の民もしょせんは学生、休講日を待ち望んで歓楽街に飛び出していったらしい。

 悲観したとおり、やはり医務室も無人のようだ。


 ――誰だか知らぬがそんなにぼくが憎いのか。

 ――見知らぬ西国人種に草原の民族が何をしたというのか。


 リシルは唇を噛んだ。

 足ではない場所が痛んで視界が滲む。片手で顔を擦る。

 毒虫が、しかも二匹も偶然に靴に潜むわけがない。

 誰かに仕組まれたのだ。陰湿な嫌がらせを受けたのだ。

 無邪気な悪戯や嫌がらせどころではない。西国人種至上主義者による陰湿な暴力だ。リシルはたびたびこんなふうに偶然を装った不幸に見舞われる。いわれなき暴力を受けている。その不条理も事実も理解できない。

 しかも許せないのが目的ではなくこの手段だ。

 靴に毒虫を入れるなんて相部屋の友人を疑わざるを得ない。もちろんリシルはそんな罠には嵌まらない。彼の心には友を信じる勇気がある。


 ――ぜったいに犯人を捜して復讐してやる。


 リシルは肩に力を込めた。

 ウハ族の処刑は生きたままの茹で殺しだ。しかもすぐには絶命させない。受刑者が失神しないように冷水から煮る。じっくりと煮る。人肉入りの大鍋に甘い脂が浮いて香ばしい湯気がたちのぼったら草原を守る狼神たちに捧げる。ほろほろになるまで柔らかく煮た肉は美味い。狼神の群れがあっという間に食い尽くして骨もなくなる。神の糞となり大地に還ったらようやく罪は浄化され悪人は許される。

 まずは犯人を捕らえる前に大鍋の準備だな、と考えると、リシルの悲しく沈んだ気分が少しだけ浮上した。憤怒はときに気力の源だ。

 傷を治す、大鍋を手配する、犯人を捕まえる、煮殺す、狼の餌にする。

 いきなり視界が輝き拓けた気がしてリシルはさらに笑ってみた。


「しっぽかわいや草原ウサギ、ころころ転んでアラ痛い!」


 いきなりだった。

 呼びかけるように歌う老いた声が聞こえた。

 顔を上げると、白髪頭の老人がいた。



 老人がひとり、がらんとした医務室内を縦横無尽に歩き回っている。

 処置用の清潔な機器をあれこれと素手で弄っていた。

 リシルは老人の服装を眺める。

 所属寮を示す学生章がなく教授の証である指輪もない。肌着の上に薄着をかけただけの軽装だ。

 とすると学生不在日に床の清掃を命じられた老下人か。


「どけ奴隷。しばらくぼくにこの医務室を貸せ、薬と包帯が必要――」


 乱暴な言葉で追い払おうとしたら、老人が治療台を指さした。


「ソリィシス、ハセヒライ・ドウ。デア、リッチル、トゥルトゥル」


 〝草原ウサギさん、そこで横におなり。治療してあげよう〟


 ――丁寧な草原古語でそう言った。

 ウハ族でもここまで流暢に喋る老人はいない。

 民族のいにしえ言葉を理解できた自分の耳と頭脳にリシルは感謝した。言語文化は民族の存在証明だ。対応できなければウハ族の皇子としてとんでもない恥をかくところだった。

 だがこの老人は何者だろう。

 どっしりとした穏やかな視線、長身に柔らかく流れる白髪、薄色の上品な年寄り痣が浮かぶこめかみ、目尻の深い皺。

 東国人ではない。間違いなく西国人だ。


「トゥ・ンクルク、テカリャ?」


 リシルも正確な古代語で「汝は東の民なりや」と訊ねてみた。

 老人はリシルに歩み寄り、肩を抱いて診療台に座らせながら意味深に笑う。高貴な花と潮風の香りがした。これは教養人の佇まいだ。奴隷と間違えてしまった自分の目をリシルは恥じた。いくら耳と頭が優秀でも目が曇っていては意味が無い。


