第29話 本家へ


「消える――というのは、姿を消して別のところにあらわれるのではなく、だな」

「そうね。今みたいのじゃなくて、私がいなくなっちゃうってこと」


 澪はちょっと寂しげに肩をすくめた。


(できれば、そんなことにはなりたくないな。今とっても幸せだもの)


 桐吾のそばにいたいから、ちゃんと気をつけるつもりはある。


「白玉がちょこちょこ邪気を食べているでしょ? そういうふうに、私も神気をおぎなえばいいんですって」

「おぎなう――」

「え、ええ。つまりその」


 ごにょごにょ。澪は言葉に詰まって頬を赤らめた。

 愛し愛されたい、だなんて口にできない。


「ささ、お風呂わいてますよ。さっぱりしてきて下さいな」

「あ、ああ」


 桐吾の方も澪のためらいは感じ取った。そそくさと風呂に向かう。澪への「愛」ならいくらでも注いでやりたいと思ったが、言葉にはできなかった。


 そんな二人のやり取りを、白玉は猫のまま床で聞いている。


(ほんっとーに! じれったい! 馬鹿者どもめがッ!!)


 最近の白玉は真剣に悩み始めていたのだ。澪と桐吾は想い合っていると感じる。なのに遠慮ばかりしていてどうにも決め手に欠けた。

 それはもしや、自分の存在が二人の進展の邪魔になっているからでは。


 家にいても完全な二人きりにはなれない。

 白玉が明確な知性を持った祟り猫だと知っている状態で、桐吾としては猫の耳をはばかり澪を押し倒しにくいのだろう。同じオスとして桐吾に同情したくなった。それに白玉とて澪の嬌声を盗み聞きしたいわけでもない。


(我は、家出するべきであろうか……)


 遠い目をして考える白猫。その物思いに気づかない澪は、やわらかな笑顔で白玉に水と猫缶を用意していた。



 ✿ ✿



「あの、私うまくできるでしょうか……」

「大丈夫、俺がついてる」


 助手席から降り立つ澪は、久しぶりの和装だった。

 この世にあらわれた時の着物はきちんと手入れして置いてあったが、今日はそれに新しい帯と小物を合わせて美容院で着付けてもらっている。髪も今風の軽やかなまとめ髪にし、華やかに飾った。


 桐吾の運転でやってきたのは久世の本家だ。街中なのに純日本家屋のゆったりした家に車をつけ、訪ねるのは祖父・忠親。

 本家に澪のことを紹介し、ついでに――伯父の背任について内密に調査を願い出るつもりだった。


「爺さまに頭を下げたら、後はニコニコしていればいい」

「ええ……でも、白玉がいないんだもの」


 澪が不安げなのはそのせいもある。

 桐吾の家族に挨拶するにあたり飼い猫を連れてくるのは非常識だろう。やむなく白玉は留守番にしたのだが、なんとなく落ち着かなかった。たぶん祟り神の先輩として頼りにしているのだ。

 桐吾としてはその点がやや不満。自分がいるのに、と苦々しく思った。


「澪」


 ス、と手を取る。両手でやさしく包んだ。


「俺がいると言っただろう。何も問題ない」


 ピシリとスーツを着こなす桐吾に微笑まれ、澪は耳まで赤くなってしまった。


(こんな甘い顔をしてくれる桐吾さんなんて、あまりないわ)


 最近持たせてもらったばかりのスマホで写真を撮りたくなった。そしたら桐吾の留守中、たまにながめてニヨニヨしたい。でも今ごそごそとカメラを向けたら冷たい目でにらまれそうだ。


