第34話 あふれる愛を唇に
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桐吾はふるえそうになる手でハンドルを握り帰宅した。こんなに安全運転が難しかったことはない。動揺から視野が狭くなるし、交通法規を無視して突っ走りたいのをかろうじて我慢した。深呼吸しながらマンションに車を入れる。
「――澪!」
「やっと来たか。部屋におるぞ」
玄関を入るなり叫んだのを白玉が冷ややかに迎えた。そのにらむような視線に心が凍る。
もしやもう、危ないのか。
「澪の部屋だな」
鞄を放り出しコートを脱ぎ捨てると、桐吾はノックもせずにドアを開けた。
ピクン。横たわっていた澪がゆっくり顔を動かす。
桐吾を見るまなざしは力なく、だが澪は幸せそうに微笑んでいた。
「……桐吾、さん」
「澪、大丈夫か」
「あれ、まだ明るい……お仕事は?」
「おまえが倒れたと聞いて帰ってきた」
桐吾はマットレスの脇に膝をついた。
ベッドの枠は購入せず、とりあえずのしつらえでしかない澪の部屋。だって澪と桐吾はいつまで一緒にいるかわからなかったから。
〈契約夫婦〉。そんな二人の関係は果てしなくもろい。
「澪――消えないでくれ」
懇願し、桐吾は手を伸ばした。布団の上からすがりつく。
澪との絆をもっと強く結んでおけば。後悔が心を締めつけた。
両手で包んだ澪の頬は冷たくて、桐吾も凍りつきそうになる。目尻に涙がにじんだ。
「澪。澪。おまえがいなきゃ俺は――」
「……やん、待って桐吾さん。消えるってなあに」
「は?」
頬を押さえられて微妙にもごもごしながら澪が言った。びっくりして目を見開いている。
「私ちょっと疲れちゃったけど、寝てれば平気よ。だって――」
布団ごと抱きしめられながら澪はもじもじした。
神気は使った。かなり使った。それは飛んだ距離が遠かったのと、見知らぬ場所へという難しさからだろう。なので疲れてフラフラになりはしたのだが――澪は消えたりしない。
だってもう、澪の中に〈愛〉はあった。
うとうと眠りながら、澪は想っていた。
手をつなぎ、頭をなで、抱きしめてくれた桐吾。
にらまれ子ども扱いされ憎まれ口を叩かれることもあったけど、とろけるようにやさしいまなざしもくれる人。
(大好き――桐吾さん。桐吾さん)
そう念じながら眠っていたら、神気は回復してきていた。
〈愛〉はもらうだけではない、自分で生み出すこともできるから。
「――私、大好きなものがたくさんあるでしょう? そのことを考えていれば消えたりしないの。だいじょうぶ」
恥ずかしいので「桐吾のことを想っていた」とは言わなかった。だって桐吾があんまり近くて無理。澪のことを絡めとるように見つめる桐吾のまなざしが熱く、澪の顔はいっきにホテホテになった。
桐吾はぼう然と澪を見つめる。白玉は今にも澪があぶないと言わんばかりだったが――。
「澪――つまり自家発電できると」
「ごめんなさい、その言葉わからないわ」
澪は視線だけを横にそらした。いたたまれない。心配かけたうえに、やっぱり物知らずだなんて。
だけど澪の上に桐吾が降ってきた。ずっしりのしかかられる。耳の横で桐吾の盛大なため息が聞こえた。
「と、桐吾さん」
「よかった――」
桐吾のうめき声は安堵に満ちていた。白玉にだまされたらしいが、それもどうでもよくなった。澪はぎゅう、と抱きしめられる息苦しさの中で思い出した。
『消えないでくれ。おまえがいなきゃ俺は』
さっき桐吾はそう言わなかっただろうか。寝起きにいきなりでぼうっとしていたけれど、確かそんな台詞を聞いた気が。
「あの、桐吾さん」
澪はすぐ隣にささやいた。互いの頬がふれている。
「私のこと、そんなに心配してくれて」