「年長者に乱暴な態度をとってしまいました。無礼をお詫びします」


 リシルは静かに詫びた。


「かまわんよ。爺さんこそきみを試すような口をきいて失礼したね」


 答えた言葉ははんなりとした西の言語だ。


「旅の暇つぶしに古代草原史を読破したのだよ、それでつい、付け焼き刃で使ってみたかった。……ああこんなに右足の裏が傷ついて痛かろうに、草原ウサギくん、いったいどうした」

「足の裏を毒虫に噛まれて」

「まさかいきなり引っぺがしたんじゃなかろうね? 噛みついた毒虫を弄れば毒を吐いてさらに強くしがみつく。無理やり剥がせば肉まで削がれて大惨事だ」

「まさかのそれです。というか、ぼくではなく乱暴な友達が」

「うかつなひよっこめ、君の朋友は毒虫との遊び方も知らなんだか。すぐに爺さんが手当をしてやろう、おおよしよし、もう安心だよ」


 そう言いながら壁一面の棚に向かい、迷うことなく棚の戸を開け次々と薬瓶を取り出している。ぴんと真っ直ぐに伸びた美しい背中にリシルは見とれた。

 薬瓶ではなく剣と炎が似合う武人の背中だ。

 老人は途中でいちど振り返り、しみじみとリシルの顔を覗くとさらに呆れた。


「右の瞼が腫れてかけているな。足の傷には解毒薬も必要だ。だが直接塗っては刺激が強すぎるから薄めて使おう。案ずるな、この程度の荒療治なぞいにしえの戦場ではよくあることだった」


