第5話「黒い城への突撃」

午後四時。西日が街を赤く染める中、七人の小さな戦士たちは、ついに動き出した。


いや、六人だった。敏夫は熱で欠席している。


でも、僕たちはもう止まれなかった。


---


水曜日の朝、空は鉛色に曇っていた。


教室の空気も重く、誰もが窓の外を気にしている。


「本当に雨が降るのかな」


健太が心配そうにつぶやいた。ポケットの中でビー玉を転がしている音が、やけに大きく聞こえる。


「天気予報では午後から」


千春が図書室から借りてきた天気図を見ながら答えた。


「低気圧が近づいてる。夕方には本格的な雨になるはず」


僕は時計を見た。午前十時。


あと六時間で、僕たちの運命が決まる。


昼休み、僕たちは保健室の前で待ち合わせた。敏夫の様子を確認するためだ。


「熱は下がったかな」


信吾が鼻をすすりながら心配そうに言った。


保健室を覗くと、敏夫がベッドに横になっていた。顔が真っ赤で、額に冷たいタオルを載せている。


「敏夫」


僕が小さく声をかけると、敏夫がゆっくりと振り返った。


「みんな...」


「大丈夫か?」


芳雄が心配そうに近づいた。


「熱が下がらない。三十八度五分もある」


敏夫の声はかすれていた。


「今日の作戦は...」


「無理するな」


芳雄が首を振った。


「俺たちでやる」


「でも、物資が...」


「大丈夫。昨日もらったものがある」


千春が優しく言った。


「あなたは治すことに専念して」


敏夫の目に涙が浮かんだ。


「ごめん、みんな。役に立てなくて」


「何言ってるんだ」


健太がビー玉を握りしめた。


「敏夫がいなかったら、作戦なんて立てられなかった」


「そうだよ」


信吾が大きくうなずいた。


「敏夫の分も頑張る」


僕たちは敏夫の手を順番に握った。熱で火照った小さな手。でも、しっかりと僕たちを握り返してくれた。


午後の授業は、まったく頭に入らなかった。


算数の時間も、国語の時間も、窓の外の空ばかり見ていた。


雲がどんどん厚くなっている。


三時半。


ついに雨がぽつぽつと降り始めた。


「やった」


健太が小さくガッツポーズをした。


四時のチャイムが鳴った。


僕たちは教室を出ると、別々の方向に向かった。


まるで何も知らない振りをして。


でも、胸の奥では心臓がドキドキと鳴っている。



駅前の商店街は、雨でしっとりと濡れていた。


傘を差した人々が足早に歩いていく。


僕は約束の場所――駅前の花屋の陰に身を隠した。


時計を見る。四時十分。


芳雄が現れた。ランニングシャツの上にビニール合羽がっぱを着ている。


次に千春。いつもの眼鏡にレインコートを着込んで。


昭二は小さなラジオを防水のビニール袋に入れて抱えている。


信吾が最後にやってきた。大きな傘を差して、軍手をはめている。


「健太は?」


芳雄が首を回して探した。


「あそこ」


千春が指差した。


商店街の角に、健太の姿が見えた。ポケットからビー玉を取り出して、手のひらで転がしている。



僕たちは目標地点を見上げた。


駅前の電柱。


高さは八メートルほど。てっぺん近くに、カラスの巣がある。


黒い毛玉みたいな塊が、電線の間に挟まっている。


「親ガラスは?」


千春が双眼鏡で確認した。


「いない。餌を探しに行ったみたい」



芳雄が昭二に合図した。


昭二がラジオのスイッチを入れる。小さなマイクに向かって話した。


「こちら基地。作戦開始」


健太の位置からも、かすかに「了解」という声が聞こえた。


芳雄が電柱に近づいた。


雨で濡れた電柱は滑りやすそうだ。でも、芳雄は慣れた様子で登り始めた。


一メートル、二メートル。


順調に高度を上げていく。


そのとき、遠くからカラスの鳴き声が聞こえた。


「ギャアア!」


「やばい、戻ってきた」


千春が双眼鏡を覗きながら叫んだ。


「芳雄、急いで!」


僕も電柱を見上げた。芳雄はまだ半分くらいの高さだ。


カラスの鳴き声がどんどん近づいてくる。


