第8話「黒い雨のあとで」

30




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平成25年の春。


僕――村田裕一は、小学三年生になった息子の拓也と手をつないで歩いていた。


あの頃と同じ通学路。


でも、街並みはすっかり変わっていた。


木造の家々は消え、商店街のシャッターは降りたまま。いつの間にか、どこにでもある風景になっていた。


もんじゃ焼きの匂いは消えて、車の排気ガスが空気を満たしている。


春の朝、灰色の空。


あの夏も、こんな色だった気がする。


「お父さん、あそこにカラスがいるよ」


拓也が電線を指差した。


確かに、一羽のカラスが止まっている。


僕の心臓が、一瞬ドキッと跳ねた。


30年たった今でも、カラスを見ると体が反応してしまう。


「カラスって頭いいんだってね。テレビで見たよ」


拓也が無邪気に言った。


「人の顔を覚えるんでしょ?」


カラスの影を追う息子の声が、遠い昔の自分と重なる。


僕は複雑な気持ちでうなずいた。


「そうだね。とても頭がいい鳥だよ」


でも、それ以上は言えなかった。


あの夏のことを、拓也に話すことはできない。


学校の前で、拓也と別れた。


「いってきます!」


「いってらっしゃい。気をつけてね」


拓也が校門をくぐっていく姿を見送りながら、僕は昔のことを思い出していた。


30年前の夏。


あのカラスの復讐は、三日間続いた。


四日目の朝、突然すべてが終わった。


まるで嘘のように、カラスたちは姿を消した。


街に平和が戻った。


でも、僕たちの心に平和は戻らなかった。


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あの日から一週間後、僕たちは再び秘密基地に集まった。


七人全員、無事だった。


でも、誰も昔のように笑うことはできなかった。


「河原に行ってみよう」


千春が小さく提案した。


僕たちは無言で河原に向かった。


あの大きな木の下。


ヒナを置いた場所。


そこには、もう何もなかった。


「どこに行ったんだろう」


信吾が鼻をすすりながらつぶやいた。


「死んじゃったのかな」


誰も答えなかった。


でも、きっとそうだろう。


あんなに小さなヒナが、一人で生きていけるはずがない。


僕たちが殺してしまったのだ。


「千春、例のノートを見せて」


芳雄が言った。


千春が観察ノートを取り出した。


あの日から、ずっと書き続けていたノート。


最後のページに、震える字で書かれた文章があった。




千春の文章を読んで、僕たちは泣いた。


芳雄も、健太も、昭二も、敏夫も、信吾も。


みんな、声を上げて泣いた。


あの夏を境に、僕たちは変わった。


もう、前のような子供には戻れなかった。


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中学校に進学すると、僕たちはだんだん疎遠そえんになった。


