不思議の国の大人たち
[大人たち]
未来は高野と校長室にいた。呼び出された。生徒会関係で何度か入ったことがある。活動に理解のある校長が一人掛けのソファ、住職、前に教頭、本多、学年主任、見たことのない中年のまん丸な顔の女性はスクールカウンセラーらしい。
未来は高野と空いたソファに座るように言われた。高野の隣に恐る恐る座ると、未来は校長に促されて、昨日起きたことを本多に話したように話した。要するに警察に被害届けを出すかどうかの話だ。未来は被害届など、テレビやネットの世界の話だと思っていた。高野をちらっと見た。口も耳も目もない。白骨化してきていた。逃げ出したくなった。他の大人たちは、今、高野の腕や足の肉をついばんでいる。
「茂部くんは寝込んでるらしいんだ」
「はい?」
未来が思わず発した。寝込みたくなるのは殴られた高野や、百歩でも千歩でも譲ることが許されるなら、突然胸くそ悪い暴力を見せられた教室の生徒たちだろう。少なくとも茂部ではない。
「親御さんは謝りたいと」
「済んだことですから」
高野は穏やかに答えた。
ふと未来は高野の腕に触れた。意識したことではない。しかし高野は我に返ったように、かすかに顎を上げて、この大人たちの巣に戻ってきた。
同時に、大人たちが視線を伏せた。表情を悟られないように。いや。期待を悟られないようにだ。未来は高野が知っているのだと思った。大人たちが答えてほしい答えがある。校長も教頭も本多も学年主任も里親も皆、高野に求めているのは同じだ。
「子ども同士のことですから」
どうして?あんな目に遭ったのに。
この人、心が凪いでる……
「あの……」
討論で鍛えたはずなのに、ここで一言も言えないなんてと、息苦しい中、勇気を出して尋ねた。これが精一杯だなんて恥ずかしくなってきて、顔を赤らめた。
「わたしは何のために呼ばれたんですか」
「いちばん見ていたようだから食い違いがないかということで来てもらったんだ」
「高野くんが嘘をついてないか見極めるためにですか?」
「いやいや」
本多が慌てて制した。
未来は高野のこんな表情は見たことがないくらい彼は穏やかだ。ついばまれた肉塊はついばまれたままだが。もちろん茂部や大人たちを赦しているのではない。
「高野くんは関西の訛りもあるから茂部くんが勘違いしたのかもしれない。煽られたと話してるんだが。お互いに誤解があるんじゃないか」
校長が穏やかに話した。生徒に理解のある校長も演技だ。コイツは何を言ってるんだと眺めた。遥か遠くのガラス越しにいるように思えた。皆が酸素ボンベをくわえて話している。高野は海の底にたゆたう。
なぜ笑ってるの?
この人たち。わたしも笑っている。
高野は?
高野は浅く腰を掛けていた。大人たちを見ているようだが、ただ瞳に映しているだけだ。網膜にも脳にも映らない。校長は結論のない話を延々と話す子どもだ。
皆、こうして生きてきたんだ。
校長も教師も。
高野も。
そしてわたしも。
高野は、誰にも、何にも、期待などしていない。ここに呼ばれる前から、この学校に来る前から、生まれてからずっと諦めている。心が凪いだまま生きてきた。
「高野くんの場合、過去が過去だし、わざと殴られるように仕向けたとかないかな」
何言ってるの?
この人たち。
もう何も言ってあげないでよ!
「わざと殴られることはないです」
高野は自分で笑った。
「殴られたら痛いんですよ。殴られたら恥ずかしいんですよ。でもこのことは済みました。忘れてください。転入早々ご迷惑おかけしました」
高野は小さく頭を下げた。
冷たい。
いつもの冗談は鎧だ。
守るのは何?
彼の内にある小さな灯火。
今にも消えそう。
未来は涙を堪えた。ここで泣くのは違うと思うし、高野の重石になってしまう。ドイツの作家ミヒャエル・エンデの『果てしない物語』という話に馬が出てくる。悲しみの沼に囚われた馬が最後に主に「わたしが沈むところは見ないでください」と頼むのだ。高野も言うはずだ。
「皆さんすみませんでした」
高野は立ち上がると、丁寧に浅いお辞儀をして校長室を後にした。卑怯な大人たちを観察した。重苦しい空気の中、巡回SCは「高野くんのカウンセリングが必要だと思う」と話した。
「住職、これでよろしいですか」
校長が尋ねた。
「本人がああ言うのですから」
未来は「わたしも失礼していいですか」と尋ねて、平静を装いながら校長室を後にした。廊下に出ると、駆け出した。
高野!