 この甘さは、今が〈夫婦〉として振る舞うべき舞台だからだろうか。

 桐吾はしっかり身を固めることを示し、久世の一族としての立場を強固にするために祖父への目通りを願ったのだ――伯父を告発するためにはそれぐらいの覚悟がいる。


 正面玄関に近づくと、そっと戸が開けられた。頭を下げて迎えたのは桐吾とも顔なじみの面々。年配の男女だった。


「お帰りなさいませ、坊ちゃま」

「その言い方はよしてくれ清水。元気にやっているか」

「この通りです」


 清水と呼ばれた彼らは長年久世の本家に仕えてきた夫婦だった。つまり桐吾が引き取られた当時も知っている大ベテラン。親を亡くした桐吾を世話してくれた人たちだ。

 少年の桐吾に対しても「甘やかすな」という忠親の厳命に従い態度はわりと素っ気なかったらしい。だけど澪には感じられた。


(桐吾さんのこと、大切に思ってくださってる)


 この感覚は、愛に敏感な祟り神だからだろうか。澪はやわらかく微笑み、二人に一礼した。


「――これが澪。俺が妻に迎える人だ」

「まあ、こんな美しいお嬢さんをお連れになるなんて。忠親さまもお喜びでしょう。お待ちになっていますよ」


 奥を預かる清水夫人の方はさすがに目を細め、嬉しげにする。表面に出てしまったその歓迎の仕草に桐吾もやや安堵した。


  ✿


「ほう。美人じゃな」


 忠親は澪を見るなりそう言った。だが孫の嫁に会えた喜びというより値踏みする目のような気がする。澪はそっと畳に手をつき、頭を下げた。


「――澪と申します」

「うむ。作法もなっておる。どこに出ても恥ずかしくない嫁なのは肝心じゃ。それで桐吾、正親の話だな?」


 あっという間に視線を外され、澪はぼんやりした。


(え。お爺さま、私には興味がない……ということ?)


 座布団をすすめられることもなく話が変わってしまい、澪は動けない。桐吾はため息を隠して声をかけた。


「澪は仕事の話に口を出さなくていい。清水、いるか」

「はい」


 今入ってきた襖が開くと、案内してくれた清水夫人がいた。


「澪を別室へ。茶でも出してくれ」

「かしこまりました」


 桐吾にとってこの忠親の反応は織り込み済みだった。

 澪の身上書は(適当に捏造して)提出してあるし、それに問題がなければ忠親として文句はないはず。あとは澪があまりに不健康で子が産めるか危惧されるとかでなければケチはつけられないと思っていた。そんな憶測は澪に失礼だと考えて胸にしまっておいたが。


「しばらく待っていてくれ」

「……はい」


 素直に微笑んで退出する、澪の従順さ。それも忠親にとって好ましいはずだった。


  ✿


 庭に面した小ぶりな部屋に、澪は通された。

 松と池と石の庭園は手入れが行き届いている。光が差し込む広縁に座布団を置いたら白玉が喜ぶだろうと思った。


「本当に申し訳ありませんわねえ」


 紅葉をかたどった練り切りをそっと置いた清水夫人が苦笑いする。


「旦那さまはご家族との接し方があまりお得意とは言えませんので」

「え……あの、そんな」

「旦那さまには言いつけないでくださいましね」


 ほほ、と笑いながら清水夫人は目を潤ませる。


「坊ちゃまは、ずっと気を張ってお育ちになったんですよ。おおっぴらに甘える相手もいらっしゃらずに……私どもも身の回りを気にするぐらいしかさせていただけませんでしたし」


 澪はこくんとうなずいた。そのあたりのことは聞かされてから来た。清水夫妻はきちんとした使用人だと桐吾も認めていたのだ。厳しかったのは祖父と、久世の一族の目。


「清水さんのことは、よく面倒をみてもらったと桐吾さんが」

「まあ嬉しい。坊ちゃまったら我慢強くてちっとも泣き言をおっしゃらないので、お世話のしがいはありませんでしたけど」


 そう言う笑顔から、もっと甘えて頼ってもらいたかったとの思いがにじむのを澪は感じ取った。


「これからは――どうぞ澪さま、坊ちゃまをよろしくお願いいたします」


 お盆を横に置いて深々と頭を下げる清水夫人に、澪も座布団を降りた。そっと畳に手をつく。


「こちらこそ、よろしくお願いします――また今度、桐吾さんが子どもだった頃のことを教えてくださいますか?」


 小首をかしげてねだると、清水夫人は嬉しそうにうなずいてくれた。


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