 さらに煮沸消毒された清潔な布巾と、皮袋で小分けされた薬水も次々と取り出す。

 必要な薬剤を膿盆に載せて戻ると、老人は「さて」と袖をまくり上げ、自身の手指を丁寧に洗浄してからリシルの足下に屈んだ。


「まずは強めの薬液で傷を洗いながら毒を殺す。かなり痛むだろうが、ここは忍耐力の見せ所ぞ」

「ままま待って待って待って、失礼ですがあなたは医療塔の教授ですかっ」

「光栄な誤解だが爺さんは下っ端学生だ」

「医学の何年目ですか」

「天文学の一年目」

「てんも――!」

「南国から長旅を終えたばかりの新入りだ。さあ一気にやるぞ草原ウサギくん」

「びええええええええええ」



 目が醒めるとすべてが終わっており、リシルの右足は清潔な布で手当されていた。疼くような痛みが残っているが今は我慢できる。いやな発熱もない。

 リシルはゆっくりと起き上がった。

 夢だったのかもしれない。


 ――夢ではなかった。


 かちゃかちゃと不穏な音がして振り返ると、やはりそこには矍鑠とした老人がいる。台の上で何やら緻密な作業をしている。医療機器を分解しているようだった。

 覚醒したリシルの気配に気づいた老人が顔を上げずに言う。


「草原ウサギくん、その薬を飲んでおきなさい。傷が膿むのを防いで治りが早くなる」


 リシルが見れば傍に小さな杯がある。鼻をつまんで一気に飲み干し「ありがとうございます」と声を返した。


「礼には及ばんよ。若者の傷を癒してやるのは老人の使命だ」


 作業台のほうから再び聞こえる。


「だが誠意をくれるなら東の空に見える星の話を聞かせておくれ」

「ぼくは建築学生ですから天文学生に聞かせるような話は知りません。……お爺さんはそこで何の作業をしているのですか」

「んんん、とある器具をね、内緒で拝借して、分解して、ちょっとね、いやたいしたことではない」


 悪戯が見つかった少年のような態度で誤魔化している。

 なおさら好奇心にかられ興味が湧く。老人が準備してくれたのであろう歩行杖を掴み、リシルはちょこちょこと彼のもとに向かった。

 老人が分解しているのは医療用の拡大鏡だった。


「う、うわあ……」

「言うな言うな、これが高価な道具であることは爺さんも知っている。この装置の中に入っている正鏡が必要なのだよ。何に使うかって? 自作の遠眼鏡を新調するためだ」

「何のために遠眼鏡を」

「星を見る。星をみる遠眼鏡、望遠鏡さ!」


 若々しくも微笑ましい口調だった。

 リシルは建築学を専攻している。周囲は彼よりも年長の学生ばかりだが、なかにはまだ物心がついたばかりの幼児もいる。早熟な天才とはそういうものだ。それとは逆に、建築学専任のルヂアシウム教授よりも年上の年配者もいる。彼らもまた学生だ。

 きっと天文学の分野も同じなのだろう。

 軍務から退いたご隠居が学問の道をめざしている。略奪品で富を築いた老将軍どもの道楽だと批難する者もあるが、老人の向学心は尊いものだとリシルは思う。草原の僻地で生まれた彼が戦争を知らないからそう思えるのかもしれない。

 リシルは老人の邪魔にならないように注意しながら隣に座った。


「ご親切のお礼には値しませんが、ぼくの故郷の星の話をひとつだけお話ししてもいいですか」

「嬉しいな。聞かせておくれ」

「ウハ族は草原の遊牧民です。東の都市国家トルスの民とは祖先が同じですが、彼らは川辺に煉瓦を積んで定住し、我らは狼神の群れに付き従う道を選びました。東の空にウハ族のみが存在を知る星があります。狼神の心臓と我々は呼ぶ」


 老人はいきなり顔を上げリシルに寄った。


「なんと興味深い! それは初耳だよ」

「数十年に一度めぐり来るという暦記念の年、イニャネスの丘から南西を向いて角度は上に5ビルグ。そこで紅く燃える星だそうです」

「観測するには難しい角度であるな」

「選ばれし者にしか視えぬ宿命の星です。その星をみつけた者こそが草原を導く王――という古い言い伝え、学問論文に記述がないのも当然です。期待させてごめんなさい」


 大きな期待をおとぎ話で返してしまい罪悪感が芽生えた。つい語尾が小さくなる。

 吟遊詩人が奏でる西方諸国の壮大な神話に比べて、草原の神謡は矮小で稚拙で幼稚だ。

 西方の英雄たちが竜の背に乗って人類救済の偉業に挑んでいた頃、東方の草原民は獣を狩り、よく食べ、男も女もなく自由に恋愛を楽しみ、異形たちと世の理を語り、空を流れる雲を数え、狼神を讃え、星降る夜は輪になって踊っていた。野生との共存は過酷な狩猟の日々だ。冬の吹雪で老人は死に子供は飢える。だがウハ族は人間を狩らない。

 人間相手に戦争をしない民族はその名が歴史に残らない。気づくとウハ族は大陸から爪弾きにされていた。時の狭間に置き去りにされた。

 あとは静かに消えるだけだ。

 草原の王は未来永劫現れない。そんなものは存在しない。


「きみはその、草原王の星の存在を信じていないのだね」

「もちろんです。ぼくが思うにウハ族の伝承は何というか、文学的な体系もなく、いいかげんで、矛盾だらけで幼くて拙くて、まるで子供騙しのお伽噺のような、だから西国人種にも蔑まれて……キャニルに来て西方世界の文化を学ぶたびにぼくの誇りは萎む一方です」