授業中の教室にはいなかった。何かが変わろうとしていることに未来は抵抗してイライラしている。高野は知っている。自分が人を信じられていないことに。
高野、あなたは変わろうとしている。でも凪いでるよ。苦しんでるくせに。あなたが変わらないといけないの?だからわたしはイライラしてるんだ。変わろうとしている人の隣、わたしは必死で変わるまいと岩につかまっている。情けない。
「まさか自殺!?」
慌てて打ち消した。保健室にいるかもしれない。未来が力任せに保健室の戸を開けて飛び込んだとき、丁度、高野と鉢合わせた。互いに顔をぶつけた。
「ご、ごめん」
「痛あ。トドメ刺された」
「そ、そんなつもりじゃ」
「冗談や。外れた。接着剤ではムリやったか。低い鼻へこんだんやないか?」
高野は眼鏡を拾いながら笑った。
「教室にいないから」
「怒らんのか。ただの悪口になってしまうやん」
「え?」
「鼻」
「ごめん」
「何で謝るんや。抗生物質と痛み止め飲み忘れてた。水もらおうと思うて来たんやけど、結局ここも水道水やん。自販機くらい置いとけや」
彼は後ろ手で戸を閉めた。ここは屋上へ上がれるのかと尋ねるので、上がれないと思うと答えた。それでも高野と屋上へと向かった。
「地震に備えてるなんて言うてるくせに屋上へも簡単に上がれんのやな。お?」
高野は扉を見て簡単にロックが外せることに気づいたが、開けるとどこかに通報されるような対策がなされていると教えてくれた。一緒に行くのが怖くて、未来は救われた気がした。
未来は早く離れたくて、階段を降りかけた。後ろで、高野は踊り場の階段に腰を掛けた。埃っぽい空気が掻き混ぜられ、キラキラした。丁度未来が振り向いて見上げる格好で、息詰まる「間」が空いた。
「探してくれたんやな」
「まあ……」
「自殺でもすると思うた?」
息と耳が詰まる。
高野は左耳たぶを指で掻くと、マスクを外して頬の筋肉を動かした。未来はどうしてかはわからないが嘘をついた。自殺するかと思ったと怖くて言えなかった。
「高野が自殺するような性格じゃないことくらいわかる」
「校長室で驚いてたみたいやけど、あんなもんやで。だからできるだけ関わらん方がええねん。イジメてる奴にもイジメられてる奴にも。それは悪いことやない」
「方言は改めようとは思わない?」
「理想だね。お互いに理想をぶつけて揉めてるんだ。おかしい話だとは思うよ。今はテレビやネットで発音やイントネーションなんて聞いてるから話せる」
「うん」
「つまらんことだろ?人は殴られた方を蔑むんだ。どうしてかわからない。味方になるフリをしても持て余すようになる」
未来は下唇を噛んだ。
ああ……わたしは彼を哀れんでいるのかもしれない。そんなもの優位に立つものの仕業だ。わたしは優位でもないくせに。
未来の気持ちは嵐のようだ。
「ごめん」
「平良さんは僕のことを守ろうとしてくれた。正直、怖くなかったんか?」
「怖かった。でも高野は登校してきた。また殴られたらと思うと怖いのに」
「そらそろ戻るとするか。屋上に出られへんのにこんなところいてもしようがない」
「なぜアイツは来ないかわかる?」
「怯えてるから。教室で我慢比べになるかなと思ったけど、平良さんがいつもと同じで救われた。ありがとう」
「同じじゃないけど。実際、休みたくなったもん」
高野は痛そうに笑った。
「どうして屋上に?」
「海を見たいと思ったんだよ。波をね。自分の心の中に波がなくなったから」
高野がわざとらしくイントネーションを合わせたので、未来は関西弁に挑戦してみた。
「わたしも海見たいねん」
「下手くそやし似合わん」
「高野もね。で、既読したら返信くらいしてほしいんだけど?」
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