第6話「雨はまだ降らない」

 雨の気配は、まだない。

 けれど榊真澄の胸の奥では、何かが静かに崩れ始めていた。


 


 仁藤は逃げた。燈は命を取り留めた。

 だが、それだけでは終わらない。

 燈のノートには、確かに記録されていた。過去十数年にわたる人身売買、臓器売買、そして——名前を持たぬ子供たちの「リスト」。


 


 榊はページを一つ一つ、ゆっくりと捲る。


 中には燈自身の過去も記されていた。


 「少年院」の記録。

 「戸籍なき収容」。

 「被験体Z-17」というコード。

 そして、“仁藤に拾われた日”の記録。


 


 ——その全てを知った上で、榊は燈の病室のドアを開けた。


 



 


 病室には、朝の光が静かに差し込んでいた。


 燈はベッドの上でノートPCを広げていたが、榊に気づくとゆっくりと閉じた。


 


 「来ると思った」


 「お前の“選択”を聞きに来た」


 「……まだ決めてない」


 「もう決めてる顔だ」


 


 燈は笑わなかった。ただ、視線を榊に向けたまま、言った。


 


 「俺は、あのノートを公開するよ。ネットに流す。“炎上”させる。……でも、俺の名前は出さない。

 それが条件。“きさき”として、あんたが名を出すんだ。記者会見でも、内部告発でも、警察への提出でも——方法は任せる」


 


 榊は、わずかに眉をひそめた。


 


 「……お前は、このまま“影”でいるってことか」


 「俺は、日が当たる場所にはいられない。あそこに戻る気もない。仁藤に拾われて、使われて、壊された。

 今さら“正義”なんて、語れるわけない」


 


 榊はゆっくりと歩み寄り、ベッドの脇に立った。


 


 「名前を出さなきゃ、また“誰か”が消されるぞ。お前が残した資料だけじゃ足りない。

 “語る声”がなければ、この街は変わらない」


 「わかってる。でも俺じゃダメなんだ。……なぁ、榊。

 お前が語れ。お前なら、誰かを“選べる”。」


 


 静かな沈黙。

 医療機器の電子音だけが、空間を区切っている。


 


 やがて、榊は口を開いた。


 


 「……お前を“選ぶ”ってことだな。俺の名前で、お前の証言を、世に出す。

 “俺が守りたかった男”の物語として」


 


 燈は目を閉じた。


 


 「そういうの……重いな」


 「知ってる。だから背負うんだよ。俺は、もうあの夜から、お前を撃てなかった。

 今さら、“助けただけ”じゃ終われない」


 


 燈は静かに笑った。

 かすかなその笑みは、諦めでも、感謝でもなかった。


 ——共犯者に向けるような、諦念と愛情の入り混じった、どうしようもない笑みだった。


 



 


 翌週、匿名リークとして拡散されたデータは、一夜にして国内メディアを席巻した。

 警察、官僚、政治家、裏組織の連携。デジタル化された児童記録の抹消プロセス。

 全てが、“ある一人の男が拾ったノート”に記録されていた。


 


 榊の名前も、報道に現れた。


 “元・警官。事件の内部証人”——そう記された彼の言葉に、誰が真実を感じ、誰が嘘と切り捨てたのか、それは分からない。


 


 だが、確かに「声」は届いた。


 


 そして。


 燈は姿を消した。


 




 


 それから一ヶ月後。

 榊は、あのカフェの跡地に立っていた。

 シャッターは降りたまま。張り紙の一枚もない。ただ静かな風が吹いていた。


 


 ポケットの中には、一枚の紙片。


 そこには、燈の筆跡で、短くこう書かれていた。


 


 《——雨が降るころ、また会おう。今度は、お前が俺を見つけろ》


 


 その文字を見て、榊は短く笑った。


 


 「……雨は、まだ降らないか」


 


 

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