第七章 わが身世にふる ながめせしまに

  花の色は移りにけりないたづらに 

      わが身世にふるながめせしまに


放課後の教室。

窓際の机を囲んで、えみ素子もとこ圭一けいいちの三人が肩を寄せ合うようにして話していた。


「『花の色は移りにけりな』……小町の代表作って感じだよね。」


笑が、ノートの余白にその歌を書き写しながら言う。


「でもさ、ただ“美しさが衰えた”ってだけじゃない気がするんだよね。」


素子が小さく頷いた。


「“私自身が変わってしまった”っていう、そんな哀しさがあるような。」

「俺は最初、単純に“老けたなあ”って歌かと思ってたけど。」


圭一が頭をぽりぽりとかいて、苦笑い。


「でもさ、恋も人生もうまくいかなくて、自分のなかの“色”が褪せていく……そういう感覚、あるよね。」


笑がぽつりと呟くように言うと、教室にはしばし静けさが広がった。


窓の外、陽は傾き、雲の切れ間から、かすかに月がのぞいていた。

そのとき、風が吹いた。

ふわりとページがめくれ、笑の視界が白く霞んだ。

笙の音が響く。





――――次の瞬間、彼女は屋敷の中に立っていた。


(また……来たんだ。)


いや、違う。

笑ははっきりと感じていた。


(私は今、自分で望んでここに来た。)


襖が開き、小町が現れる。

笑の目の前、まるで幻のように立っているその姿は、かつての華やかさを失いながらも、凛とした存在感を放っていた。


「花の色は移りにけりな……」


小町が呟く。


「五節の舞を舞ったあの日から、もう二十年は経った。私の容色もすっかり衰え、髪の艶も、頬の紅も、もはや昔の面影ではない。

私は女なの? 男なの? もはやそれすら分からない。」


小町は決意したように顔をあげた。


「……もう、終わりにしよう。」


小町はそう言うと、手にした小刀で自らの長い髪に刃を入れた。

さらり、と畳に落ちる髪。

それは、まるで彼女の“過去”そのものが静かに断ち切られる音だった。


やがて小町は、直衣なおしに身を包み、旅の装束を整える。

白の直衣に、浅葱色の差袴。

簡素だが、どこか潔さを感じさせた。


(これが、小町の決意だったんだ。)


笑は、その様子をそっと見つめていた。


都の夜の闇に、小町の足音だけが、静かに響いてゆく。

その背に、もう一度、和歌が浮かんだ。


「わが身世にふるながめせしまに……。」



月明かりが、小町の影を長く引いていた。

そしてその姿は、やがて夜の帳に溶け込むようにして消えていった。

笙の音が彼女を追いかけていくようだった。





――――そのまま、笑の意識は、ふたたび教室へと戻っていった。  


「それ、どこ情報? 史料?」


前の席の素子が鋭くツッコミを入れる。

笑はニコッと笑って答えた。


「私の空想。だって、あの歌、明らかに何か決意してるじゃない?  美しさの終わりと、新しい生の始まりを――」

「いや、でもさ……出奔って。」


圭一が言いかけたところで、黒板の前から声がした。


「小野さん、それは…興味深い解釈ですね。」


逆井さかい先生だった。

微笑を浮かべてはいたが、その目にはいつものように困惑と苦笑が混ざっている。


「ただし、出典のない空想を発表に混ぜる場合は、きちんと“創作”と明示してくださいね。あくまで“史実”とは分けて考えること。」


「はい……。」


笑はぺこりと頭を下げたが、口元には満足げな笑みが残っていた。

先生は少し間を置いてから、ふっと視線を黒板の上に向けた。


「……けれど、“花の色は移りにけりな”が、ここまで自由な物語を生むことに、私は少し、感動しています。

和歌は、解釈されることで何度でも生き返る。

それが文学の力であり、君たちがそれに出会ってくれたことを、私は嬉しいと感じています。」


その言葉に、教室がしん……と静まった。

今だけは、誰もその空想を咎めようとはしなかった。




◇◆◇◆




【次回予告】

「第八章 わが思ふ人は ありやなしやと」


謎に包まれた小野小町の最期――

彼女を追う文屋康秀、在原業平。

交わらぬ想いが時を越え、やがてたどり着く“答え”。

言の葉は川をわたり、一人の少女に届くとき――物語は静かに動き出す。



【作者メモ】

小野小町の過去との決別を描いてみた。

彼女の代表作「花の色は移りにけりないたづらに……」を“老い”ではなく“変化”の歌であるととらえた。

笑の“空想”は、文学への目覚めを象徴している。

和歌の力で、物語が生まれる瞬間を描きたかった。

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