ねこチル
秋犬
chill out
初めて降り立った渋谷をきょろきょろ歩いていると、白いパーカーでグラサンの男に声をかけられた。ちょっと髭が生えている。怖い。
「お兄さん、東京初めてだね?」
「あっハイ! 岐阜からやってきました!」
東京の人は恐ろしいって思っていたけど、声はなんだかフレンドリーで安心した。
「それじゃあさ、こういうの、知ってる?」
男の人は右手を口の前に持って行って、大きく息を吸い込むジェスチャーをした。
「えっと、東京は初めてなのでわかりません!」
「そっか、じゃあ記念にちょっと寄ってくかい?」
えっ何コレ、客引きって奴? え?
「ついてくる? 来ない?」
「あ、ああああついていきます」
仕方ないので男の人についていくことにした。
「俺は
「はいマチさん」
「実家は、えっと岐阜?」
「はい岐阜です! 今日初めて東京に来ました!」
「どっか行ったかい?」
「えっと、東京駅って大きいですね! お土産売り場だけでびっくりしました!」
「だよなー」
やっぱりマチさんは見かけよりもいい人っぽい。昔からいろんな人に声を掛けられやすいから、それでマチさんも話しかけてくれたのかな。
「ほら、ついた。ここだよイイところ」
マチさんが連れてきた雑居ビルの2階は、猫カフェになっていた。
「ね、猫ですか?」
「お兄さんアレルギーとかある?」
「いえ、ないと思いますけど」
「じゃあ、猫やっておこうか。チルいよ、猫は」
「ちる?」
マチさんは受付に「1時間」って指を一本立てた。すごい、プロみたい。
「あ、お金出します」
「大丈夫。これも何かの縁だからおごるわ。ドリンク何にする?」
「いらないです」
「ワンドリンクなんだよ、何か飲まないとダメなの」
そういう決まりがあるのか。でも、メニューにはコーヒーとデザートみたいなジュースしかない。
「えっと、じゃあ、オレンジジュースで」
「はい、ブレンドコーヒーとオレンジジュースですね」
受付からドリンクをもらって中に通されると、猫がたくさんいた。猫カフェなんだから当たり前か。その辺に腰を下ろすと、灰色の猫が寄ってきた。
「うわあミルちゃん! ミルちゃん! 今日もかわいい! ミルちゃん!」
マチさんはいきなり灰色の猫を抱き上げて、思いっきり頬ずりする。ミルちゃんはマチさんに慣れているのか、ツンと向こうを向いている。
「あー、マジチルいわ。癒し。天国。ストレス無効化」
「あの、ちるいって何ですか?」
さっきから気になっていた単語をマチさんに尋ねる。
「チル知らねえの? しょーがねえなあ。なんつーか、落ち着くとか、リラックスできるとか、そういう意味。例えば猫とか吸うとめっちゃチルいわけ」
「チルい、ですか?」
猫を吸う、って何だろう?
「それは、こうやって……ミルちゃん!」
マチさんはミルちゃんの後頭部に鼻をつけて、思い切り息を吸い込んだ。猫の匂いがするだけだと思うんだけど、落ち着くのかな。
「俺はミルちゃんと深い絆で結ばれているからこういうこともできるけど、お兄さんはまず推しの猫を探すところからだな」
「おしの、ねこ……」
オレンジジュースを飲みほして、猫カフェでくつろぐ猫たちを観察する。白いのや黒いの、茶色いのにいろんな色が混ざってる奴。いろんな猫がいる。
「その、ミルちゃんとはどういうお付き合いで」
「俺がミルちゃんと初めて会ったとき、ミルちゃんは野良だった。車の下で猫の子が数匹鳴いてたんだよ。親も近くにいなかったし、仕方ないから俺が子猫の世話をしてやった」
「ミルクとかあげたんですか?」
「乳離れはしてたからやってねえよ。行先を探してやったんだ。それで、このミルちゃんはここで無事お姫様に昇格したってわけさ!」
ミルちゃんは、マチさんにはとても懐いているようだ。
「抱いてみるかい?」
「ええ、いいんですか」
「東京に来た記念に、猫くらい吸って行かないでどうするんだ?」
マチさんはミルちゃんを差し出してくる。
「そいつは慣れているから、俺の客だってわかれば暴れないさ」
そういうもんなのか、猫も賢いんだな。受け取ったミルちゃんは思ったより重くて、温かかった。マチさんの真似をして、ミルちゃんの後頭部に鼻を近づけて、びっくりした。
「すごくいい匂いがします!」
「だろ?」
なんだろう、脳天まで痺れるようなすっごくいい匂いがする。嘘みたいだからもう一回ミルちゃんの匂いを嗅いでみる。やっぱりいい匂いだ。
「猫って、こんないい匂いがするんですね!」
「ああ、猫も悪くないだろう?」
それから、何度もミルちゃんの匂いを嗅いでしまった。これがチルいって奴なのか。マチさんはいい人だ。初めて会ったのに、すっごくいい人だ。
「ところでお兄さん、今日は何か用事でもあったのかい? それとも観光?」
ああ、そうだった。今日は大事な用事があったんだ。
「あっ、えっと、この荷物を、えーと……ここに持ってきてくれって頼まれたので、えっとですね、どこに行けばいいですかね?」
マチさんにリュックから取り出した荷物とメモを見せると、マチさんはグラサンを外してメモを覗き込んだ。意外とつぶらな瞳だった。それから声を出してめっちゃ笑い出した。
「ぎゃはははは! お兄さん、マジ冗談キツイよ! これ、いくらでやってんの!?」
「えっと、持って行ったら10万円もらえるって言われました!」
「10万!? そっかそっか10万かあ!! 交通費は?」
「10万あったらお釣りが出るそうです!」
それからマチさんはグラサンをかけ直して、席を立った。
「お兄さん、メモの場所まで案内したげるよ。あとこの荷物は俺が預かるわ」
「え、でも」
「大丈夫大丈夫。それよりも、猫よりチルい奴教えたげるわ」
「猫よりチルいんですか?」
猫だって吸い込んだらあんなに落ち着いたのに、これ以上落ち着くものがあるっていうんだろうか?
「まあいいよ。裏から出ようか」
マチさんはそう言って、店の裏口から外へ出た。渋谷の人通りの多いところじゃない、いかにも悪いヤツがいそうなところにやってきた。うう、メモの通りにすれば10万もらえるって聞いたから来たけど、やっぱり東京は怖い場所だなあ。ここはどこのビルだろう、地下に行くのかな、マチさんはどこに行くんだろう。一体このままどうなるんだろう。
ああ、猫が吸いたいな。
猫がいれば落ち着くのにな。
<了>
ねこチル 秋犬 @Anoni
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