それぞれ違う道を歩むようになった。


芳雄は高校でラグビー部に入り、体を鍛えることに夢中になった。


健太は美術に興味を持ち、絵を描くようになった。


千春は相変わらず勉強ができて、進学校に進んだ。


昭二は工業高校で電子工学を学んだ。


敏夫は家業の駄菓子屋を継いだ。


信吾は、みんなのことを一番よく覚えていて、時々近況を教えてくれた。


そして僕は、普通のサラリーマンになった。


でも、みんなそれぞれの心の中に、あの夏の記憶を抱えて生きていた。


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拓也を学校に送った帰り道、僕は偶然、昔の仲間に会った。


健太だった。


30年ぶりの再会。


髪は薄くなり、眼鏡をかけていたが、すぐに健太だと分かった。


「裕一?」


「健太か。久しぶりだな」


僕たちは近くの喫茶店に入った。


健太は画家になっていた。


野鳥の絵を専門に描いているという。


「皮肉だろ?」


健太が苦笑いを浮かべた。


「あれだけカラスを怖がったのに、今は鳥の絵ばかり描いてる」


健太のスマートフォンに、作品の写真が保存されていた。


美しいカラスの絵。


羽を広げて飛ぶ姿。


ヒナを守る親ガラス。


「これは?」


僕が一枚の絵を指差した。


三羽の小さなヒナが、大きな木の下で寄り添っている絵だった。


「あの時のヒナだよ」


健太が静かに言った。


「僕の想像だけど。もしかしたら、生きていたかもしれないって思って」


僕は胸が熱くなった。


「そうだな。きっと生きていたよ」


健太がSNSを見せてくれた。


そこには、驚くべき投稿があった。



代表者の名前を見て、僕は目を疑った。



千春が、野鳥保護の活動をしているのだ。


「千春、頑張ってるんだな」


「ああ。あの夏から、ずっと鳥のことを研究してる」


健太が画面をスクロールした。


「それに、これも見てくれ」



代表者は、だった。


芳雄が、カラスと人間の共存を目指す活動をしている。


「みんな、それぞれのやり方でつぐなってるんだな」


僕がつぶやくと、健太が頷いた。


「そうだね。あの夏が、僕たちを変えたんだ」


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その夜、僕は家族に昔の話をした。


もちろん、全部ではない。


子供の頃、カラスが怖かったこと。


仲間と一緒に、いろんなことを考えたこと。


そして、命の大切さを学んだこと。


「お父さんも子供の頃は、いろいろあったんだね」


妻が優しく言った。


「でも、いい経験だったと思うよ。拓也にも、そういう経験をしてほしいな」


僕は頷いた。


でも、拓也には同じような辛い経験をしてほしくない。


もっと優しく、命の大切さを教えてあげたい。


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次の日曜日、僕は拓也を連れて河原に行った。


あの大きな木は、まだそこにあった。


30年前より、もっと大きくなって。


「お父さん、この木、大きいね」


「そうだね。長い間、ここに立ってるんだ」


木の下で、僕たちは弁当を食べた。


拓也が作ったおにぎりと、卵焼き。


「あ、カラスがいる」


拓也が空を指差した。


一羽のカラスが、僕たちの上を飛んでいる。


僕は身構えたが、カラスは何もしなかった。


ただ、ゆっくりと円を描いて飛んでいる。


「きれいだね」


拓也が見とれていた。


「お父さん、カラスって悪い鳥なの?」


僕は少し考えてから答えた。


「悪い鳥じゃないよ。ただ、家族を守ろうとしてるだけなんだ」


「家族を?」


「そう。お父さんやお母さんが、拓也を守りたいと思うのと同じ」


拓也が真剣な顔で頷いた。


「そっか。カラスにも家族がいるんだね」


その時、もう一羽のカラスが飛んできた。


そして、もう一羽。


三羽のカラスが、大きな木の上に止まった。


まるで家族のように、寄り添って。


僕は涙が出そうになった。


もしかしたら、あの時のヒナたちの子孫かもしれない。


30年の時を経て、カラスたちは生き続けている。


僕たちが奪おうとした命が、受け継がれている。


「お父さん、泣いてるの?」


拓也が心配そうに見上げた。


「大丈夫。ちょっとほこりが目に入っただけ」


僕は拓也の頭をでた。


「拓也、約束してくれる?」


「何を?」


「どんな小さな命でも、大切にするって」


拓也が力強く頷いた。


「うん、約束する」


---


帰り道、僕たちは昔の通学路を通った。


駅前の電柱は、新しいものに変わっていた。


でも、上の方に鳥の巣がある。


カラスの巣だった。


「あ、巣がある」


拓也が指差した。


「ヒナがいるのかな」


僕は立ち止まって、巣を見上げた。


中から、か細い鳴き声が聞こえてくる。


「ピィ、ピィ」


30年前と同じ、ヒナの声。


でも今度は、僕に恐怖はなかった。


ただ、新しい命に対する畏敬いけいの念があった。


親ガラスが帰ってきた。


くちばしに虫をくわえている。


ヒナのための餌だ。


僕たちを見ても、威嚇いかくすることはなかった。


ただ、静かに巣に向かっていく。


「お父さん、カラスのお父さんだね」


拓也が嬉しそうに言った。


「そうだね。家族のために、一生懸命なんだ」


僕は拓也の手を握った。


温かくて、小さな手。


この手が、いつか誰かを傷つけることがありませんように。


この手が、いつも命を大切にできますように。


心の中で、僕は祈った。


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その夜、僕は千春からのメールを見つけた。


健太が僕の連絡先を教えてくれたらしい。


30


僕は返事を書いた。



一ヶ月後、僕たちは再び集まった。


場所は、敏夫の駄菓子屋。


30年前と同じ場所。


でも、今度は敏夫の息子が店番をしていた。


奥の座敷で、僕たちは車座になった。


七人全員。


みんな、それぞれ年を取ったけれど、目の奥には昔と同じ光があった。


「あの夏のことを、話そう」


千春が切り出した。


「もう、隠す必要はないから」


僕たちは、ゆっくりと話し始めた。


あの日の恐怖。


あの夜の後悔。


そして、30年間抱え続けてきた気持ち。


芳雄が涙を流した。


「俺は今でも、あのヒナたちの声を覚えてる」


健太が頷いた。


「僕もです。だから、絵を描き続けているんです」


千春が観察ノートを取り出した。


30年前と同じノート。


でも、最後のページに新しい文章が書かれていた。




僕たちは手を重ねた。


30年前と同じように。


でも今度は、誓いではなく、感謝の気持ちを込めて。


あの夏があったから、僕たちは大人になれた。


痛みを知ったから、優しさも知ることができた。




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翌日、僕は拓也と一緒に公園を歩いていた。


ベンチに座って、空を見上げる。


雲がゆっくりと流れている。


そこに、一羽のカラスが飛んできた。


ゆっくりと、まるで僕たちに挨拶あいさつするように。


「あのカラス、お父さんを知ってるみたい」


拓也が不思議そうに言った。


僕は微笑ほほえんだ。


「そうかもしれないね」


カラスは一度鳴いて、どこかに飛んでいった。


まるで「ありがとう」と言っているみたいに。


ふと見上げると、黒い羽がゆっくりと空に溶けていく。


カラスの声は、もう恐怖ではなかった。


それは、命が続いていく証のように思えた。


僕は立ち上がって、拓也の手を取った。


「帰ろうか」


「うん」


家に向かう道すがら、僕は空を見上げた。


青い空に、白い雲。


そして、時々飛んでいく黒い影。


30年前の僕たちは知らなかった。


命の重さも、責任の意味も。


でも、あの黒い雨のあとで、僕たちは学んだ。


痛みを通して。


後悔を通して。


そして、時間を通して。


今、僕は胸を張って言える。


あの夏は、僕たちにとって必要な経験だった。


辛かったけれど、大切な学びだった。


拓也の手を握りながら、僕は誓った。


この子には、もっと優しく命の大切さを教えよう。


僕たちが体験した痛みを、この子が味わう必要はない。


でも、命に対する畏敬の念は、しっかりと伝えよう。


空の向こうから、カラスの鳴き声が聞こえてきた。


それは、もう恐怖の声ではなかった。


ただ、命あるものの歌声だった。


僕たちは、ついに和解したのかもしれない。


あの黒い雨のあとで。










  

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黒い雨のあとで セクストゥス・クサリウス・フェリクス @creliadragon

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