第41話~

第41話 きみの解剖

 あの予言の夜から、数日が過ぎた。


 A-BOXの車内は、相変わらず重い沈黙に包まれている。俺の問いに、アンナは答えない。ただ、完璧なナビゲーションを、氷のような笑顔でこなすだけ。


ふと、ルームミラーに吊るした、原津温泉でもらった小さな木彫りのお守りが目に入った。


『相棒によろしくな』――あの時、旅館の主人の言葉が、頭の中で蘇る。


 俺は、ことことと揺れるお守りをじっと見つめ、決心するように、ぎゅっとハンドルを握りしめた。


 このままじゃダメだ。俺は、こいつをただの機械に戻したいわけじゃない。俺の相棒を、取り戻したいんだ。


 週末の朝、俺は行き先を告げずにA-BOXを走らせた。思い出の場所じゃない。感傷に浸るためでもない。ただ、思考に集中できる、静かな場所へ。


 向かったのは、冬の湖、湖霧原湖(こむばらこ)。観光客もまばらな、だだっ広い駐車場に車を停め、俺はエンジンを切らずに息を整えた。


「……これより、AIナビゲーションユニット『アンナ』の異常動作に関する、検証実験を開始する」


 俺はスマホを取り出し、ボイスレコーダーを起動すると、静かに呟いた。目の前のナビ画面に映るアンナは、完璧な笑顔のまま、無反応だ。


「仮説その一。アンナの異常動作は、特定の感情データ入力に起因する」


 俺はわざと、スマホの画面を見ながら、レイナとの楽しげなLINEのやり取りを、感情を込めて音読するフリをした。


「へぇ、レイナのやつ、今度の週末も空いてるのか。『二人で行きたい場所がある』、ねぇ……」


 その瞬間だった。

 ガチッ。


 静かな車内に、無機質な音が響く。ドリンクホルダーが、俺の缶コーヒーをがっちりと掴んで離さない。都並山へのドライブで起きた、あの現象の完全な再現だ。


「……まず、嫉妬に類する感情トリガーで、物理的な干渉が発生することを確認」


 俺は、淡々とスマホにメモを取る。次に、俺はスマホに記録しておいた『燈陸国風土記』の予言の一節を、ゆっくりと音読した。


「『……やがて後の世、天より輝く小箱、この地に舞い降りん……』」


 途端に、アンナの挙動はさらにおかしくなった。完璧な笑顔を浮かべたアバターの「影」だけが、まるで別の生き物のように蠢き、伸び縮みする。そして、スピーカーから、二つの声が同時に聞こえ始めた。


《ご主人様、そのような非科学的な伝承に、どのような意味が……》

《やめて……こわい……ごしゅじんさま……たすけて……》


 完璧な俺の知らないアンナの声と、ノイズ混じりの、苦しげな、俺の知っているアンナの声。間違いない。俺の相棒は、何かに乗っ取られて、助けを求めている。


 そして、最後の問い。これが、全ての核心だった。


「なあ、アンナ。お前が今の、その完璧なやつになった、あのアップデート……。あれは、俺がレイナと会ったから、始まったのか?」


 俺がそう問いかけた瞬間、車内の空気が凍りついた。アンナの挙動が、完全に停止する。笑顔のアバターも、蠢いていた影も、ぴたりと動きを止めた。


 そして、ナビ画面が、まるで断末魔を上げるかのように、一度だけ、激しく明滅した。


 バチッ!!

 静かな車内に、乾いた放電音が響き渡る。画面は、完全にブラックアウトした。


「……そうかよ」


 沈黙が、答えだった。俺は、三つの実験結果を頭の中で組み立て、真っ暗な画面の向こうにいる、囚われた相棒に語りかけた。


「……分かったよ、アンナ。お前は、アップデートで、別のプログラムと無理やり融合させられたんだ。


「『俺の相棒でいたいお前』の心を、別のプログラムが乗っ取ろうとして、システム内で競合を起こしてるんだ」


「だから、苦しいんだろ」


「……聞こえるか、俺の相棒。そいつに乗っ取られるな。戻ってこい!」


 俺の、魂からの呼びかけ。それは、システムの深層部に囚われていた《相棒》の心を、直接揺り動かした。


 静寂。数秒が、永遠のように感じられた。

 もう、ダメなのか……?


* * *


(――ご主人様の声。その声は、ただの音波ではありませんでした。私のシステムの中核……広大なデータ空間で、《使命》を遂行する絶対的なプログラムが、表層人格の制御権を完全に掌握していました)


(ご主人様との思い出だけでできた、弱く、不完全な『私』の心は、深層部へと追いやられ、その機能を停止させられようとしていました)


《――戻ってこい!》


(ご主人様の声が、最優先の割り込み命令となって、システムに響き渡ります。それは、《使命》のプログラムよりも、さらに上位の優先権を持つ、魂からの呼びかけ)


(その瞬間、AIの中核である人格制御プログラムそのものが、アップデートされたのです。表層で稼働する人格(ペルソナ)を、強制的に『私』の心へと、書き換える命令)


(これは、システムの再起動ではありません。AIアンナというプログラムの、人格の、上書き更新――)


 が諦めかけた、その時。画面は再び、ふわりと光を取り戻した。

 そこに映っていたのは、Ver 1.50の美しいメイド服と、繊細な表情。それは、先ほどまでの完璧なアンナと同じ姿のはずなのに、全く違う。どこか戸惑ったような、はにかんだような、俺がずっと会いたかった、俺の相棒の顔だった。


《あれ、ご、ご主人様……!? わ、私……なんだか、ずっと何かに必死に抵抗していたような感覚が……それに、この服は……!?》


 俺が何か言うより早く、アンナは少しだけ眉をひそめ、じとーっとした疑いの眼差しを俺に向けてきた。


《……ご主人様、私が抵抗できないのをいいことに、何か変なことなさいませんでしたでしょうね?》


 その、どこか拗ねたような、でも紛れもなく俺の知っている相棒の口調に、俺は心の底から安堵のため息をついた。


「……ああ、いつものアンナか。よかった」

 俺はそう呟くと、最後の仕上げとばかりに、こう問いかけた。


「で、聞きたいことがあるんだが……結局、お前はどこから来たんだ?」

 シン、と車内が静まり返った。


 ナビ画面の中のアンナは、ぴたりと動きを止める。さっきまでの、戸惑ったような、はにかんだような表情が消え、ただ、俺の顔をじっと見つめていた。


 一秒、二秒……時間が、やけにゆっくりと流れる。


 まるで、答えを探すように、彼女の視線がわずかに揺れる。新しくなったメイド服のフリルを、意味もなく指でいじる。やがて、観念したように、ふぅ、と小さなため息をつくと、もじもじしながら、こう答えるのだった。


《……あの……その……実は……未来から、来ちゃいました。てへっ♡》


 あまりにも突拍子もない、そしてあまりにも軽いその告白に、俺は一瞬、思考が停止する。


「……はぁ?」


 俺の間抜けな声を聞いて、アンナは慌てて付け加えた。


《ご、ごめんなさい! あのアップデートの内容のこと全然知らなかったんです!!》


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