第37話 家族
町にたどり着くと、疲れ切った乗り合い馬車の元乗客たちは、安堵の息を漏らしながら、それぞれの足で散っていった。
その中の数名が、礼のつもりか、思いがけず小さな袋を差し出してきた。
「これ、用心棒代だよ。命、助かったから」
そう言って、銀貨の詰まった袋を、ルガンの手にぐいと押し込んだ。
「いや、別に報酬がほしくて――」
そう言いかけたルガンの言葉を遮るように、別の男が笑って言う。
「だからって、命の恩人に手ぶらじゃ、こっちが気まずくてしょうがないんだよ」
ルガンは一瞬だけ戸惑ったように眉をひそめ、それから苦笑しながら頭をぽりぽりとかいた。
「……ありがたく、受け取っておきます」
照れ隠しのような小さな声でそう言いながら、ルガンは受け取った袋を軽く掲げて私たちに見せた。
「今日はこれで、四人で酒が飲めるな」
四人目――同行していた旅の商人で、ハーフの青年は、自らを「ジヤード・ルーヴェンクロー」と名乗った。
「奇遇ですね。僕もガグ国が目的地なんです。……しばらく、ご一緒しても?」
ここに来る間の会話で、彼は人懐っこい笑みを浮かべて、そう言った。
私たちはうなずき、ジヤードも共に、同じ宿へ泊まることとなったのだ。
宿屋に到着早々、彼は助けてもらった礼にと、宿代を払うと申し出てきたが――
「気持ちだけ、受け取ります」
やんわり断ると、彼はそれ以上は押しつけず、素直に引き下がった。
夜になり、宿屋の一階にある酒場の片隅。
木のテーブルの上では、小さなキャンドルの火が揺れ、ほのかなオレンジ色の明かりが、皿の縁を照らしている。
私たちは、晩餐を囲んでいた。
焼きチーズの香ばしい香りが立ちのぼる。
森で採れた茸を鉄鍋で炙り、その上から硬質のチーズを削ってとろりと溶かした──森茸のスキレット焼き、ハードチーズ掛けの匂いだ。
それから、香草を練り込んだ粗挽きソーセージ。酸味と塩気が絶妙な小魚のマリネ。
燻製したナッツに、黒胡椒をまぶしたドライベリー。香辛料を練り込んだパンの炙りクラストは、ハーブのディップと一緒に。
火の
旅の始まりにしては、上出来すぎる夜だった。
ルガンが木製のジョッキを持ち上げる。
「まずは、今日の勝利と……無事な旅立ちに、乾杯だ!」
「乾杯!」
四つのジョッキが軽やかに触れ合い、カン、と乾いた音が酒場に響いた。
泡がはじけ、琥珀色の液が喉を潤す間もなく、ルガンが隣に座るジヤードの肩に腕を回す。
「しかしお前、ハイエルフのわりには、ずいぶん腰が低いじゃねえか」
「いやあ……僕、見た目はハイエルフっぽいですけど、魔法、使えないんですよ」
「――は?」
リドが手にしたジョッキを止め、私も思わず聞き返す。
「え……ハイエルフって、魔力の塊みたいなものでしょう? 本当に?」
ジヤードは困ったように笑い、肩をすくめた。
「母はハイエルフでしたけど、父が人狼だったんです。能力は相殺されちゃったみたいで、剣の腕もあまり……。鼻は利くんですけどね」
「そっちは――獣人の遺伝か!? おもしれえな!!」
ルガンが大声で笑う。リドもジョッキを揺らしながら微笑んだ。
「なかなか珍しい組み合わせですよね」とジヤードは続けた。
「父は、もともと母の騎士だったそうです。二人は恋に落ちて……。婚約者のいる姫と騎士の、禁断の恋だったと。
父は、母を護って戦い、亡くなったそうです。
父の子を身籠っていた母は、僕を産むために人里へ降りた――そんな風に聞かされています」
静かに語る彼の声音には、どこか遠くを見ているような響きがあった。
私はその言葉を聞きながら、ふと一枚の絵を思い出していた。
フレデリック・ウィリアム・バートンによる1864年の水彩画――
《ヘレリルとヒルデブランド、砲塔階段の会議》。
騎士と姫の、儚くも美しい恋物語。
「けれど……」と、ジヤードは言葉を継ぐ。
「ハイエルフは、人里ではあまりにも目立ちすぎたらしく。物心がついたころには、母と二人、森の奥に隠れるように暮らしていました。
人との関わりも少なくて……。たぶん、母は、僕のために、ずっと耐えてくれていたんだと思います」
その声音は、ほんのわずかに翳りを帯びていた。
「じゃあ、今は……」
ルガンが、ジョッキを持ったまま、ふと問いかける。