 丁重に手当してもらったはずの足なのに、またしても傷口から血が溢れたようだ。痛い。違う。やっぱり痛いのは足じゃない。リシルはうつむく。

 老人は再び作業をしながら、ふんふん、と軽く笑った。


「だがね、あるかもしれぬぞ草原ウサギくん。いや、きっとあるだろう」

「え」

「科学を舐めてはいけないよ。ふだんは目視できぬが一定の周期で威勢良く膨らみ輝きを放つ星は存在する。きみたちの星も同じ性質なのだ」


 目をぱちくりさせているリシルに微笑み、老人は続けた。


「そもそも星は勝手な行動をとらない。たとえ今は目に映らなくとも、書物にその名がなくとも、太古の誰かが一度でもそれを見たというのなら存在は否定できまい。――草原の王を指名する星も発見される日を待っている。いつか天文学者はその微かな呼び声を聞いて正確に探し当てるよ。この世の時間と空間のなかに無駄な存在はなく、すべてが壮大なさだめに従って動いているのだと証明するためにね。人間だってそうだろう」


 幼い神話が美しい科学の話になっていた。

 リシルは胸が熱くなった。宥められているような、励まされているような、抱きしめられているような、そんな不思議な感覚だ。


「もしも星々に意思があるならば、決められた航路どおりに動いているのだとしても、きっと自分の意思で力強く歩んでいるのだと信じているでしょうね」


 この場所にいることを認めてもらえた気がした。

 自分の決めた道が天道によって定められた正しい選択だと認めてもらえた気がした。

 リシルにとっては今はまだそれだけで充分だった。学びたいことを学ぶ。それは自分が決めた正しいことだ。宿命によって決められた正しいことだ。誰にも邪魔できない正道だ。学ぶことで生きていける。


 ――生きていきたい。負けたくない。

 ――負ける? 誰から? 何から?


 彼の目に涙が浮かんだのをみて老人は優しく頭を抱き寄せた。


「幼き学生よ、今はただやみくもに多くを学びなさい。いつか既成の概念から解放され、おのれを縛る自虐と自己嫌悪から解放され、あいまいな悲観を正確な観測で打ち壊し、君は君自身になれる。ひとつ学ぶたびにひとつ自由になるのだ」


 そう囁いてぽんぽんとあやすとふいに突き放し、「おお、これだ」と机上に向き直った。

 跡形もなく分解してしまった医療用拡大鏡の中身から、中央が膨らんだ鏡を二枚取り出してにんまりと笑う。


「では泥棒爺さんはこれにて逃げるぞ」

「えっ、えっ?」

「今はまだ幼き次代の族長殿よ、次回の暦記念の年は三十二年後である。その年、運の良い子がそれと知らず偶然に空を仰いで宿命の星を見つけたならば、若き草原王には君の知識と経験が必要だ。その日まで準備を怠るな――なんてな、はっは!」


 老人は盗品を懐に隠して立ち上がり、軽やかな早足で歩き出したが、すぐにぴたりと立ち止まり振り向いた。


「そうだ草原ウサギくん、君は私がこの大学院で遭遇した最初の友だ。さしつかえなければ真名をきかせてくれ」

「リイズ・ウハ・ウハラドィ=クニツクリ。リシスと呼んでください」


 なんと美しい草原名であることかと感嘆した老人は、ひらりと胸に手を当て小さく敬礼した。


「ユリアス・アンドュライド・デュオロン・ディラス。ユアン爺さんだ。仲良くしておくれ」

「こ、こちらこそ!」


 学生同士の敬礼を返そうとしたリシルを見届けることもなく、老人は老馬のように駆け出して消えた。

 窓から差し込む光がきらきらと揺れている。街の喧騒が風に乗って聞こえている。学生たちが歓楽街で騒いでいる。

 すでに休日の半分が過ぎている。

 


「がっ、がががっ学長ォォォォ!!」



 医務室の西の扉から消えた老人と入れ替わりに、東の扉から若い男が駆け込んできた。

 装束は上級官吏だが、小さな角帽を頭に乗せているから大学院仕えの庶務担当者だ。生真面目を貼り付けたような表情で両腕に巻物を抱え、ぜえぜえと肺を鳴らしてからリシルを見つけて「これはえらいことです!」と叫んだ。

