第八章 わが思ふ人は ありやなしやと

放課後の教室に、茜色の夕日が差し込んでいた。


「小町って、結局最後はどうなったんだろう――」


えみがぽつりとつぶやいた。


「ねえ、これ見てよ。」


素子もとこがタブレットを掲げた。


「京都の随心院ずいしんいんにある“文塚ふみづか”。小野小町が深草少将をはじめ、たくさんの貴公子から届いた恋文を、千通も埋めたって言い伝えがあるんだって。」


画面には、竹林の中にぽつんと立つ、苔むした古塚の写真。


「千通も……」


笑が小さくつぶやいた。


「どれだけたくさんの人に愛されても、小町は――最後まで、自分の気持ちを語らなかったんだね。」

「ていうか、埋めるってことは全部スルーしたってことでしょ? けっこう冷たいよなあ。」


圭一けいいちが笑い混じりに言う。


「返事くらい、誰かにしてもよさそうなものなのに。」


素子も肩をすくめた。


「……違うよ。」


笑は、静かに口を挟んだ。


「きっと小町は、返せなかったんだと思う。

自分の心を、ずっと……深く、埋めてたのかも。」

「……埋めたのは、恋文じゃなくて、自分の気持ち?」

「うん。」


笑はタブレットから目を離し、教室の窓の外へと視線を向けた。


「でもね――宗貞のことは、きっと……気にかけていたんじゃないかな。

彼だけには、心の奥を、見せようとしたんだと思う。」


そのとき、窓の外に風が吹いた。

ふと、耳元で微かに鳴った音が、世界の輪郭を変えた。

笙の音――それは、時を越える扉の音だった。





―――気づくと笑は、とある屋敷を見下ろしていた。

どうやら、自分は空を漂っているようだ。

縁側から、部屋の中が見えた。

御簾に向かって一人の男性が座っている。


「小町殿。

私はこのたび三河掾みかわのじょうに任ぜられました。

私の任国である三河を、一緒に見て回りませんか。

寺を巡って、湯にでも浸かりましょう。

都のことなど、忘れて――」


御簾の奥から、静かな声が返る。


「……康秀殿。」


文屋康秀ふんやのやすひで。確か、小町に求婚していた歌人だった気がする。)


笑はもっと近づこうとした。

すると体は、宙をすべるように進んでいく。


(いったい私は、どうなっているの?)


康秀は優しい顔立ちをしていた。

どこか照れを隠すように、肩をすくめている。

そのまま康秀の上を通り過ぎて、笑は御簾の中へ入った。

そこには、小町が静かに目を伏せて座っていた。

やがて小町は筆を取り、色紙に和歌をしたためた。

そして、御簾の下からそっと色紙を差し出す。


  わびぬれば身をうき草の根を絶えて

      誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ


(私は失意に沈み、浮草のように根を失った身。

 誘ってくださるなら、どこへでも流れて行くつもりです。)


「ありがとう、小町殿。」


康秀が受け取ったとき、小町は何も答えなかった。


笑は、はっとした。

小町のその日の装束に見覚えがあった。

あれは……鏡の前で自らの髪を切った、あの日と同じもの。


(そうだ。小町はもう、覚悟を決めているんだ

このまま、都を去るつもりなんだ……

どこへでも行きたいというのは、彼女の心からの願い――

康秀は……遅かったんだ。)


小町の顔には、悲しみを超えた静かな決意が浮かんでいた。





―――ふわりと、笑の体が宙に浮かび上がる。

周囲の景色が飛ぶように流れていく。

やがて国境の木戸が見えた。

大勢の人々が行き交う中に、康秀の姿があった。


「……来ないのか。」


何度も空を仰ぎ、風に袖を揺らされながら、それでも康秀は動かなかった。


「――誘ふ水あらば、いなむとぞ思ふ……か。

ならばなぜ、来てはくれぬ。」


けれど水は、小町を終わりのない旅路へと誘ってしまったのだった。





―――再び笑の体は浮かび、また違う日の景色に変わっていた。


(……私、もしかして、時間の流れの上を漂ってる?)


町中で人を尋ねる康秀の姿。

無精ひげを伸ばし、憔悴しきった表情。

その声は、哀しみと執念の入り混じったものだった。


「……そいつなら東へ行ったぞ。

男の姿だったが……ひょっとしたら女かもしれん。」


(康秀は、小町を探してるんだ。)





今度は、遠くから馬を駆ける男の姿があった。

その顔に、笑は見覚えがあった。


「小町――俺は絶対にお前を探し出す。」


在原業平。

彼もまた、小町を追っていた。





―――やがて、笑は川の上にいた。

眼下を一艘の渡し船が進んでいる。


対岸を見やった笑は、その地形にふと違和感を覚えた。

いや、違和感というより――見覚えがある。


(……この川の流れ、岸辺のゆるやかな起伏……)


幼いころ、祖父母の家から眺めた夕暮れの風景がよみがえる。


(まさか……ここって、隅田川?)


建物は何もない。

けれど、川べりの樹々の影や、ゆったりとした流れの向こうに、

笑は確かに“知っている”感覚を覚えていた。


(そうだ、子どもの頃、おじいちゃんと一緒に歩いた土手……

あのときも、こんな風が吹いてた気がする。)


船の中に業平の姿があった。


「……小町。

お前の故郷は出羽だと聞いた。

ひょっとしたら故郷に帰っているんじゃないか?」


そう独り言ちする業平の目の先を、一羽の鳥が飛んでいた。

嘴と脚の赤い鳥である。


「あの鳥はなんて鳥だ?」


業平は船頭に尋ねた。


「あれはミヤコドリと申します。」

「都鳥か……。」


    名にし負はばいざこと問はむ都鳥みやこどり

        わが思ふ人はありやなしやと


「都鳥よ、もし小町の居場所を知っているのなら、私に教えておくれ。」


(ありやなしやと……。)


笑は業平の和歌の言葉を繰り返した。

それは、誰かが願いを託し、誰かが受け継ぐ、終わりなき語り――

自分が今、その一部に触れているのだと、笑は初めて気づいた。


(こんなふうにして、誰かが残した言葉が、時を越えて誰かに届いていくんだ……。)


それは、いつか誰かに届くために紡がれた“物語”――

そして、笑にとっての始まりだった。




◇◆◇◆




【次回予告】

「第九章 苔の衣は ただ一重」


素子に渡された「大和物語」――そこには、小町と出家した宗貞(僧正遍昭)の再会が記されていた。

白い霞に包まれ、笑は古寺でふたりの静かな邂逅を見つめる。

語らぬ思いと過ぎた時が交差する、儚くも温かな一夜の幻想。



【作者メモ】

小町の沈黙と旅立ちを、笑の幻想体験に重ねて描いた。

康秀や業平の想いを通じて、語り継がれる物語の力を浮かび上がらせている。

笑は時間の流れの上から、真実の一端に触れることになる。

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