「母親がひとり故郷で、お前を待ってんのか?」
ジヤードは、笑みを保ったまま視線を伏せた。
「いえ――その、妹もいて……」
ジョッキの水面をじっと見つめながら、静かに続ける。
「僕、成人する前に、この仕事を始めたんです。
母を少しでも楽にしてあげようと思って――と、いうと聞こえはいいですけど。実際のところは、ただ外の世界に興味があっただけなんですけどね。家にじっとしていられなかった、というか……」
ルガンが黙って頷く。
「ある日、旅の途中――街道沿いの森の中で、泣いている子供を見つけて――四歳くらいの、泥だらけの女の子でした」
ジヤードはジョッキを持ち上げ、一口だけ口をつけた。
「迷子かなと思って、声をかけたんですが……両親のことを聞いても、『知らない』って。髪が地面につくまで伸びていて、いつから彷徨っていたのか、一人でどうやって生きてきたのか……。ただ、怯えていて」
彼の声が少しだけ低くなる。何かを思い出すように、手元のジョッキに視線を落とし、その縁を指先でなぞった。
「町で兵士に引き渡したのですが、迷子の届け出はどこにもなくて。調べている間は、僕の脚にしがみついて離れなくて。結局、親御さんが見つかるまでと思って、実家で預かることにしたんです。
それからずっと――。それでその子が、僕の妹になりました」
ふっと微笑みがこぼれる。
「妹は人間族だったんですが、体が弱くて、いつも咳をしていました。でも、絵本が大好きで、読んであげると喜んでくれて――。
僕が遠くまで仕入れに行くときは、心配そうに裾を掴んで離れないんです。
“行っちゃダメ” って、真剣な顔で言うんですよ。あれは、反則ですよね……」
ジヤードは少しだけ笑みを浮かべたが、その目元はどこか寂しげだった。
「大人になる頃には、体力をつけるために母の手伝いで畑仕事をしたり、趣味で編み物もしていました。
……ほら、これ、 ”お守りだよ” って、妹が作ってくれたんです。可愛いでしょう?」
そう言って、彼は袖口を少しまくり、手首に巻かれた、色とりどりの糸で編まれた細い幾つかのプロミスリングを見せた。
しっかりと編まれたそれは、願いを込めた装飾――こちらの世界では ”ルーナリング” と呼ばれ、無事を祈るお守りだ。
「お土産に、妹のために銀細工の指輪を買って帰ったこともあるんですが……アレルギーで、付けられなくて。
“でも大丈夫。これは宝物だから” って、小さな巾着袋に入れて、いつも身に着けてくれてました。ずっと、大事にしてくれてたんです」
その声音には、確かな温もりがあった。
ハイエルフの姫の魔法でも、直せない咳――遺伝子に組み込まれた、呪いのようなものだろうか。
私は、ジヤードに問いかける。
「もし、妹さんの症状を詳しく教えてくれたら……ポーション、作るよ?」
一瞬、彼は何かを言いかけたように唇を動かしたが、やがて、かすかに首を振った。
「いえ――もう、いないんです。妹も……母も」
そう言って、ジヤードは眉間にしわを寄せた。けれど、口元には精一杯の笑みを浮かべている。その笑みが、かえって痛々しく感じられた。
私たちは、思わず息を呑んで、言葉を失った。
静かな間が落ちる。蝋燭の炎が揺れて、テーブルの影が震えた。
そんな空気を破るように、ジヤードが慌てた表情で両手を軽く振った。
「――ああ、すみません。お酒の席でこんな辛気臭い話。今日は、助けてもらったお礼も兼ねて、一緒に乾杯しようと思っていたのに……僕ったら、ほんとに空気が読めないな」
ジヤードが冗談めかして頭を掻いた、そのとき――
「……う、ううっ……!」
隣で、ルガンが鼻をすすっていた。いや、すすっていたどころではない。肩を震わせ、
「いいんだ、いいんだ……いくらでも話せ……聞いてやる……!」
感極まった様子で、声にならない声を漏らしながら、ジヤードの背中をばんばん叩くルガン。
「うぉぉ……辛かったよなジヤードおおおおお!」
ルガンはすっかり、ジヤードに感情移入してしまったらしい。
ジヤードは一瞬ぽかんとしたが、やがてくすっと小さく笑って、「……ありがとう」と呟いた。
その声は、さっきより少しだけ、温かかった。
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