第36話 出立
たまに来てくれる常連のお客様に向けて、店の扉に張り紙を貼った。
『暫くお休みします』
簡潔で、それ以上は何も書かない。
旅の費用は、もう十分に貯まっていた。
旅の間の家や畑、そして店の管理については、ルベルタ王国の冒険者ギルドに依頼を出してある。私に気を遣っているギルド長なら、よもや無法者を寄越しはしないだろう。
実際に来てくれたのは、腕っぷしの強そうな獣人のご夫婦だった。
アライグマの獣人で、ふさふさの尻尾と、丸い耳が印象的な二人は、明るく社交的で、初対面の私にも親しみやすい笑みを浮かべながら挨拶を交わしてくれた。
それでいて礼儀正しく、熱心にメモを取ってくれている。
「ここは大事な店なんだろ? ちゃんと預からせてもらうよ」
ご主人の言葉に、私は自然と肩の力が抜けた。
私は二人に、家と店の鍵を託した。
畑の薬草は、旅の前にすべて収穫を終えておいた。乾燥や選別も済ませ、倉庫の棚に並べてある。
これで、心残りはない。
あとは、リドとルガンと、旅支度を整えるだけだ。
久しぶりの旅だ。
胸の奥がふわりと浮き立つような高揚感と、それを引き締めるような少しの緊張感が湧き上がる。
私は指先を軽く動かし、空中に手を滑らせるようにして、
これは、前職で与えられた特別なスキルだ。
前職は、アルヴァン公爵閣下が創設した、図書館に置く本を作る仕事だった。
結局、その図書館は消えてなくなってしまったけれど、その時にもらった、UIを展開するスキルは、今も私の中に残っている。
そのUIの中にあるアイテムボックスは、今は店内の倉庫に設定してある。
野営に必要な道具は、すべてそこへ収めておいた。
テント、寝袋、携帯食、焚き火台……それから、甘いお菓子も。
ルガンは、紅色の着物風の上衣を身にまとっていた。胸元は大きく開いており、引き締まった胸筋と腹筋がそのまま覗いている。戦士として鍛え上げた体が、何よりの鎧であることを示すように、彼はその姿を隠そうとはしない。
着物の襟と袖には、かすかに民族的な織模様が施されており、それが彼の出自――オーガ族としての誇りと、どこか洗練された印象を与えていた。腰には太い帯を巻きつけ、そこに革製の水筒や小袋をぶら下げている。旅慣れた者の、実用と習慣が混ざった装いだった。
右肩には、鉄製の肩当てが一枚だけ装着され、幾つもの傷と錆が、彼が幾度も死地を越えてきた証となっている。下半身には、黒いズボン。足元には重厚な革製の厚手ブーツを履いている。
そして、背には巨大な両手剣が斜めに背負われている。鞘はなく、むき出しの刃が背に光り、彼の歩く背中からは常に「戦士の風格」が漂っていた。
リドは、仕立ての良い明るいグレーの上着に身を包んでいた。
それは貴族軍の制服を思わせるような、しっかりとしたハリのある生地で作られたジャケットで、立ち襟が喉元まできちんと留められている。無駄のない裁ち方と、黒檀色のボタンが連なる前合わせが、洗練された印象を与える。
肩からは、左側だけを覆う腰丈のアラミスマントがかけられていた。
マントは深い蒼色。裏地には、細い金糸の刺繍が走り、光の加減でわずかに浮かび上がる。
腰には、細身のサーベル。柄には銀の象嵌が入り、細く湾曲した鞘は、彼女の歩みに合わせてわずかに揺れる。
脚には柔らかく艶のある白いズボン、足元には編み上げ式の黒いレザーブーツ。すべてが機能的でありながら、どこか舞踏会にも出られそうな気品をたたえている。
