最終話「そばにいて」
それは、湿った風の朝だった。
気象庁は「梅雨入り」を発表し、街ではコンビニの傘が次々と売れていた。
榊真澄は、名刺を一枚も持たずに働いていた。
あれから、警察もメディアも彼を放した。
内部告発を終えた証人には、保護という名の無関心が与えられる。
今は、小さなNPOのスタッフだ。
“名前を失った子供たち”を保護し、記録し、再びこの社会に繋ぎ直す——それが、彼の選んだ「償い」だった。
それでも、夜になると時折、あの夢を見る。
雨の中、背を向けて歩く一人の男。
追っても、呼んでも、決して振り向かない。
影だけが濡れていく夢だ。
その日、彼は珍しく傘を差さずに街を歩いた。
梅雨の最初の雨。
しとしとと降る静かな粒が、シャツの肩を濡らす。
歩道の端にある古い時計塔の前。
その足元で、誰かが煙草を吸っていた。
細身の背中。
黒のジャケット。
そして、振り返る前から、榊は確信していた。
——如月 燈(きさらぎ・ともる)。
「……来たんだな」
榊がそう言うと、燈は火のついた煙草を片手に、ゆっくり振り返った。
「雨が降ったからな」
「探したぞ」
「探させたんだよ」
二人は笑い合った。それは、どこか静かな、失われた時間を埋め合うような笑みだった。
「名前、戻ったんだろ」
榊が訊くと、燈は小さく首を振った。
「戻してない。今の名前は、偽名のまま。でも、もうそれでいいと思ってる。
本名なんて、誰かの記録のためにあるもんじゃない。俺は、俺が選んだ“俺”でいい」
榊は頷いた。
「そうか。なら、それでいい」
しばらく雨の中で立ち尽くす。
すれ違う人々は二人を気にせず、ただ傘の下を通り過ぎていく。
世界は、変わらない。
けれど——
彼らの内側は、変わった。
燈はふいに、ポケットから何かを取り出した。
それは、小さな鍵だった。
「なんだ」
「前にあったカフェ。跡地は今、俺が借りてる。まだ何もないけどさ……。
中、見ていく?」
榊は目を細めた。
「“次はお前が見つけろ”って言ったくせに、結局自分から誘うのかよ」
「悪いか」
「……いや、ありがたい」
二人は、並んで歩き始めた。
同じ傘に入るわけではない。
それでも、その距離は、もう二度と離れることはないと思えた。
店の中は、まだ何もなかった。
剥き出しのコンクリ壁。むき出しの配線。
それでも、燈がカウンターの位置に手を置くと、不思議と空間が完成して見えた。
「ここで、もう一度始めるんだな」
「うん。今度は“名前”じゃなくて、“居場所”を作る。
ここに来た子供たちが、“名前じゃない呼び名”で呼び合えるような。
“兄貴”とか、“姉ちゃん”とか、“オヤジ”とか——な」
榊は静かに、頷いた。
「じゃあ、俺は何て呼ばれるんだ?」
燈は、すぐには答えなかった。
が、やがて照れくさそうに笑いながら言った。
「……“おまえ”でいいよ。俺だけの、“おまえ”で」
その瞬間、榊はふっと肩から力が抜けるのを感じた。
ようやく、たどり着けたのだ。
光の届くこの場所に。
その夜。
雨はやがて止み、空には雲間から星がのぞいた。
二人は狭いソファに腰掛け、コーヒーのカップを手にしていた。
触れそうで触れない距離。
けれど、言葉はもういらない。
やがて燈が小さく囁く。
「榊……」
「ん?」
「……そばにいて」
榊は答えなかった。ただ、そっと手を差し出した。
その指先が、燈の手に触れる。
たったそれだけで、互いの鼓動が伝わった。
“生きてる”という実感が、そこにあった。
最終話 了
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