第19話 雨のち晴れ その二

 雨は変わる事なく降っている。

 尾行を警戒しつつ到着した駐車場内の、目に見える全てを雨は濡らし続けていた。

 濡れていないのは四輪車の車体の下くらいのものだ。


 それぞれの二輪車にカバーを掛けた後、この温泉郷に最も詳しい昴大を先頭に一行は、雨具を着用したまま歩き出した。


 三人の雨具の上着はフードの着脱が可能なタイプ。バイクを降りた後でヘルメットを脱いだ三人は、襟に取りつけたフードを被っていた。

 折りたたみの傘はあるけれど、雨が降りしきる中でレインコートの上下を脱ぎ、傘に差し替える気にはならなかった。


「先輩の実家の旅館はここから離れていますか?」

「歩いて一分くらいか。すぐそこだ」

「なら良かったです」


 安堵して隼人はバイクに目を落とした。


「バイクに何かあったら二人は詰みだからな。……でも本当に良いのか?」


 隼人の行動を目にした昴大が、再確認の問い掛けを口にした。


「何がですか?」


 隼人は顔を上げ、視線を昴大に向ける。


「元はと言えばこれは俺の問題だ。二人が無理につき合う必要なんて……」

「無理なんてしていませんよ。昨日の説明の通りです」


「むしろここまで来たんですから。逆に結果が気になるってもんです。……先輩がどうしても一人で行くと言うのなら、無理についていく事はしませんが」

「……いや」


 昴大は腕を組んで考え込み、一秒ほど思案してから口を開く。


「やっぱり二人がいてくれた方が心強い。今の言葉は忘れてくれ。……見えたぞ。あそこだ」


 昴大の指差す先に、木の塀で囲われた日本家屋があった。

 屋根には黒い瓦。木の柱や梁、土壁で造られた純和風の立派な伝統建築。


 だが、それより隼人の目を引いたのは、敷地内の手前にある、アスファルト舗装された広い駐車場だった。

 建物と同様、年季の入った色褪せた駐車場は、四輪車なら十台。二輪車なら少なくとも二十台は余裕で入りそうである。


 隼人はつばめにとってバイクはなくてはならない物だ。

 万が一にも、盗難に遭うなどあってはならない。


 その為、宿の防犯は二人にとって非常に重要な要素となっている。

 駐車場としてはめちゃくちゃ広い訳ではない。が、逆に遮蔽物で覆いやすく、出入り口から一目で全体の様子が見れる。

 防犯面において長所しかない駐車場だ。


「……よし! 行くぞ」


 深呼吸の後で、声に出して気合いを入れた昴大は敷地内に足を踏み入れた。

 自分で撒いた種の結果とはいえ、荒れる展開が大いに予想される。平和裏に終わる事の方が奇跡だろう。


 もしかすると、レースの直前よりも緊張しているかもしれない。隼人の目にはそう映った。


 下手に声掛けすれば、昴大の覚悟に水を差す可能性がある。

 今は沈黙が最善だと隼人は判断した。


 温泉旅館やじま。

 三人の眼前には年季を感じさせる、色褪せた木造の玄関口があった。

 外からは見えないが、左右両開きと思われる引き戸は開け放たれていた。

 元は純白だったであろう、趣きがある変色をしたのれんが掛けられている。


 歴史と由緒を電波のように発信しているやじまの玄関。それと相対している昴大の背後で、隼人とつばめの意見は一致していた。


 意を決して昴大は、まじやと誤読してしまいそうになる、右から左に向かってやじまと記されたのれんを潜った。

 その後に続く隼人は戦々恐々としながらも、考え得る可能性への備えを頭の中で練っていた。


 当然と言えば当然だが、純和風なのは建物の造りだけではなかった。

 二十歳前後と思しき、着物姿の女性従業員が一人、掃除機を掛けている。

 宿泊客を受け入れるには早い時間帯だ。


 館内に入って来た隼人ら三人を、時間を間違えた宿泊客と思ったに違いない。

 掃除機の電源を切ってその場に置いた彼女は、自信の無さと恐れの感情を抱きながらも、三人の元へ歩み寄って来た。


