第21話 雨のち晴れ その四

 飲食店を出た隼人とつばめ、昴大の三人は雨上がりの浜名湖の湖畔の遊歩道を歩いていた。


 未だ雲が優勢なのは確かだが、光が差し込む程度だった空模様は徐々に回復し、ちらほらと青空が雲の隙間から見えるようになってきている。


 色彩と光量に乏しかった景色は十数分前の過去の話となった。

 周囲の観光客は、晴れ間が拡大していくのを喜んでいた。しかし三人の表情は一様に固い。


 というのは、瑛太郎に人生最大の課題。

 昴大がやじまを継ぐ為の試練を与えられたからである。


「……まずは先輩がどんな旅館にしたいのか。経営方針を固めるのが先決だと思います」

「そうですね。昴大さんが方針を立てて。その後で私たちが助言出来るところは助言するのが効率的だと思います。……出来るかどうかは別にして」


「簿記三級は取ったんだけど、金を数えるだけで旅館は回らないか……悔しいけど、今回は親父が正しいら」


簿記の資格があれば十分。

両親や従業員に実務を学べばいいと思っていた、考えの甘さを昴大は思い知った。

 遠州弁で昴大は、自らの考えの甘さを恥じた。


 三人がいた席についた瑛太郎は、美紗に促されながらではあるが、感情的に殴った事について昴大に頭を下げた。

 旅館の従業員らに連れられて行った後、美紗を事実上の議長に緊急の会議が設けられたという。


 議題はもちろん、昴大にやじまを継がせるか否か。

 その場で、将来的に昴大に継がせるという結論に至ったらしい。

これには瑛太郎も応じるしかなかったという。

下手にごねれば、やじまを支える従業員の心が離れていくかもしれない。


手が出てしまったのは過去のわだかまりから。

 捻くれた人格でない限り、何代にも渡って続いてきた家業を自分の代で廃業させたくない。そう思うのは当然だろう。

 頭が冷えさえすれば瑛太郎も、何が何でも絶対に昴大には継がせないという考えではなかったようだ。


 昴大もまた、殴られても仕方がない事を過去にしたのだからと、思うところはあるだろうが謝罪を受け入れた。


隼人とつばめ、美紗にとってこれは嬉しい誤算だった。

 きれいさっぱりとはいかないまでも、ある意味、最大の懸案はほとんど荒れる事なく解決したのだから。

 数瞬だけ三人は安堵する。

 しかし、続く瑛太郎の言葉が緩みかけた空気を再び引き締めた。


「どんな旅館にするか。俺なりの答えを出せ、か……」


 団体の旅行客が減り続ける中で起きた、世界的な感染症の流行が、更にやじまの経営を厳しくしたのだと瑛太郎は言った。

 一時は廃業も考えるほどだったという。


 そんな経営状態の旅館を継ぐのは、生半可な覚悟で務まるものではない。従業員の人生がかかっているのだから。


 それを踏まえた上で継ぐというのであれば、旅館の経営計画を練り、それで現役の旅館経営者を納得させてみろという訳だ。


 今は千客万来の時勢ではない。

 甘い考えで旅館を継げば、関係する誰もが不幸になる。

 昴大の本気度を確かめる試金石である一方、その裏には我が子に対する愛情が垣間見えた。、


 それもあってか。瑛太郎が突きつけた課題に美紗は、一言も反論しなかった。

 矢嶋夫妻の思いは同じという事だ。


「……」


 そんな両親の思いに応えるべく昴大は、全力で思考に集中する。

 昴大が自身の行く末を決める大事な時。

 思考を妨げたくない。

 隼人とつばめは昴大から、少し距離を取った。


「…………旅館の経営計画なんて、やっぱり部外者の私たちが余計な事を言わない方がいいと思うけど」


 声を落としてつばめは、思考にふける昴大を見据えながら言った。


「……その気持ちは俺も分かるが、先輩のお父さんも言っていただろ。旅館の経営者なら、部門ごとの様々な意見をまとめるのは当然だと」


 隼人も小声で返す。


「確かに言っていたけど……」

「俺たちもそうだろ」

「?」

「渡り鳥チャンネルは二人の分業制。つばめは解説担当で、俺が撮影と編集をする」


「うん」

「二人の意見をすり合わせて、共に納得する案にまとめる。……俺たちですらそうなんだから、旅館の経営者を目指す以上、先輩にその能力が求められるのは当然だ。だからどんどん意見すればいいと俺は思う」