「健太!」


昭二がマイクに向かって叫んだ。


商店街の角から、健太がビー玉を投げた。


虎目石とらめいしの美しいビー玉が、雨の中を弧を描いて飛んでいく。


近くの看板にカン!と当たって、大きな音を立てた。


親ガラスの注意がそちらに向いた。


「ギャア! ギャア!」


怒り狂ったような鳴き声。でも、健太の方に向かっていく。


そのすきに、芳雄がさらに登った。


あと二メートル。


巣まであと少しだ。


でも、親ガラスが健太の正体に気づいた。


人間の子供だと分かると、さらに激しく鳴き始めた。


「ギャアアア! ギャアアア!」


そして、こちらに向かって飛んでくる。


「芳雄、急げ!」


僕が叫んだ。


芳雄が巣に手を伸ばした。


枝と泥でできた粗末な巣。でも、その中に小さな命がいる。



巣の中から、か細い鳴き声が聞こえてきた。


ヒナの声だ。


「兄ちゃん!」


信吾が叫んだ。


親ガラスがこちらに向かってくる。もう時間がない。


親ガラスの影が空を切る。


芳雄が巣をつかんだ。


でも、思ったより頑丈で、なかなか外れない。


雨が地面を叩く音だけが響く。


親ガラスがますます近づいてくる。


「危ない!」


千春が叫んだ。


そのとき、信吾が持っていた傘を振り上げた。


「おりゃあ!」


大きな傘が、まるで盾のように親ガラスを威嚇いかくした。


親ガラスが一瞬怯ひるんだ。


その隙に、芳雄が力いっぱい巣を引っ張った。


バキッ。


巣が枝から外れた。


でも、勢いで芳雄がバランスを崩した。


「あ!」


芳雄が電柱から落ちそうになる。


僕は咄嗟とっさに電柱の下に駆け寄った。


芳雄が落下してくる。


巣を抱えたまま。


僕たちは必死に手を伸ばした。


ドサッ。


芳雄が僕たちの上に倒れ込んだ。


みんなで受け止めたので、大きな怪我はない。


でも、巣が地面に落ちて、中からヒナが飛び出した。


三羽の小さなヒナ。まだ羽根も生えそろっていない。


必死に鳴いている。


「ピィ、ピィ、ピィ」


その声を聞いて、親ガラスが狂ったように鳴き叫んだ。


「ギャアアアア!」



僕はヒナを見下ろした。


「これで、よかったんだよな……?」


でも、答えは誰にも分からなかった。


僕たちは慌ててヒナを段ボール箱に入れた。


敏夫が用意してくれた、小さな段ボール箱。


「急いで河原に!」


芳雄が立ち上がった。膝から血が出ているけれど、動ける。


僕たちは雨の中を走った。


段ボール箱を大事に抱えて。


商店街の古いシャッターが音を立て、濡れた舗装で長靴がガタガタと響く。


後ろから、親ガラスの慟哭どうこくが追いかけてくる。


空の向こうから、何羽ものカラスがこちらを見下ろしているような気がした。


雨が激しくなっていた。


僕たちの頭も、服も、びしょ濡れになった。


でも、止まるわけにはいかない。


河原に着くと、僕たちは大きな木の下にヒナを置いた。


雨宿りできるような場所を選んで。


「ここなら安全だ」


芳雄がつぶやいた。


でも、本当に安全なんだろうか。


ヒナたちは小さな体を震わせて鳴いている。


「ピィ、ピィ、ピィ」


まるで僕たちに助けを求めているみたいに。


でも、僕たちにはもう何もできない。


「行こう」


千春が小さく言った。


僕たちは河原を後にした。


でも、足が重かった。


何度も振り返りそうになった。


振り返ると、三羽のヒナが寄り添って震えていた。


雨の中、とても小さく見えた。


誰も、家に帰るまで一言も口をきかなかった。


雨音と、カラスの悲鳴だけが耳に残っていた。


そして、遠くから聞こえてくる親ガラスの鳴き声。


それは、もはや怒りではなく、悲しみの声だった。


僕たちが家に着く頃には、雨は本降りになっていた。


でも、僕の心の中も、雨が降っているような気がした。






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