「お、お客様。大変申し訳ありませんが、まだチェックインの時間では……」


 今は六月上旬。

 あどけなさの残る外見と相まって、まだまだ初々しい新入社員という印象を隼人は覚える。


 可愛いと呼ばれそうな顔立ちをしているが、つばめの方が絶対に可愛い。

 神妙な顔つきで隼人は、心の中でつばめに軍配を上げた。


「松井さんどうし……坊ちゃん?」


 掃除機の音が止み。それを掛けていた彼女の困惑気味な話し声が聞こえたからだろう。

 少し慌てた様子で受付の奥から姿を現した紺色の作務衣の男性は、昴大の顔を見るなり、信じられなさと驚きが入り混じった声を上げる。


 勤務経験が浅そうな彼女とは対照的に、四十代後半ほどと思われる男性は、いかにも古株然とした雰囲気を醸している。

 それでいて、人当たりが良さそうな人柄も滲み出ていた。


 どう見ても彼は、昴大より一回り以上年が離れているとしか思えなかった。

 旅館の跡取り息子である、昴大の顔を知っていたとしても何ら不思議ではない。


 逆に昴大と黒川が単なる顔見知りに留まらない関係である事を見て取った、松井と呼ばれた彼女は、目を白黒させながら二人の顔をまじまじと見ていた。


 高卒か大卒かは知らないが、彼女が新入社員である可能性は高い。

 十年以上前に家を出た、昴大の顔を知らない方が自然な成り行きである。

 彼女が昴大の顔を知っている方が辻褄は合わない。


「お久しぶりです黒川さん。……坊ちゃん呼ばわりは止めてくれませんか? 俺はもう子供じゃないので」

「そ、それはそうですね。……では、これからは昴大さんでお呼びしますに」


 遠州弁特有の語尾で黒川は言った。


「坊ちゃん呼びでなければ」

「ぼ……昴大さんがお元気そうで何よりです」

「……黒川さんもお元気そうで」

「この旅館で働くのは自分の生き甲斐ですからね。病気なんてしている暇はありません。おっと。いけね。昴大さんが帰って来た事を皆に伝えないといけないら」


「あ、あの黒川さん。今は忙しい訳ですから、皆に報せるまでしなくても……」

「松井さんは厨房へ行って昴大さんが帰って来たと言ってほしいら。自分は美紗さんに伝えて来るに」

「は、はい……」


 昴大が帰って来た。それを心から喜んでいる黒川は、昴大の言葉が耳に入っていない様子で松井に指示を出した。その後で受付の奥に戻っていく。


 昴大と黒川の関係について完璧に掴めていないまま指示を受けた松井は、三人に一礼した後で、弾かれたようにこの場を離れた。


「……黒川さんて猪突猛進なんですね」

「仕事はめちゃくちゃ出来る人なんだけどな。見ての通りだ。お祭り騒ぎが大好きなんだよ黒川さんは」

「先輩の言っている事、何となく分かる気がします」


 隼人の脳裏を父親の顔がよぎる。

 さて、と言って昴大は息を強めに吐く。


「母さんが旅館の中にいる事は分かったから、会いに行くとするら……」


 遠州弁を耳にしたからだろう。

 昴大の遠州弁混じりの口ぶりから、会いたくない気持ちを押し殺しているのが聞き取れた。


 事情は異なるが、今この場に母親が現れたとしたら、隼人は何を言えばいいか途方に暮れるだろう。

 それだけに隼人には、昴大の気持ちの一部を共有出来る気がしていた。


「黒川さんの言っていた、美紗さんという方が昴大さんのお母さんなのですか?」

「そうだよ。つばめちゃん……母さんは俺の味方をしてくれていたんら。このままやじまを継がせるよりは一度、外の世界を見てきた方がいいって。問題は……」


 口に出すのも業腹なのだろうか?

 昴大は後に続く言葉を口にしなかった。


「俺は別に、やじまの仕事が嫌な訳じゃないら。むしろ宿泊業はこの世になくてはならない仕事。レーサーとして全国を転々としていたからこそ、そのありがたさを理解しているつもりだに。……二人も理解出来るだろ?」


