第18話 雨のち晴れ その一

 翌日は朝から雨だった。


 四輪車に比べれば、圧倒的に不安定な二輪車である。

 台風が猛威を振るっている中や、凍りついた道を好き好んで走ろうと考えるライダーはまずいないだろう。

 大人しく家に籠もるか、四輪車で外出するかの二択に違いない。


 天候不順や体調不良などが原因で遭難する危険が高い。そう判断した登山者が登山を取り止めるのと同じだ。

 なので実質、二輪車にとって最悪の天気は雨と言っていい。


「降り止んでくれないかなぁ」


 休憩中の道の駅の軒先にてつばめは、上下ともに白地に黄色や赤などで彩色された雨具を着用した状態で、雨天に向かってぼやいた。


 三人共に雫がついたままのヘルメットを抱えている上に、それ以上に濡れた雨具を着ている。

 上はともかく、下を脱ぐには一度靴を脱がなくてはならない。


 降り止む気配のない現状では、また雨具をまとわなければならない。

 脱いでは着る。

 それが面倒臭い三人は、用を足す以外で雨具を脱がないでいた。


 なので店内には入らず、外の自動販売付近で、座る事なく休んでいた。


「……気持ちは分かるがな。お天道さんの気分に文句言っても始まらんさ」


 無地の白い雨具に着用している隼人が、軽いため息の後で、降り止む気配が微塵も感じられない空を見上げて言った。

 予報では、今の夕方までは丸々雨が降るとの事だった。


 テレビでもインターネットでも。隼人が確認した天気予報の全てが今日、静岡県を含む広範の地域で梅雨入りした事を報じている。


 それ故、今日はいつも以上に休憩を多く取る事にしていた。


「お天道さんの気分……何で帰る気になった途端に雨になるかね……」


 青色の雨具を着ている昴大は、恨みが籠もる目で空を見上げた。

 隼人にはそれが、単純に雨天だけに向けられていないような気がした。

 むしろ昴大が自身を強く責めている。

 そんな印象を覚えた。


「……先輩は実家に帰ったらどうするのですか。数日の滞在か。それとも……」

「今のところは実家の旅館を継ぐつもりでいるがな」

「……あの、昴大さん。言いたくなかったら別に答えなくてもいいんですけど……」

「何で実家を継ぐ気になったか。かな?」

「そ、そうです」


 言い辛そうにつばめは首肯する。

 昴大の援護をするのであれば、昴大の事情を知れば知るほど良いのは確かだ。


「あ〜それはだな……」


 すると今度は昴大が、嬉し恥ずかしそうに言葉を詰まらせる。

 喜びを禁じ得ない反応を見せる昴大。

 隼人にも身に覚えがあった。


 人生初の恋人が出来た報告を、父親の直也にしようとした時の自分の姿。それを彷彿とさせる。


「……先輩。もしかして恋人ですか?」


 日本では恋人などを意味するが、中国やヨーロッパ。南米などでは侮辱的な意味になるサイン。

 左手の小指を立てながら隼人は、言いにくそうにしている昴大の代わりに言った。


「わぁ……」


 右手と左手を組み、目を輝かせながらつばめは昴大を見た。

 生まれ育ちがどうであれ、恋の話は女子全般の好物なのかもしれない。


「ああ、そうだ。俺には交際している女性がいるんだ。遠距離恋愛で!」


 半ば自棄やけ気味に昴大は声を上げる。

 自棄気味とはいえ、粗暴な言動やネガティブな感情はいっさい見られない。

 むしろ恥ずかしさやポジティブな言動しか感じ取れなかった。


「そうだったんですね。だったら次は、私たちが昴大さんの結婚を祝わないといけませんね」

「気が早いよつばめちゃん。……レーサーの引退を決意したのは、これが一番大きな理由だな。将来がどうなっているか分からないよりも、彼女の為にも堅実な生き方をしようと思ったんだ」