 旅館経営者の仕事や苦労を完全に理解する事は出来ないけれど、それでも隼人は、瑛太郎の課題が予行演習である事くらいは理解していた。


 昴大の成長に繋がる。

 これも一種の恩返しと隼人は、昴大の考えがまとまるのを待った。


「……経営方針というか、年々宿泊客が減り続けている事への俺なりの対策を考えてみた。……ド素人の考えだが、客観的な立場で聞いてくれると助かる」


昴大が言うように、昴大は旅館経営に関しては素人だ。

最初から非の打ち所がない、完璧な計画を出せると瑛太郎は思ってすらいないだろう。


「もちろんです。その為に俺たちはここにいるんです」

「はい。昴大さんの考え聞かせて下さい。私たちの方こそ的確な事が言えないかもしれませんので」

「……俺なりに考えて見たんだが」


 こう切り出した昴大の表情は、明らかに強張っていた。レーサーとは似ても似つかない業態なのだから当然と言える。


 旅館の経営者ともなれば宿泊客をもてなすのはもちろんの事、呼び込む事といかに常連となってもらうのかも考えないといけない。


 外だけではなく、身内についても配慮する必要がある。


 更に温泉郷全体の発展についても腐心しなければならないのだろう。

 それら以外に隼人が思いつかない業務もあるはずだ。


 結婚相手である事以外に隼人とつばめの二人は、渡り鳥チャンネルを共同経営する個人事業主という側面もある。


 なので経営者という点では同じだが、事業の規模や責任の重さはまるで違う。

 それを昴大はこれから背負おうとしている。

 緊張の一つくらいするのが人情というものだ。


現時点で二人が昴大に言える事があるとすれば、税務は税理士に丸投げした方が楽ですよくらいのものである。


「感染症については、俺にはどうしようもないら。だから団体客の穴を埋める方法として俺は、バイク乗りに集まってもらう宿にしようと思う。ライダーハウス的な温泉宿だな」

「ライダーハウスの温泉宿。……良いですね」


 元バイクレーサーらしい発想だなと隼人は思った。

 しかも机上の空論に留まらない。

 ライダーハウスには必須の、駐輪場を確保出来るだけの土地がやじまの敷地内にはあるからだ。


「バイクに乗る人が集まる温泉宿。……凄く素敵だと思います」

「ありがとつばめちゃん。……そこでバイク旅のプロ二人に意見を聞きたい。ライダーハウスにあればいいものとか。こうしたらどうかとか。何でもいい。遠慮なく意見を言ってくれ」


 言って昴大は、近くのコンビニで購入したメモ帳とペンを手に取った。

 その目は真剣そのものだ。


「そうですね……」


 旅館で出す料理の献立を考えろというのならお手上げだが、これならこれまでの経験を元に実用的な事を言える。

 隼人はバイク旅をする中で、宿泊施設について思った事を言語化していく。


「……ライダーハウスにするのであれば、各部屋にマッサージチェアを置くのは有りだと思います」


 ホテルや旅館に宿泊する際、温泉や風呂から上がった後で隼人は必ず、休憩室にあるマッサージチェアに突撃する。もちろん空いていれば。


 理由は疲れを取る為だ。

 座席の位置や背もたれの角度を変えられる四輪車と違い、ハンドルと座席が固定されているバイクは運転に際し、ほとんど同じ姿勢を強いられる。


 結果、特定の部位。特に腰に負荷が掛かってしまう。

 対策としては体幹を鍛えるのも有効であるが、事故防止の観点からも、運転後の体のケアは隼人とつばめの生命線だ。

 その一角を構成するのがマッサージチェアである。


「マッサージチェア……確かに四輪車と違ってバイクは、ずっと同じ姿勢での運転が続く。各部屋にマッサージチェアがあるのは取り合いにならない分、確かに嬉しいかもしれん」

「後はタイヤの空気圧を測る設備もあれば便利ですね。ライダーハウスには必要だと思います」


 タイヤの空気圧を測る設備があればいいのにと思いつつ、ビジネスホテルや一般的な旅館にそれがあるはずもなく。

 ライダーハウスを名乗るには、絶対にあった方がいいだろうと隼人は、願望混じりに提案する。


「ふむ。それもありだな。……それならエンジンオイルもあっていいかもしれん」


 旅行の予定を立てるのが楽しいように、前向きな計画を練るのは心が浮き立つものだ。

 興が乗っているとしか思えない表情で昴大は、メモ帳にペンを走らせていく。


「それなら私も」


 律儀に右腕を上げてつばめは言った。


「どんどん言ってくれ。つばめちゃん」

「最近は女性でバイクに乗る人も増えているそうです。男性に比べれば少ないでしょうが、女性に訴える設備があってもいいと思います。……部屋とは別に、同時に何人も使える化粧台とか」