「もちろんです。今日のような雨の日は特にそう思います。濡れる事なく泊まれる場所を提供してくれるのだから」


 外の雨に目を向けてから隼人は昴大に言った。

 昴大が口にした通り、宿泊業が全国に存在してくれているからこそ、隼人とつばめの生活は成り立っている。

 否定のしようがない。

 隼人の言葉につばめも頷いた時だった。


「昴大……戻ってきたのね」


 凛とした声の中に様々な感情の揺らぎがある。

 そんな女性の声が聞こえて来た。

 三人はあらかじめ練習したかのように、寸分違わぬ動きで声の方に振り向いた。


 そこにいたのは着物姿で、黒髪をうなじ辺りで纏めた女性だった。

 先ほどの松井と呼ばれていた従業員は、着物を着こなしているとは言えない感じがあったけれど、彼女は完璧な着こなしで佇んでいる。


「母さん……」


 昴大が絞り出すように呟く。

 言われて見れば、顔の作りが昴大とよく似ている。

 昴大は母親似のようだ。


 身長は小柄だが、姿勢の良さが整った顔と相まって、見た目から実年齢を測る事が難しいくらい若々しく見える。


「おかえり昴大。……後ろのお二方は?」


 物腰柔らかな微笑みを讃えたまま昴大の母親である美紗が問うも、彼女の目の奥に初対面の人物を見定める意図があるのを隼人は感じ取った。


 割合はごく少数だろうが、訪れる客の全員が良識的とは限らない。

 宿泊客をもてなすのが仕事だが、宿と宿泊客を守る為には、厄介な人間を見極める目も必要となる。


 長年離れていた息子と一緒に戻って来たのだから、警戒とまではいかなくても、どんな人間か推し量りたくなるのは当然だ。

 長年の宿泊業で培われた、静かな鑑識眼で美紗は二人を見ている。


 隼人もまたつばめを守りたいと思っている。

 彼女の行為に嫌悪を抱くどころか、当然の事として隼人は受け入れた。


「ああ。二人は高橋隼人とその奥さんのつばめちゃん。隼人は俺が所属していたレーシングチームの元同僚で、帰ってくる途中で偶然再会したんだ」

「そうだったのね。申し遅れました。私は昴大の母親である矢嶋美紗と言います」


 言って美紗は深々と頭を下げた。

 慌てた様子のない、上品という単語がしっくりくるお辞儀だった。


「あ、いえ。高橋隼人と言います」

「妻のつばめです」


 若干うろたえ気味の隼人に対し、このような対応に慣れているのか。つばめは気圧される事なく返した。


「息子が大変お世話になったようで」

「そんな事は……」


 先輩には何度もお世話になりました。

 そのような旨の言葉を、隼人が口にしようとか思った矢先だった。

 親の仇を見るような憎悪は微塵も籠もっていないが、美紗の視線は何故か、つばめの顔を捉えて離れない。


「?……失礼ですが、つばめさんとはどこかでお会いしたような気がするのですが? 人違いでしたらごめんなさい」


 僅かに頭を傾げただけの仕草で美紗は、謝罪混じりに言った。


「ああ。それは母さんがどこかで、二人のチャンネルを見たからだと思う。隼人とつばめちゃんは旅の動画を配信しているんだよ。それも人気があるチャンネルなんだ」


「ああ。言われて見れば。どこだったかは忘れましたけど、つばめさんが海を背後に解説していた動画を見たんでした。まだ若いのに堂々とした語りで凄い。そう思ったので印象に残っていたんです」

「そうでしたか。私たちのチャンネルを見てくださりありがとうございます」


 攻守交代で、今度はつばめが美紗に一礼する。


「もしよろしければチャンネル登録して頂けると嬉しいです」

「ええ。もちろん。昴大がお世話になったお礼とは全然釣り合っていないですが、後で登録しておきますね。……それで昴大」


 前振りはここまでと言わんばかりに。

 一拍の間を空けてから、宿泊客に向けるかのような、和やかな語り口から一転。身内にしか聞かせない口調で美紗は息子の名を呼んだ。


「監督さんから聞いたわ。レーサーを引退したんだってね」

「……やっぱり母さんと監督は裏で繋がっていたのか。……そうでもないと、母さんの手紙が届いたタイミングの良さの説明がつかないからな」

「引退した事、後悔はしていない?」

「していない」


 ここに来るまでの間、自分の心と現実にずっと向き合い続けてきた昴大は、母の問い掛けに即答した。

 

「現実を見ずにしがみつくよりは、納得して前に進もうと思っている。その気持ちの方が大事だから」


 押し黙ったまま親子は数秒間、お互いの目を見続けた。言葉の要らない会話を前に隼人とつばめもまた、相手を見つめ合う。

 一言も会話する事なく、余計な口出し不要との結論に達した。

 距離と立場の両方で二人は一歩引き、成り行きを見守る。


「そう……レーサーの引退に後悔していないのは分かった。それで、昴大はこれからどうするの? 改めて言っておくけど、昴大の人生は昴大のもの。やじまを継ぐのも継がないのも昴大の自由よ……」

「俺は……」


 一人称を口にした後で昴大は沈黙する。

 人生を左右する問答だ。

 左右から大量の車が行き来する道路の、信号機が無い横断歩道を渡るようなもの。

 ろくな確認をせずに横断など出来ない。

 一度立ち止まって安全を確かめるのは当然の事である。


「俺には生涯を共にしたい女性が出来たんだ。……自分勝手でわがままなのは分かっている。だけど、自分の宿を持ちたい彼女の夢を叶える為にも、俺はやじまを継ぎたいと思っているんた!」

「……いきなり帰って来たと思えば、何を虫がいい事を言ってやがる!」


 一世一代と言うべきかもしれない昴大の決意表明。

 だが、それまで濡れる可能性がゼロだった屋内に突然の鉄砲水が流れ込んで来たかのような、怒り心頭の声が背後から聞こえて来た。


「ぐはっ!!」


 ただ事ならぬ予感を胸に、隼人が振り向いた瞬間、鈍い衝撃音と昴大が呻吟しんぎんする声が響く。

 その音と声は、纏まりかけていたものを粉砕する不協和音そのものだった。

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