第20話 雨のち晴れ その三
「凄い土砂降り。水滴で浜名湖が全然見えないよ」
「浜松からも富士山が見えると聞いていたんだけどな……」
「天気が良ければ見えるが、今日のこの天気じゃ絶対に見えないな。イテテ……親父め。本気でぶん殴りやがって」
昼食件一時避難先として三人は、温泉街の中にある料理店の中にいた。
昴大の左頬を拳骨で殴りつけたのは、昴大の父親である
温泉郷観光協会の会合から戻って来たところであの場面に遭遇。
後先考えずに息子を殴った是非はともかく、瑛太郎からしてみれば身勝手に聞こえても無理はない話だ。
積年の感情は、良い方にも悪い方にも働くという事なのだろう。
床に倒れた昴大に瑛太郎は更に掴み掛かろうとするも、これ以上の親子喧嘩は見過ごせない。
隼人が瑛太郎を羽交い締めにし、その後で従業員を引き連れてやって来た黒川たちが間に入ってくれた事で、事態は一先ず沈静化した。
とはいえ、あの場で昴大と瑛太郎に冷静な話し合いが望めるはずもない。
黒川たちが瑛太郎を別室に無理やり連れて行った後で、盛大にため息を吐いた美紗と三人はどうするべきかを相談した。
まずは双方の頭を冷やすしかないとの結論に達し、今に至っている。
という訳で昴大は今、精神的にも物理的にも、頭というか左頬を氷で冷していた。
氷を入れただけの袋から、結露の水滴が四人掛けのテーブルの上に滴下し続けている。
不幸中の幸いか。昴大の左頬が少し腫れている以外に、歯が折れているなどの損傷はないとの事だ。
また、状況の変化は逐次、電話番号を美紗に教えた昴大のスマホに届く手筈となっている。
「確かに過去のいざこざについては、俺にも非があるけどさ。いきなり殴るこたぁねえだろ」
「……昴大さんは過去に、お父さんに何をやらかしたんですか?」
「あ〜」
後頭部を掻きつつ昴大は、問い掛けたつばめから目を逸らした。
小さくはない何かをやらかした。
イタズラをした悪ガキが言葉に窮している。そういう類の言動にしか見えない。
「そこはまぁ、企業秘密。……やじまののれんに泥を塗る訳にはいかない。という事にしておいてくれると助かる」
「……まぁ、今するべきは過去を蒸し返す事じゃありませんから」
言った後で隼人は、ツッコミたくなる気持ちを冷水と一緒に飲み込む。
場合によってはその必要もあるだろうけど、今は昴大の過去を無闇にいじるより、これからどうするかを考えるべき時だからだ。
「悪かったな二人とも。目の毒にしかならんものを見せてしまって……」
「お待ちどうさま」
昴大が二人に謝罪の気持ちを口にしたタイミングで、緑色のエプロンと三角巾を着用した中年の女性店員が、三人が注文した料理を運んで来た。
隼人は温かい肉うどんの大盛り。
つばめは温かい山菜そば。
口と左頬を怪我している昴大に温かい汁物は厳禁という事で、ざるそばをそれぞれ頼んでいた。
浜名湖と言えば鰻だが、今の気分は完全にハレの日の真逆だ。和気あいあいと、普段口にしない、豪華な料理を食べる気にはならなかった。
これからどうするか考えると言っても、瑛太郎の気持ち一つで展開は大きく左右される。
例え妙案を思いついたとて、成り行きによっては水泡に帰す可能性はゼロにはならない。
なので隼人は、今はうどんを食べる事に専念する。
つばめと昴大も、まるで最後の晩餐であるかのように黙食する。
「こんな事は、あんまり聞きたくないんですけど……」
最後に箸を置いたつばめが、言いにくそうに前置きした後で、
「やじまを継げないとなった場合、昴大さんはどうするおつもりですか?」
最悪の数歩手前にある質問をした。
「……そうなった場合の、具体的な事は何も決めていないけれど、その時は別の場所で宿を造る事になるだろうな。それはそれでアリだ」
つばめが口にした事は当然、昴大も考えていたようだ。
即座に昴大は前向きな考えを口にする。
「確かに一から旅館を造れば達成感は凄くあると思いますけど、昴大さんが問題なく旅館を継げたら、彼女さんの夢も一発で解決するのに」
我が事のようにつばめは、昴大の彼女が抱く夢の実現を案じる。
「そうは言ってもなつばめちゃん。もちろん俺にも責任はあるが、親父がへそを曲げている間はどうにもならん。事業を譲渡するにも色々な手続きがある訳だし」
一人で頑張ってみたところでどうにもならない事もある。
現実を噛みしめるように昴大は、腕組みしながら天井を仰ぐ。
そしてため息を吐いた。
諦めの色がありありとその顔に浮かんでいる。
「それに今は、事業継承の仲介を専門とするサイトもある時代だ。無理にやじまを継ぐ事にこだわらなくても……」
「それでも先輩はもう一度、父親と話した方がいいと思います」
隼人は迷いなく言い切った。
例えば相続争いなど。他家の問題に下手な介入をするべきではない。その考えは今も変わっていない。
だがそれは、最初から何もしないと決めつける訳ではない。
下手な介入をしない事と、見て見ぬふりをする事は違う。
最悪、大恩ある昴大の人生が大きな遠回りをしてしまうかもしれない。
この件は放っておけない。
決断した隼人の行動は早かった。
「そうは言ってもな隼人。親父があの調子じゃ耳を貸すとは思えんだろ」
「……先輩が言うように、確かに意固地になったまま終わる可能性も考えるべきでしょう。でも今回の事は、先輩のお父さんの方に心の準備が出来ていなかった可能性が高いと思います」
青天の
昴大が本心を語ったタイミングで瑛太郎が戻って来た。