私は、落ち着いた茶のチュニック型の上衣に、深緑のフード付きショートコートを羽織った。チュニックの裾は太ももの中ほどまであり、その下には伸縮性のある黒のスリムパンツを履いた。足元は厚底の旅用ショートブーツ。軽量で防水性もあり、長距離の徒歩移動でも脚を痛めにくい。
肩には、使い込まれた斜めがけの革鞄を提げた。中には、重たい魔導書とインク瓶、羽ペンが入っている。
向かうのは、ルガンの故郷――山岳国家〈ガグ国〉。
切り立った岩山と霧深い渓谷に囲まれた、頑強な民たちの国。
伝説と遺跡の眠る、古くからの戦の痕跡が残る地だ。
◇
数刻後――旅の道中、森を抜けたあたりで、風に乗って、甲高い馬の悲鳴が届いた。
「……!」
私は顔を上げ、街道の先を見やる。幌馬車が一台、複数の影に囲まれ、混乱のさなかにあった。
盗賊――それも数の多い、組織だった一団。
「ルガン!」
叫ぶより早く、ルガンは地を蹴っていた。
彼の巨躯が風を切って駆け抜け、先頭の盗賊を両手剣の一撃で地面に叩き伏せる。
リドはその背後を、素早く追い、サーベルを鮮やかに薙いで、次の敵を仕留める。
私は立ち止まり、魔導書を開くと、詠唱と共に魔法陣を展開。
舞うように揺れた空気の先、火の矢が盗賊の頭上へと降り注いだ。
炎と悲鳴が交錯し、あっという間に盗賊たちは散り散りになる。
残党は我先にと森の中へと逃げ去り、ようやく静寂が戻った。
私は小さく息を吐き、無惨な姿の馬や、ひしゃげた荷車のそばへと歩を進めた。
血と土の匂いが鼻をかすめる中、視線の端に、ひときわ目を引く影が映る。
尻もちをついたまま、茫然とするひとりの男。
フードから覗く、長くなめらかな銀灰色の髪、鮮やかな緑の瞳。そして、尖った耳とふさふさの尻尾。尻尾は内側に丸まって、脚の間に見えた。
「あなたは……」
私が驚いて言葉をかけると、彼は目を丸めてこちらを見た。それから、慌てたようにフードを取った。
「いやぁ……面目ない。助かりました。ほんと、助かりました。ははっ」
苦笑混じりの柔らかな声で、ぺこりと頭を下げる。
その仕草が妙に板についているのは、旅のあいだに鍛えられた商人の処世術ゆえだろうか。ハイエルフは自尊心が高く――もっと悪い言い方をすれば、高慢で――他種族に、こんなに簡単に頭を下げる姿は珍しい。
しかも、彼の声には真摯な響きがあった。
私がそっと手を差し伸べると、彼もすぐに気づいてその手を取った。
指先は少し冷たく、けれど力強かった。引き上げるようにして彼を立たせると、ふと、その瞳が大きく見開かれた。
「……きみ、すごく、いい匂いがする」
「え?」
思わず聞き返す私に、彼は目を
「あ、いえ……失礼しました。――でも、どうしよう」
周囲の惨状を見て、彼が呟いた。
壊れた荷車、血を流して倒れる馬、事切れた御者。
乗り合わせていた客の中にも、もう動かない者がいる。
乗り合い馬車のギルドが雇っていたらしい傭兵も、辛うじて生き残ったのは、わずか数名。
その場に立ち尽くす彼の横顔を見ながら、私はそっと問いかけた。
「……私たち、ガグ国へ向かう予定なんですが。よかったら、途中までご一緒にどうですか?」
思いがけない申し出だったのだろう。彼は一瞬まばたきをして、尻尾を下げたまま、私を見つめ返した。その表情に、安堵とも、戸惑いともつかない陰りが差す。
周囲では、生き残った乗客たちが顔を見合わせ、やがて小さく頷き合った。
道は一本道。次の町までは、歩いても夕方には着ける距離だ。
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