第6話「勝利の夜、眠れぬ夜」
敏夫の駄菓子屋の奥座敷。勝利の
「やったな」芳雄が言った。でも、その声に力はなかった。
座敷の仏壇から漂う線香の匂いが、なぜか今日は重く感じられた。いつもなら金魚すくいの金魚が泳ぐ水槽を眺めて騒ぐ信吾も、今日は鼻をすすることさえ忘れて黙り込んでいる。
「本当に、やったんだな」健太が大切なビー玉を手のひらで転がしながらつぶやいた。
昭二の改造ラジオからは、いつものように「九ちゃんの歌」が流れている。でも、その陽気なメロディーが、妙に場違いに聞こえた。
### 外からの不吉な音
その時だった。
「カァ、カァ、カァ…」
外から、低くうなるような鳴き声が響いてきた。
千春が身を震わせた。「ね、ねえ…外、聞いて」
みんなが耳を澄ませた。それは単なるカラスの鳴き声ではなかった。まるでお経を
「何羽いるんだ?」芳雄が窓に近づこうとした。
「だめ!」千春が止めた。「見ちゃだめ」
「私…あの時、ヒナの顔を見ちゃった」千春の声が震えていた。観察ノートを膝に抱えて、
「まだ目も開いてなくて…でも、口を開けて何か鳴こうとしてた」
信吾がついに鼻をすすった。いつもの音なのに、今夜はそれさえ悲しく聞こえる。
「親鳥を呼んでたのかな」健太が小さな声で言った。
その瞬間、大切にしていたビー玉が健太の手から滑り落ちた。畳の上で転がって、仏壇の足にぶつかって止まる。
カチッ。
小さな音だったのに、みんなが飛び上がった。
昭二が慌ててラジオのダイヤルを回した。
「ニュースでも聞こうか。何か他のことを…」
ニュース番組が始まった。アナウンサーの落ち着いた声。
「今日の気温は25度。明日は曇りのち雨の予報です。続いて地方ニュース。市内で発生していたカラス被害について、市議会で対策が検討されることになりました」
昭二が慌ててダイヤルを回した。でも、どの局も同じような内容。僕たちの「戦争」のことなど、大人の世界では小さなニュースでしかなかった。
奥から、敏夫の母親の声が聞こえてきた。
「お父さん、外がうるさいわね。カラスがずっと鳴いてる」
「そうだな。近所の人も困ってるみたいだ」
敏夫の父親の声。いつも優しい駄菓子屋のおじさんの声が、今夜は心配そうに響く。
「子供たち、奥で何してるの?」
「友達と勉強会だって」敏夫が慌てて答えた。
でも、その嘘が胸に刺さった。勉強会?僕たちがやったのは、勉強とは正反対のことだった。
「ヒナがかわいそうだった」
突然、信吾が泣き出した。いつも鼻水を垂らして強がっている信吾が、声を上げて泣いている。
「怖かった。落ちる時、ヒナが鳴いてた」
芳雄が信吾の肩に手を置いた。でも、慰める言葉が見つからない。
「俺たちは正しいことをしたんだ」芳雄が言った。でも、その声に確信はなかった。
「私たち、何してしまったの?」
千春が観察ノートを開いた。そこには、カラスの行動パターンが
「ここに書いてある。『カラスは家族を大切にする。特に子育て中は、巣から500メートル以内に近づく者を激しく攻撃する』」
千春の指が文字を追う。
「『親鳥は、ヒナのために命がけで戦う』…私、これを知ってたのに」
健太が床に落ちたビー玉を拾い上げた。よく見ると、小さなひびが入っている。
「割れちゃった」
健太にとって、このビー玉は宝物だった。小学校に入学した時、亡くなったおじいちゃんからもらった大切な物。
「大丈夫だよ、まだ使える」芳雄が言った。
でも、健太は首を振った。「もうだめ。ひびが入ったビー玉は、まっすぐ転がらない」
その言葉が、なぜかみんなの心に突き刺さった。僕たちも、もうまっすぐには戻れないんだ。
外のカラスの鳴き声が、だんだん激しくなってきた。
「カァーッ!カァーッ!」
まるで怒りと悲しみが混じったような、聞いたことのない鳴き声。
昭二がラジオの音量を上げた。でも、カラスの声はそれを上回って聞こえてくる。
「明日、学校で何て言われるかな」敏夫がつぶやいた。
「知らん顔してればいいさ」芳雄が答えた。でも、その声は震えていた。
午後10時を過ぎても、カラスは鳴き続けていた。
敏夫の家の時計が時を刻む音。仏壇の線香の匂い。金魚すくいの金魚がゆらゆらと泳ぐ音。
でも、それらすべてを飲み込んで、外からは延々とカラスの声が響いている。
「帰ろう」芳雄が立ち上がった。
みんなが無言で立ち上がる。いつものように「また明日」と言えなかった。明日、僕たちはまだ友達でいられるだろうか。
家路につく途中、信吾が振り返って言った。
「ねえ、僕たち、悪いことしたのかな」
誰も答えられなかった。
街灯の下を歩く七人の影が、いつもより小さく見えた。頭上では、見えないカラスたちが、まだ鳴き続けている。
深夜3時。ついに鳴き声が止んだ。でも、その静寂は、嵐の前の静けさだった。
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・(現代の声)勝利の実感なんて、どこにもなかった。あったのは、漠然とした不安と、取り返しのつかないことをしてしまったという予感だけ。子供の正義感は、時として残酷な結果を生む。それを僕たちは、あの夜初めて知った。・
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