第六章 言の葉さへに 移ろひにけり

図書室の夕暮れは、しんと静まり返っていた。

生徒たちはすでに帰宅し、木棚と机のあいだを、風だけがかすめていく。

ただ1人図書室にいたえみは、開いた資料のページに目を落としながら、手を止めた。


(“まち針”の語源は『小町針』。

穴のない針をそう呼んだ。

通常の針と違い“穴(通し口)がない”=“通じない”という俗信から、 小野小町が“性的な機能を持たなかった”女性という伝承に結びついた――)


「……え?」


まち針。

裁縫箱で見慣れた、丸い頭の針。

よく見れば、確かに“穴”がない。


(“穴がない”から“小町針”?)


笑は思わず、もう一度その箇所を読み返した。


(……つまり、小町は……人と“結ばれる”ことができなかった?)


それが身体的な意味なのか、心のことなのか。

どちらなのかは、書いていない。

けれど、小町の和歌のどこかに感じていた“距離”の理由が、 ほんの少しだけ、理解できた気がした。


(恋をしなかったんじゃない。できなかったんだ。)


深くため息をついて、笑はタブレットの画面を見るともなしに目をやった。

すると、1つの言葉が飛び込んできた。


(間もなく玉のように愛らしい姫が生まれた。二人は姫を比古姫ひこひめと名付け、たいそう大事に育てた。)


福島県小野町のホームページ――小野小町の生誕の地の1つとされる地だ。


「小町は“比古姫”と呼ばれていた――?」


(……“姫”なのに、“ひこ”?)


笑は胸がざわめいた。

そして、思わずつぶやいた。


「“彦”って、たいてい男の名前だよね。“〇〇彦”とか……。 じゃあ、“比古”って、“男”って意味?」


ノートに、「比古姫」「まち針」と走り書きしながら、 胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


(“姫”なのに“比古”――男の名前……

……まさか、小町って――)


(――本当は男性だったんじゃ?)


その瞬間、笑はすべてに合点がいった。

だから小町は、あんなにも寂しげだった。

宗貞は、最後まで何も言わなかった。

誰にも言えず、隠して、生きてきたから――

その孤独が、あの和歌に滲んでいたんだ。


その瞬間だった。

吹き抜ける風。

音もなく変わる空気の気配。

笙の音が聞こえるのを待つように、笑はゆっくりと目を閉じた。





――――月の光、薄紅の香。

再び、あの世界に立っていた。

だが、今までとはなんだか様子が違う。

笑はそう感じた。


(私は……私?)


笑が自分の姿を見ると、制服姿のまま。

そう、笑は小野笑その人として、平安時代に立っているのだ。


朱の帳。

白い衣。

舞い散る桜。

そこに一人の女性が立っていた。


「小町、あなたね?」

「……来てくれたのね、小野笑。」


言葉にはならなかった。

けれど、理解していた。


「“比古姫”って……あなたのこと?」


小町は、ゆっくりと頷いた。


「私は――男として生まれ、“姫”として育てられたの。」


その声は、少しだけ震えていた。


「誰にも言えなかった。言えば、終わってしまうから。

“女”として見られてきた時間が、全部崩れてしまうのが、怖かった。」


笑の胸が、締めつけられる。


(この人は……ずっと、秘密を抱えて生きてきたんだ。)


「でも、恋を知らなかったわけじゃない。 歌に込めた想いは、いつも本物だった。」

「……どうして、今それを……私に?」


小町の目が、まっすぐ笑を見た。


「あなたなら、気づいてくれると思ったから。

あなたもまた、自分の中の“言葉”を探している。」


そう言って、小町は微笑んだ。


「私は、自分の正体を語る代わりに―― 和歌にすべてを託したの。」


そう言いながら、小町は懐から包みを取り出した。


「これを、あなたに託すわ。」


そして、そっと笑の手の中に押し込む。

それは、布に丁寧に包まれた、小さな“重み”だった。


「これは、なあに。」

「私が言の葉を紡いできた想いを、あなたの言葉で紡いでほしいの。

私の大切な硯よ……いつか、必ず返しに来て。」


包みをそっと開く、そこにはひとつの硯があった。

縁に筆と蓮の模様が彫ってある。

その硯に、笑は見覚えがあった。


小町は最後に一首の和歌を贈る。


  今はとてわが身時雨しぐれにふりぬれば

      言の葉さへに移ろひにけり


(私はもう、時雨に打たれた身。言葉すらも、色褪せていく。

でも、あなたがいれば……きっと、また言葉は生まれる。)