 リシルは思わず飛び上がった。

 彼が座っている作業台の上には分解された医療用拡大鏡がある。備品損壊は重大な校則違反だ。弁償か、さもなくばきつい懲罰だ。リシルは恐怖に震えながら頭をぶんぶんと振った。


「謹んで申し上げますがこの惨状には深い事情が」


「いいえ悪いのは私なのです。壊れて廃棄する予定の拡大鏡はないかとひたすらお尋ねになるから、つい、医療塔の医務室で近々古い備品を整理処分する予定ですよとお教えしたらまんまと逃げられました。今夜は王宮晩餐会で明日は神殿儀式だというのに、」


 いまいち話がかみ合わない。

 リシルが唇をとがらせ小首をかしげていると、官吏が言葉を継いだ。


「あなたは建築学一年目のウハ・ウハラドィ君ですね。学長の行方に心当たりはありませんか」

「あ、もしかしてユアン爺さん……」

「その名を呼べる幸運を感謝なさい。あの御方は本日よりこのキャニル国立大学院の学長です」


 ひぇ。

 リシルは喉の奥で悲鳴をあげて動揺している。彼がみせた驚愕で溜飲が下がったのか、官吏は肩の力を抜き悪戯っぽく笑いかけた。


「どうです。立派な御方でしょう」


 問われるままにリシルは頷いた。


「傷ついた私の足を治療して、心を癒やしてくださいました」

「兵法だけでなく言語学や医術にも詳しい博学者です。ご本人はあくまで新米の天文学者だと言い張っておられますがね」

「けれど学長だなんて、なぜ。ドロクロウ学長の御身に何か」


 口に出して前学長の名を呼んでみたが、リシルは彼の人となりを軽蔑していた。学生に関わることなく執務を私設秘書に任せて贅沢な風流三昧だったと聞く。

 それでも、入学当初のリシルは大学院の学長にそれなりの期待をしていた。

 東国人種をはじめとした少数者の扱いを学院ぐるみで改善していただきたいと意見書を提出したこともある。だが不受理の封をつけられ差し戻された。今でも胃から酸っぱい記憶がこみ上げてくる。それきり院の上層部には何の期待もしていない。


「私はただの小役人ですがあなたを存じていますよ。あなたはかつて勇気に満ちた意見書を学長宛に送りましたね」

「どこから話が漏れたのかわかりませんが、そのせいでぼくは今でも酷い嫌がらせを受けています」


 リシルの暗い溜息に、官吏はちいさくかぶりを振った。


「ドロクロウ学長の私設秘書はあなたの意見書を無視したが、私はキャニル国に心臓を捧げた官吏です。すみやかに写しをとり国王陛下にお届けしました。なぜなら私も近年この大学院を覆う見えざる脅威に気づいていたからです。――王族の皆様は事態を大変重く受け止め、お心を痛められ、学内の様子をくまなく調査し、キャニル国王立大学院を改革するにふさわしい教育者を新たに迎え前学長を更迭するよう命じられたのです。そこで見いだされたのがユアン様というわけですよ。彼はキャニル大学院出身ではなく、外部から招かれた初の学長です」


 これで国王陛下の強いお覚悟がおわかりでしょう。

 そう言いたげに官吏は胸を反らした。役人からそれほどの信頼と敬愛を受けている国王はたいしたお人だとリシルは思った。

 ならばもっと早く気づいて欲しかったなんて言うまい。

 声をあげてよかった。正しかった。

 無駄ではなかった。

 星がさだめどおりに航行するように、自分が為すべきことは本能でわかる。自分の心に従ってよかった。リシルは胸に手を当てる。


「ユアン爺さんは――学長はどのような方なのですか」


「数奇な半生を送った方です。青年の頃は中原国で戦史に名を残すほどの将軍でいらしたが、お仕えしていた国王夫妻の急進的な改革に国家がついていけず政変となりました。その後国王夫妻は処刑を免れて神殿に入り、長く拘束されていたユアン様も生き別れの実兄殿を頼って南国ミルフィリアに亡命なさいました。南国では兄君とご一緒に貿易船で富を築き、私塾を創設し、海賊たちの能力を一気に引き上げ最強の海軍を完成させたといいます。その功績に惚れ込んで我々がキャニルにお招きしました」