「あたりまえだろう」
わずかに桐吾が体を起こした。鼻がかすりそうな距離で澪をにらむ。
「澪は俺の妻だ――もう契約だなんだと誤魔化すのはやめる」
「桐吾さ――」
「ここにいてくれ。俺はもうおまえを放さない。文句ないな?」
吐息のように愛の言葉をぶつけられ、澪は何も言えない。かすかにうなずくと桐吾のまなざしに甘さが宿った。
「澪――」
つぶやきと共に、唇が澪の上に落ちてきた。
✿ ✿
「――これでバッチリですかしら。メールの情報をいただけたおかげですわ、あなたと組んで正解でした」
「こちらこそ」
桐吾に軽く頭を下げているのは桜山守向日葵だ。桐吾の手には素っ気ない茶封筒。SAKURAホールディングスから久世正親に渡った金に関する調査書だった。
ここは最初に向日葵と会ったのと同じ、公園内のカフェだった。
あの時は秋だったが季節はすっかり進み、木々は寒々しく枝を広げていた。屋外のテーブルに陣取る客は他におらず密談には最適――ただ、大柄な美男美女という二人の見た目は少々人の目を惹いている。
白玉が持ち帰ったUSBメモリ。そのメールファイルからSAKURAホールディングス側の窓口が判明した。それを基に向日葵も水面下で社内を調査。久世建設との癒着の証拠を揃えている。
今日は互いの成果を交換するためにアポを取ったのだった。どちらの社もこれらの情報を基に公式の調査を行うことになるだろう。関わった者たちの処分はそれからだ。
「弾劾実行は年明けですわね。ふふふ、のうのうとしていられる最後の正月を楽しむがいいのですわ!」
「……どうしてそう勇ましいんです、あなたは」
うんざりした顔で桐吾は突っ込んだ。それを見て向日葵が片眉を上げる。
「あら、そんなふうに感情をあらわにしてくださるなんて。わたくしに心を許していらっしゃる? それとも――あちらの可愛い方に感化されまして?」
向日葵がチラリと視線を動かした先にいるのは、公園内を散歩している澪だった。今日は白猫姿の白玉を連れている。
葉を落とした鈴懸の梢。
その向こうに建ち並ぶ高層ビル。
見上げる澪の長い髪を冬の風がさらう。ながめた桐吾の頬に笑みが浮かんだ。
「――そうですね。澪のおかげです」
「あらまあ。ごちそうさまですわ」
向日葵にからかわれても桐吾は気にかけない。澪を愛して何が悪い、と最近は開き直ってきていた。
これまでの桐吾が心を隠し続けていたのは、久世の家の中で弱みを見せないため。能力と上下関係を基準に動く歯車として、自分を作ってきたからだ。
でももう、そうしなくていいとわかった。
『放さない。文句ないな』
そんな乱暴で上からの言い方しかできない桐吾のことを、澪は受け入れてくれた。息もつがせないほどの口づけを抱きとめてくれた。
愛して、そばにいる。家族などそれでいいのだ。ただそれだけで。
澪がカフェのテラス席をふり返った。桐吾が顔を向けていることに気づいたのか、大きく手を振ってくる。桐吾も手を上げて応えた。帰り支度をしながら向日葵は苦笑いだ。
「ふふ、澪さんったら子どもみたいに」
「素直でいいでしょう?」
コートの裾をひるがえし、澪は駆け戻ってくる。ともに走る白玉の足取りも軽やかだった。外に出ると邪気をたっぷり補給できるから。
「――桐吾さん!」
「おかえり。おもしろいことはあったか」
「木にとげとげの丸い実がたくさんついてたわ。食べられなそうだったけど」
「収穫するのはやめてくれ」
どうでもいい報告と軽口。そんなことが幸せだと感じる。
向日葵に会釈をすると桐吾は澪の肩を抱き、歩き出した。
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