十年近く顔を出さなかった息子が今日、出先から帰ったら旅館にいる。
百パーセントその事態を正確に予知する能力が人間にある筈もない。
激情に駆られての行動だろう。
だからこそ、外からの干渉を受けつけないくらい強情にもなれば、相手の真剣な反省や真摯な対応に絆されたりもする。
昴大の夢を叶える最短の道。これが完全に断たれたと決めつけるにはまだ早い。
発言から察するに、隼人だけではなく、つばめもそう考えているのは間違いない。
「…………分かった」
長考の後に昴大が口を開く。
「確かに一回駄目だったからといって、簡単に諦められるような軽い夢じゃないからな。……もう一度親父と話してみるよ」
「その意気ですよ。昴大さん」
「俺たちも応援します。さっきは不意を突かれましたけど、今度はもうあんな事はさせません。俺が全力で抑えますので」
隼人は言いながら、右隣にいるつばめに肘などを当てないよう、左腕で力こぶを作る。
「ああ。そうだったそうだった……」
昴大は思い出したように口を開く。
「隼人は柔道も習っていたんだったな。レーサーなのに何で柔道を習っているのか昔は分からなかったが、警察官を目指していたのなら納得だ。お前がいてくれれば本当に心強いよ」
隼人がいれば本当に心強いの部分に共感したのだろう。
昴大の言葉につばめも笑顔で頷く。
「さて問題はどうやって親父を説き伏せるかだな」
「そこはもう先輩の本心と夢を、両親に語るしかないと思います。……渡り鳥チャンネルは俺とつばめの代で終わらせるつもりですが、や……」
「ちょっと待て。お前らのチャンネルを一代で終わらせるって。つばめちゃんは納得しているのか?」
「はい。もちろんです。私たちのチャンネルは、私が解説するのが当然となっていますので。同じチャンネルの中で代替わりしても、納得しない方も出てくるでしょうから。……毎日視聴者の方の感想は見ているんですよ」
「もったいない気もするが……二人が納得しているんなら、俺が口を出す事じゃないしな」
「……俺たちのチャンネルはそうですが」
ここで隼人は、先ほど昴大の言葉に中断を余儀なくされた続きを口にする。
「やじまのような歴史もあって形ある旅館なら、継いでほしいと思うのが人間じゃないでしょうか。見たところ、先輩の父親以外は好意的ですし。望みは全然あると思います」
「……全く。人の退路を完全に塞ぎやがって」
しかし、怒りの感情とともに発せられるような言葉とは裏腹に、昴大の表情は笑顔だった。
「だが、二人に教えられたよ。夢を叶えるべく本気で努力する姿はカッコいいって事をな。俺もそうでありたい」
「先輩……」
「先輩か。……レーサーとしても。人生の取り組み方でも隼人に遠く及ばないってのに、そう言われると立つ瀬がないな……」
これ以上ないほど分かりやすく昴大は、自嘲気味に鼻白む。
この旅の中で昴大が何度も見せてきた顔だ。
レーサーの成績も。人生を本気で生きる度合いでも敵わない。
嫉妬というほどではないけれど、昴大の心には隼人への気後れと、自分の不甲斐なさへの葛藤が見て取れた。
この旅の中でそれが何度も表面化したのが、昴大の意気消沈の正体だった。
その事を隼人は理解する。
「そんな事はないですよ。隼人に出来て昴大さんが出来ない事を気にしているようですが、その逆も当然あります」
上からの目線で話す嫌味を微塵も含まない。気遣いの心に溢れた口調でつばめは昴大に語りかける。
想像でしかないが、我が子に子守唄を聞かせるかのような慈愛。それを隼人はつばめに感じ取った。
昴大を子供扱いする事なので、隼人はそれを口にはしなかった。
「もちろんです。俺だって万能じゃありません。だからこそ今の生活になっている訳で」
代わりに隼人は、つばめの言い分に完全同意する言葉を言った。
「ちゃんと覚えていますよ。御殿場で昴大さんは、機転を利かせて私に助け舟を出してくれましたよね」
「それはまぁ……あの一件は俺が言い出した事だからな」
「それでもとっさに機転を利かせるのって難しいと思います。昴大さんは気遣いもしっかりできますから。良い旅館の跡取りになれると私は思いますよ」
「つばめちゃん……」
「あ、いつの間にか雨が止んでますよ」
「本当だ」
バイクに乗る人間なら、なおさら晴れの天気が良いに決まっている。
窓の外に目を向けたつばめは、嬉々として声を上げた。
次いで外を見た隼人は、雲の切れ間から一筋の光が差し込んでいる光景を目の当たりにする。
その奥に浮かんでいる雲は、雨で洗われたかのように限りなく白に近い色合いをしている。
この一年間、三分の二を外で過ごしてきた隼人は今の空模様に、天候が回復する兆しを見て取った。
「……私の勘ですが、何か良い事ありそうな予感がします」
そう語るつばめの声と横顔に悲壮感は見て取れない。本気で明るい未来を信じて疑っていないようだった。
「あ、ここにいたのね。ああ、ごめんなさい。今日は食事をしに寄ったわけじゃないの」
同じ温泉街で働く者同士。
三人がいる飲食店の女性店員と顔馴染みらしい美紗が出入り口付近で、彼女と短く和やかな会話を交わし、その後で外に向かって声を掛けた。
「……ほら。そんな顔をしないで入って来なさい」
あくまで和やかな態度を崩さない美紗に続いて店内に入ってきた人物の姿に、三人は揃って目を見開いた。
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