風が舞う。

小町の姿が、ゆっくりと溶けていく。


「ありがとう、笑。」


最後にそう言うと、小町は消えた。

ただ笙の音だけが、残されていた。





「――――で、つまりね。」


翌日の放課後の教室。

黒板の前に立った笑が、勢いよく振り返る。


「小町って、ほんとは“男”だったのかもしれない!」

「は?」


圭一けいいちの声が間抜けに響いた。


「いやいやいや、何言い出すの!?」


素子もとこがペンを置いて、目をぱちぱちさせる。


「“比古姫”って呼ばれてたんだよ? “比古”は“男”って意味で、“姫”なのに“彦”……この矛盾こそがヒントで!」

「ちょっと待って、そもそもその“比古姫”って本当に小町のことなの?」

「まち針の由来が小町っていう俗信があって、それも“通じない”って意味で……」

「うん……わかった。落ち着け。笑、まず深呼吸ね。」


素子が手をひらひらさせる。


「オカルト漫画かよ。」


圭一は呆れ顔で机に突っ伏す。


「でも、私、ほんとに見たの。夢っていうか、空想っていうか……小町と話したの。硯も渡されたの。うちにある、ひいおばあちゃんの硯とそっくりなやつ。」

「……なるほど。完全に文学少女モード入ってるわけね。」

「なんかもう、ここまで来ると止められないな。」


素子が目をつむって小さくため息をついた。

圭一がぼそっとつぶやく。


「ま、いいか。別に本当の小町が男でも、オレの人生に大して影響ないし。」

「だよね!」


笑がぱあっと明るい顔になる。


「だったら、物語にするよ。小町は男で、“比古姫”だったっていう説……私が書いてみせるから!」

「はいはい、じゃあ私はその挿絵でも描こうかな……気が向いたら。」


素子が苦笑いする。


「俺は読者ってことで。解説とか無理だけど。」


圭一が椅子をガタリと引いて立ち上がる。

笑はノートを抱きしめるように持ち上げて、ぽつりと呟いた。


「いつか、この話を読んだ誰かが――“ああ、小町って、もしかして”って思ってくれたら、それでいいの。」


二人は顔を見合わせて、また小さくため息をついた。


「ま、いいか。」


笑は自分のノートを開いた。

そして、もう一行、そっと書き足した。


「……でも、私は書いてみたい。 あなたの物語を、私の言葉で――」




教室で素子たちと別れた後、笑は1人職員室に向かって歩いていた。


(……先生なら、少しはヒントをくれるかもしれない。)


職員室のドアをノックする。

逆井さかい先生は机の上の書類に目を通していたが、気づくと優しく目を細めた。

机の隅には、開かれたままの薄手の文庫本――「藤村詩集」が置かれていた。


「どうした、小野。」

「……先生、あの……。」


少し躊躇してから、言葉を続けた。


「私、ちょっと……物語を書いてみようかなって思ってて。

でも、どうやったら“伝わる言葉”が書けるのか、よくわからなくて……。」


逆井は一度「藤村詩集」に視線を落とし、そっとそれを閉じた。

その仕草に、どこか胸の奥に触れるような静かな気配が漂う。


「……伝わる言葉、か。」


そう呟いたあと、逆井はしばし黙り込んだ。

それから、一瞬だけ言葉を探すように視線を伏せた。


「……先生にもね。かつて、どうしても伝えられなかった思い出ぐらい、あるんだ。

だから、お前が“伝える”って言ってくれるのは、ちょっと嬉しいよ。」


そう言って微笑んだが、その目はどこか遠くを見ていた。

そして、閉じた詩集の背表紙に、そっと指先を添えていた。


笑は息を呑んだ。

普段は穏やかな逆井先生の言葉に、そんな影が潜んでいることに初めて気づいた気がした。


「……私、がんばってみます。」

「うん。君の言葉で、君だけの物語を書いてごらん。」


逆井はそれだけ言って、再び書類に目を落とした。

笑は静かに頭を下げて、職員室をあとにした。


けれど、その帰り道、先生の遠くを見るようなまなざしと、あの詩集の佇まいが、どうしても心に引っかかっていた。




◇◆◇◇




【次回予告】

「第七章 わが身世にふる ながめせしまに」


小町の和歌「花の色は移りにけりないたづらにーー」。

幻想の中で、笑は小町がすべてを捨て旅立つ姿を見る。

美しさの終わりと、新たな生の始まり――。

和歌は、時を超えて今も誰かの心を揺らしている。



【作者メモ】

今回は「小町=男性」説を取り上げてみた。

それが史実かどうかはわからないが、物語としてはとても魅力的だと思っている。

笑の創作は、ここからさらに広がっていく。

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