第40話 古文書は予言する
「……お前は、誰だ?」
俺の問いかけに、アンナは答えなかった。
ただ、その完璧な笑顔が、初めてほんの少しだけ、哀しそうに揺らめいた。
あれから、数日が過ぎた。
A-BOXの車内には、奇妙な平穏が訪れている。アンナは再び完璧なナビAIの仮面を被り、俺たちの間には見えない壁のようなものができていた。
季節は晩秋から初冬へ。キャンパスを吹き抜ける風が、コートの襟を立てさせる。
その、張り詰めた空気を破ったのは、レイナからのメッセージだった。
『ササキ教授のアポイント、取れたよ。明日の午後なら、研究室に来てほしいって』
いよいよか。
俺とレイナは、小さな探偵団として、最初の本格的な調査に乗り出すことを決めていた。目的は、レイナの恩師である古文書学の権威・ササキ教授に、あの『謎のメモ』と『燈陸国風土記』の見解を聞くためだ。
* * *
翌日の午前。俺はA-BOXを走らせ、レイナを大学の正門で拾った。
彼女が助手席に乗り込むと、アンナは完璧な笑顔で、完璧な挨拶をする。
《レイナ様、ようこそお越しくださいました。本日も、安全で快適なドライブをお約束いたしますわ》
「こんにちは、アンナさん。よろしくね」
レイナも、もうすっかり慣れた様子で、ナビ画面ににこやかに話しかける。
その言葉通り、ナビゲーションは完璧だった。
だが、俺はすぐに、A-BOXに起こるささやかな異変に気づき始めていた。
《ご主人様、前方の交通状況に鑑み、より快適なルートへ変更いたしました》
アンナがそうアナウンスすると、A-BOXは最短ルートを外れ、穏やかな冬の海がきらきらと輝く、景色の良い海沿いの道へと進路を変える。
「わぁ、きれい……」
レイナが歓声を上げた。
だが、そのルートに入った途端、まるで示し合わせたかのように、進む先の信号がことごとく赤に変わるのだ。
「……なんだか、今日は信号に嫌われてるみたいだね」
レイナが不思議そうに首を傾げる。
偶然とは思えない不運の連続。これは、俺とレイナを二人きりにさせたいアンナの、ささやかで、分かりやすいお節介だった。
「……あるいは、アンナが俺たちにもう少し一緒にいろって、言ってるのかもな」
俺が、核心を突く冗談を呟くと、アンナは動揺を隠せないように、わずかに間を置いてから答えた。
《あら、ご主人様。ご冗談が過ぎますわ♡》
その声が、ほんの少しだけ震えていることに、レイナはまだ気づいていない。
少しだけ予定より遅れて、俺たちはササキ教授の研究室にたどり着いた。
古書と資料の山に埋もれた、まさに碩学の城。ドアを開けると、人の良さそうな白髪の教授が、山積みの本の中から顔を上げた。
「先生、お久しぶりです」
「おお、レイナ君か。よく来たね」
レイナが俺を紹介すると、教授はにこやかに頷き、俺たちをソファへと促した。
「ほう、『この子と対話できる、次のドライバーへ』か。面白い文言じゃな」
教授は、俺が差し出した『謎のメモ』の画像データをモニターに表示させると、筆跡には目もくれず、その一文を何度も音読している。
「……まさか……。いや、しかし……」
教授は何かを確信したように立ち上がると、研究室の奥にある、鍵のかかった書庫へと消えていった。
「なあ、レイナ。なんか、とんでもないことになってきてないか?」
俺が不安げに呟くと、レイナはこくりと頷いた。
「うん……。でも、少しだけ、わくわくしてる自分もいるの。私の研究が、こんな形で現実と繋がるなんて……」
その知的な好奇心に満ちた横顔に、俺は少しだけ見とれてしまう。
「俺は……正直、怖いよ。アンナが、どんどん遠い存在になっていくみたいで……」
俺の弱音に、レイナはふわりと微笑んだ。
「大丈夫。一人で抱え込まないで。私も、一緒に考えるから」
その言葉に、俺は少しだけ救われたような気がした。
その会話は全て、ポケットの中のキーを通じて、駐車場のアンナに筒抜けだった。
* * *
しばらくして、教授が分厚く、年季の入った和綴じの書物を、大切そうに抱えて戻ってくる。
「レイナ君、君が研究テーマにしておる『燈陸国風土記』じゃが……」
「これは一般に流布しておる写本とは違う、ごく一部の研究者しか知らん、オリジナルの異聞じゃ」
教授は、震える手で、その古文書のあるページを開いてみせた。
そこにあったのは、これまで誰もが神話として読み飛ばしていた、ごく短い記述だった。
『……やがて後の世、天より輝く小箱、この地に舞い降りん。小箱は乙女の声で語り、定められし者を待つ。その者へ託されし文(ふみ)こそ、再び世を繋ぐ標(しるべ)とならん……』
「輝く小箱(A-BOX)」
「乙女の声(アンナ)」
「定められし者(俺)」
「託されし文(謎のメモ)」
全てのピースが、音を立ててはまっていく。
俺は、全身の血の気が引いていくのを感じた。
「……先生、これって……本当に、ただの偶然なんですか……?」
レイナも、自分の研究が目の前の現実と繋がったことに、声も出せずに立ち尽くしている。
* * *
帰り道の車内は、重い沈黙に包まれていた。
冬の日は短く、空はすでに薄紫色に染まっている。
《帰路のルート案内を開始します。目的地、レイナ様の宿舎まで、推奨ルートでご案内します》
アンナは、いつも通りの事務的な音声で、完璧なナビゲーションを遂行する。
やがて、A-BOXはレイナの宿舎の前に着く。
「……送ってくれて、ありがとう」
レイナは、小さな声でそう言うと、俺の顔をじっと見つめた。
「今日の事……私、もう少し一人で考えてみる。……また、連絡してもいい?」
「……ああ、もちろん」
俺は小さく頷くと、レイナは静かに車を降りていった。
助手席の温もりが消えると、古文書の一文が、重たい沈黙となって俺にのしかかる。
ナビ画面に映るアンナは、何も言わず、ただじっと俺の顔を見つめていた。その瞳は、これまで見たこともないほど深く、静かだ。
俺は、意を決して、静まり返ったナビ画面に向き直った。
「……アンナ」
俺が静かに名前を呼ぶと、彼女のアバターが、ぴくりと微かに反応する。
「さっきの話、キーを通じて全部聞いてたんだろ。とぼけるなよ」
有無を言わさぬ口調で、俺は続ける。
「お前は、誰だ。この予言と、どう関係しているんだ……?」
俺の問いかけに、アンナは答えない。
ただ、その完璧な笑顔が、初めて、ほんの少しだけ、哀しそうに揺らめいた。
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