 男性はまず思いつかない、女性ならではの視点だ。やたら高額な投資が必要とも思えない。

流石は俺の嫁だ。

 さりげなく隼人はつばめに向けて、右手でサムズアップした。


「……うん。二人共、有益な提案をありがとう。本当に助かる」


 言いながら昴大は二人に向かって、深々と頭を下げた。

 周囲からしてみれば、一体何事かと思うに違いない状況である。


「よ、止して下さい。昴大さん。そこまでお礼を言われる事じゃありませんから」

「そ、そうですよ。……それにまだ大枠が決まっただけです。これから計画の細部を煮詰めていかなきゃなですから。まだまだ終わってはいませんし」

「……いや。二人に手伝ってもらうのはこれで最後だ」


 傍目には公衆の面前において、二人がかりで一人に謝らせている。

 事情を全く知らない人からすれば、隼人とつばめが悪者に見えてもおかしくない構図である。


「「……え?」」


 これが最後。

 きょとんと硬直する二人に対し、すぐに昴大は頭を上げた。その口から出た言葉を二人はまるで理解出来ないでいた。


 申し訳なさが滲んでいるものの、昴大の顔は真剣そのものであり、冗談を言っているようにはとても見えない。


「……いきなりこんな事を言って、二人には本当にすまないと思っている。二人の意思を尊重したかったから少し手伝ってもらったけど、これは本当なら俺とあいつで叶えるべき夢なんだ。……だからここから先は二人で取り組みたい」


 自身の右拳を見下ろしながら昴大は、思いの全てを絞り出すように吐露する。

 その後で隼人とつばめに向き合う。


「あるんだろ? 隼人とつばめちゃんにも成し遂げたい事が。……バイクの放浪生活なんて、この先何十年も続けられるとは到底思えないからな。これ以上、俺たちの夢に二人を巻き込む訳にはいかない」


「で、でも私たちは……」

「よせ。先輩の言う事の方が正しい」


 戸惑いながらも食い下がろうとするつばめの眼前に隼人は、左腕を突き出しながら言った。


「先輩の言う通りです。今は問題なく過ごせていますけど、リスクの塊のような今の生活を……もっと普通の環境で俺はつばめと一緒にいたい。先輩には悪いですけど、俺たちが最優先すべきはそこですから」

「……」


 二人が安心して暮らせる場所を創る。

 隼人とつばめの理想だ。

 二人だけに留まらない、普遍的な理想の未来を示唆されてはつばめも、口を閉ざすしかなかった。

 自然と三人の足は、バイクを駐めた駐輪場に向けられる。


「隼人が悪く思う必要なんてないら。俺だって出来るなら二人の力になりたい。なりたいが、俺たちの夢と二人の夢を同時に叶える事は出来ないからな」


「……課題に合格した時は連絡してくれますよね?」

「当たり前だ」

「ならよかった。吉報を待っていますよ」

「もちろん。やるからには、それ以外の未来なんて考えていないって……これからすぐに出発するのか?」


「はい。梅雨入りしてしまったので、先輩の件が済み次第、予定を変更。この時期に雨が少ない北海道を目指す。二人でそう決めましたから」

「北海道か……遠いな」


 両まぶたを閉じた状態で昴大は俯き、呟くように言った。

 その顔には隼人とつばめが遠くに行ってしまう寂しさや、二人の力になれない無念の思いなどが見て取れた。


「遠いです。だから先輩を手伝わなくてよくなった以上、留まる理由もなくなりました。理想に一歩でも近づくために。……俺たちはこの一年そうやって生きてきましたから」


「……お払い箱にしておいて、引き止める資格が俺にあるはずがないからな。……だから約束してくれるか。今度会う時も、二人揃って顔を見せてくれると」

「当然です」


 昴大と約束を交わした直後、灰色のカバーで覆ったバイクが見えた。

 隼人は注意深く周囲を見渡す。張り込んでいる車がいるなどといった、不審な点はどこにも見当たらない。

 隼人は雨に濡れたカバーを外した。


「手伝うぜ」

「ありがとうございます」


 隼人と昴大で両端を持ち、軽く上下に振った。残った水滴は、洗車用の雑巾を持ったつばめが拭き取っていく。


「……私の方こそ約束ですよ。次に来る時は、やじまで彼女さんに会えるのを楽しみにしていますから」

「ああ。……一部変わっているところもあるけれど、つばめちゃんになら喜んで紹介するよ。もちろん渡り鳥チャンネルもおすすめしておくら」


「はい! ありがとうございます……よしこんなものかな。入れていいよ」

「分かった」


 バイクの後輪の左側に取りつけてある鞄からつばめは、隼人と自分のヘルメットを取り出した。


 水気を拭き取ったカバーを隼人は、丁寧に畳む事なく、同じ鞄にそのまま押し込むように詰めた。

 バイクカバーやテントはいつも同じ折り方をすると、その折り目の部分だけ撥水機能などが低下してしまうからだ。


「隼人」

「ん」


 その後でつばめは、隼人のヘルメットを手渡した。一連の作業は卒業式のように、粛々と行われた。

 後はヘルメットを被り出発するだけだ。


「……またな」


 短く言って昴大は、握り締めた両手を二人に突き出した。


「ええ。また」

「また会いましょう。昴大さん」


 ヘルメットを被った後で隼人は昴大の左手に。つばめは右手にそれぞれの左手を軽く突き合わせた。

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