 短く簡潔な話だが履歴を知るには充分だった。

 リシルはユアン爺さんの人生を想像した。

 戦場を軽やかに駆けたとき、愛する国王夫妻が陥れられたとき、自身も囚われていたとき、失意のなか南国に向かう船に乗ったとき、その海で星を仰いだとき、剣ではなく金貨で富を築いたとき、海賊を集めて文字と数字を教えたとき、新たなる海軍を仕上げたとき、そのときもいつも彼は星のことを考えていたのだろうか。星が正しく動くように宿命に沿って進んでいるのだと信じていたのだろうか。

 そう信じなければ生きていけなかったのか。

 官吏は再び「時間がない」と囁き、リシルの肩を軽く撫でた。


「我々の大学院は変わります。大陸全土からお預かりしている留学生諸君がひとりでも多く健全に学べるようにと役人は努力します。月齢はじめの日に絶望して身を投げる学生が減るように、そしてできるだけ寄り添えるように。私はね、生きづらさや理不尽な困難というものは、けして、自己だけが負うべき責任ではないと思うんです」

「――ユアン爺さんは手製の遠眼鏡を作ると言ってました」

「ならば次に向かったのは天文学塔ですね。急いで追いかけます。ああ、それから」


 官吏はユアンに似た笑顔を向け、懐から小さな鍵を取り出しリシルに握らせた。


「食料保存庫の鍵ですよ。皆が休暇を楽しんでいる今日だけは決してばれやしませんから、美味しいものをお好きなだけ盗み食いしていらっしゃい。あなたがたの大好きな甘いキヨラ実や麺麭もたんとある。その代わりにと言っては何ですが」

「わかっています。新しい学長が古い医療用の拡大鏡を分解して鏡を盗んだことは誰にもいいません」


 ご明察と再び笑い、官吏もまた身を翻し駆けていく。

 それから老師ユアンと若弟子リシルの長い学びがはじまった。


 今はまだ幼いリシルも、これからキャニルで学び続け教授の資格を得る。

 十二年後、東方騒乱で東国の都市トルス国が消滅する。その煽りを受けてウハ族も滅亡する。同じ頃にリシルは愛すべき学長の大往生を見送る。

 ユアンの最期の言葉は「ヴィオレッタさま、僕はいつでもお側に」……

 その後もリシルは大陸各地の大学院で教鞭をとりながら愛妻たちと旅暮らしを続けるが、暦記念の年に転機が訪れる。

 それは東方騒乱から二十年後のこと、草原の遺児を養子に迎えて育てていたノルディア国王が、ついに子を巣立ちさせ草原国を再興させるのだと便りを寄越す。


『キャニル大学院博学権威よ。わが息子が草原で紅く輝く星を見たという。どうか子の個人教授となり星読学と科学を授け導いてほしい』


 すぐに伺うと返事をしたため、リシルは妻子たちを馬車に乗せた。

 長く閉ざされていた東への途を往きながら彼は星空を仰ぐ。これが正しい途なのかとおのれの心と空と亡き師に尋ねる。

 するとそこには輝く星が、時の狭間で謳っているのだ。

 ひとつ学ぶたびに、ひとつ自由になるのだと。

 既成の概念から解放され、おのれを縛る自虐と自己嫌悪から解放され、あいまいな悲観を正確な観測で打ち壊し、おのれ自身になれる。

 かつて師が誰かから学んだように、師から彼が学んだように、リシルこそがやがて草原を束ねる王にその言葉を授けるのだ。



20180930

20250530改稿

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時の狭間で謳いましょう 東堂杏子 @under60

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