「とても素敵だと思います。……おつきあいしている方は、何をなさっている方なんですか?」

「鈴鹿市内のホテルで働いているよ。鈴鹿サーキットに遠征している時に知り合ったんだ。……将来的に彼女は自分の宿を持つのが夢だって言っているんだ」


「なるほど。それもあって先輩は実家の旅館を継ごうと」

「……身勝手過ぎると軽蔑するか? だけど俺は彼女の夢を叶えてやりたい。これは本気でそう思っている」

「軽蔑なんて……どうしてそれを今まで俺たちに言わなかったんですか?」


 男に二言はないといった辺りか。

 昴大の人となりを知る者として大体の察しはつくが、隼人はあえて質問した。

 憶測でものを考えるのと、証拠なり言質を基に考えるのとでは雲泥の差があるからだ。


 つばめを見ていれば分かる。

 彼女の解説は、綿密な勉強や研究を積み重ねた末に成り立っている。


 自信を持てるだけの準備をしたからこそ声に迷いは無くなるし、視聴者も意思や感覚を備えた人間だ。

 他人の心の機微を読み取る力は誰もが備えている。


 その時の気分次第で気になった動画があれば見る。配信を見る視聴者に、ジャンルはあまり関係ない。

 その意味では、ライバルがごまんといるのが配信者界隈の厳しさである。

 この人の動画好みと違うと思われれば、チャンネル登録をしてもらえないか、途中で登録解除されてしまう。


 千里の道も一歩から。

 一人の積み重ねの末に十万人がある。

 その意味では配信者にとって、毅然とした振る舞いは最も身につけるべき能力だ。


 そう信じて疑わないからこそ隼人は、事実を踏まえて行動する事を旨としていた。


「そんなのはやっぱり、カッコ悪いからだよ。レーサーになりたくて家を出たというのに今更になって、恋人の夢だからやっぱり継ぐだなんて、身勝手過ぎるだろ……」


 再会してから昴大が時折見せていた態度の根底には、想像以上に複雑な思いが絡み合っていたのを隼人は理解した。


 森の中にある、一本の木だけを凝視していたのでは分からない。それこそ外から森を見るような客観的な目で見ないと全体像が分からない。

 そんな感じを隼人は漠然と覚えた。


「……差し出がましいですが先輩、そこは分けて考えた方が良いと思います」

「分ける……」

「はい。過去とこれから進みたい未来。両方を混ぜて考えているから、先輩の中で複雑になっているような気がします」


「……過去は過去。未来は未来で考えろって事か?」

「はい。……つばめとつき合うに当たって俺は、つばめの家の事情を改善しようとは思いませんでした。つばめの話を聞いて、とても改善出来るとは思えなかったからです」


 一足す一ならともかく、レースの真っ最中に、鉛筆とノートが必要なくらいの複雑な計算を暗算で出来ないのと同じだ。


 同時に片づけられない問題は一つ一つ、分けて考えないといけない。

 隼人がレースをこなす中で培った人生訓である。


「だからつばめを愛する事は、他と分けて考えようと思いました。それは今も変わっていません」

「隼人……」


 昴大に交際相手がいると判明した以上、過度に遠慮する必要はない。

 説得と惚気。

 両方が融合した言葉を口にする隼人をつばめは、嬉しさが極まった、潤んでいる目で見つめていた。


「……隼人の言う通りだな。俺はいつの間にか自分の中で、勝手に問題を複雑にしていたようだ」

「……でも、さっきも言いましたけど、私は素敵だと思います。格好悪いだなんてとんでもない。凄く格好良いですよ」


 何で今まで気がつかなかったんだ。

 すっきりとしながらも、喪失感からくる感情。それが浮き彫りの顔で落ち込む昴大につばめは、優しい口調で語りかけた。


「ありがとう。つばめちゃん。お世辞でもうれ……」

「お世辞じゃありませんよ。本当に素敵だと思っていますから。……さっきの隼人の話と矛盾するようですが、愛する人の為に過去を乗り越えようと頑張る昴大さんは素敵です。益々応援したくなっちゃいましたよ。ね、隼人」


 昴大からの指摘を守りつばめは、同意を求める甘えた笑顔を隼人だけに向けた。

 元よりそのつもりだった隼人は、


「分かりきっている事を尋ねるなよ」


 と、わざと素っ気ない口調で言った。


「ま、つばめの言う通りですよ。好きな人の為に自分を変えようとする先輩はカッコいいの一言です」


 隼人とつばめの言葉に昴大は、降参だと言わんばかりの大仰なため息をついた。


「素敵とかカッコいいとか。……さっきから人の気も知らないで好き勝手言いやがって……筋金入りのお人好しだよ二人とも。その分、敵に回したくないタイプだ」


 言葉とは裏腹に、昴大の顔には諦めた風情の笑みが浮かんでいた。

 その後で、何かに気がついたように昴大は続ける。


「……あ、そうか。俺が今までこの件を黙っていたのは、二人に軽薄な人間だと思われたくなかったのもあったんだろうな。嫌われたくなかったんだ」


「思いませんよ。嫌われたくないから悪い癖を改めるとか。好きな人が出来たら自分が大きく変わるのは当然です。俺もつばめもそうでしたから」


 あえて隼人はつばめを見なかったが、雨具が擦れる音が隣から聞こえて来た事で、無言で何度も頷いているつばめの姿を想像する。

 遅れてシャンプーと化粧品の香気が漂って来た。


「……ま、敵わなくて当たり前か。俺には想像も出来ない、あまりにも濃い人生を二人は送っているんだからな」


 そう言った昴大の表情は、天候とは真逆のすっきり晴れ渡った、今まで解けなかったパズルが解けた時のようであった。


 知らない。分からないからこそ人は不安を抱えてしまう。

 隼人とつばめ。二人で納得して選び、自転車やヒッチハイクで日本一周するなど。

 似たような経験をした人の文章を読んだとはいえ、放浪生活という未知の世界は当然分からない事だらけであった。


 挫けそうになったのも一度や二度ではなく、放浪生活のいろはを教えてくれる人も皆無。

 バイクと各種装備品以外に関する事以外は全て、二人で考えながら答えを出すしかない。


 だからこそ心の寄りどころであるお互いの事を深く知る事が出来たし、世の中の在り様についても、自分らなりに定義づける事で二人は放浪の不安を薄めて来た。


 普通なら考えもしない領域までつまびらかにする。

 それは実践の中で哲学を学んでいるのと何ら変わりがない。


 有名無名問わず、道端の雑草一つ一つの名前や特徴を覚えるように。

 昴大の言葉は、普通ではない経験を積み重ねている隼人とつばめを的確かつ、端的に言い表していた。


「……よし。俺はもう充分休憩した。隼人とつばめちゃんはどうだ?」

「私はいつでも行けますよ」

「俺もです。トイレも済ませましたし、浜松までもうすぐですから。もう休まずに行きましょう」


「分かった。今度は俺が先頭で行くから。二人は俺について来てくれ」

「「はい」」


 ヘルメットを被った三人は再び雨水にその身を晒す。

 雨量は変わることなく、土砂降り以下。小雨以上を保っているように思えた。


 しかし隼人はバイザー越しに、休憩前の雨と今の雨を違うものとして捉えていた。

 休憩前の雨は自分らの未来を暗示しているようで、暗澹たる気持ちにさせていた。


 けれど今は、過去を洗い流して清浄にしてくれているかのような。良く言えば前向きに。悪く言えば身勝手な見方で雨雲を見上げた。


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