第12話 日本一を望む旅烏 その四
性別を除き藤倉つばめという女は、これまで見てきた女性と何もかもが根本から違っている。
隼人は未だに、つばめをそう見てしまう時がある。
好きで好きでたまらない特別な女である一方、時々ぶっ飛んだ。世間知らずの言動に出るのがその理由だった。
現代に伝わる藤倉家の家系図が本物なのであれば、つばめの生まれ育った家は平安時代から続く貴族の家である事。
完璧な証拠にこそならないが、家系図の他に、平安時代の作とされる刀が家宝として伝わっているそうだ。
家系図や家宝の真偽はともかく、日本の大企業の上位十社を規模や知名度で選別するのであれば、常に候補企業の名簿に名を連ねるであろう藤倉重工。
そんな大企業の創業者の子孫かつ、現社長一族という超大金持ちの家の出身なのだから、一般的な女性と行動原理が異なっていても不思議ではない。
指輪の宝石を嵌める部位に、そこらで拾った小石が嵌まらないように。
根っからの庶民である隼人らとつばめとでは、生まれと育ち。生来の輝きが違っていて当然なのだ。
学校での教育とは別に、藤倉家独自の教育が存在しているのは以前、つばめ本人から隼人は聞いていた。
その内容は、普通の家庭では考えられないほどに、日本料理や芸術など。各種日本文化を尊び、学ぶようだ。
その分野における一流の専門家を招き、教えを請うていたという。
自国の文化を尊重し、子孫に語り継がせようとする姿勢そのものは非常に素晴らしいと隼人は思う。
日本人の一人として見習いたいくらいだ。
その点とつばめと出会わせてくれた事に関してのみ隼人は、藤倉家に心からの拍手を送りたいほどである。
だが、それを可能にするだけの経済力が全く無い、無関係かつ大多数の人間からすれば奇異に映るのは致し方ない事である。
そこまでやるか普通? と他者に思われる程度で済む分にはまだマシだ。
問題はその延長線上にある。
どれだけ立派かつ崇高な理念を掲げようと、一般常識と
勘違いや思い込みで行動する。
隼人もこれまで、それが原因で何度も失敗して来た。
そしてつばめの場合は、箱入り娘の形で現れる。
悪意こそ無いが、一般常識にそぐわない言動をしてしまう。それと知らずに。
その度に隼人は、つばめのズレを矯正して来た。これまでに何度も。
アウトレットを出発した三人は、昴大を先頭に御殿場市内を移動していた。
目的地はカラオケボックス。
隼人は思い出していた。
昴大がカラオケ店へ行く理由は、全力で歌う事でストレスを発散させる為である事を。
本人が語っていたのだから間違いない。
実際、昴大がレースで惜敗した時などがそうだった。
その時の昴大は、一人か。誰かを伴ってかの違いはあれど、必ずと言っていいくらいカラオケに向かい、マイクを片手に熱唱していた。
隼人も幾度となくお供してきた。
人前で歌う事に抵抗はなかったし、やけっぱちだったのだろうか?
使用料金から飲食代まで。全額を昴大が出してくれるとあっては、先約が無い限り行かない手は無い。
昴大がカラオケに行くのは、決まって何らかのストレスを抱えており、それを発散させる為である。
隼人はそう認識している。
大抵の場合それは、昴大がレースで良い結果を残せなかった時だが、百パーセントという訳ではない。
明らかにレースと関係ないタイミングで隼人が、昴大にカラオケに行かないかと誘われた時も何回かあった。
恐らく私生活の中か。昴大の過去に起因するストレスなどが突き動かしているのだろう。
今回のカラオケはそれに該当するのではないか? 隼人はそう推測している。
昴大がこれまで見せてきた、謎の落ち込みを伴った言動を鑑みれば、一定の説得力はあると思っていた。
「昴大さんの事が心配?」
信号待ちで物思いにふける隼人に、つばめの声がインカムの有線経由で届く。
「……つばめに隠し事は出来んな。その通りだ」
「出発する時、心配している時の顔をしていたから」
「全ての表情を覚えられているからな。つばめの瞬間記憶能力には敵わん」
「だから瞬間記憶能力じゃないって。記憶術!」
「悪い。そうだったそうだった」
女の勘とは、直感と洞察力。相手の表情や声色に隠された心情を読み取る力だと、ブログか何かで読んだ事がある。
女は男より力で劣る為、危険を回避する術としてそれが必要なのだとも書いてあった。
そこに超能力めいた記憶術が組み合わさる事で、つばめの女の勘は驚愕に値するものとなっている。
「先輩がカラオケに行くのは昔から、ストレスを解消する目的があったからな」
「……立場上、隼人が昴大さんを心配する気持ちは分かるけど。だからといって、人の人生に深く介入し過ぎる理由にはならないよ」
「分かっている。先輩の人生を俺の好き勝手にするつもりはない」
「それが分かっているならいいよ。他人の意思を無視してまで、自分の意見を強要して良い訳がないからね」
望まない許婚を押しつけられてきただけに、つばめの言葉には、圧倒的な揺るぎなさと説得力が付随していた。
(やっぱり、待つべきだよな……)
愛妻の強固な思いが籠められた言葉に隼人は、昴大が話すまでこちらからこの件に触れるのはよそう。
この考えをより鮮明にした。
そこから市内を走る事数分。
渋滞に巻き込まれる事を避ける為、駅前から少し離れた場所にあるカラオケボックスの駐車場に到着した。
「カラオケだるま……今はこんな賑やかそうな場所でも歌を歌うんだね……」
「……」
戸惑いを隠しきれない様子でつばめは、二階建ての建物を見上げた。昼間なのでネオンは光っていないものの、それでもその為の電飾や看板は色鮮やか。
気の合う仲間同士で歌い。飲食を楽しみながら大いに盛り上がる。ここがその為の施設である事が充分に伝わってくる。そんな店構えだ。
カラオケボックスが賑やかなのは当たり前の話だが。
隼人が気になったのは、つばめがその事を知っているようで知らないのを匂わす発言をした事だ。
(いくら世間知らずのつばめでも、カラオケがお金を払って、楽しんで歌を歌う場所である事くらいは知っているよな?……)
今までどれだけつばめの世間知らずを矯正してきたか。
つばめを信じる一方で隼人は、これまでの経験から不安を拭いきれないでいた。
手続きをする為に、先に入店した昴大に続いて二人も中に入る。
「中はもっと賑やかというか、派手な内装なのね……」
気分を盛り上げるオレンジ色を多用しているだけでなく、全体的に高級感も演出された明るい受付周辺は、つばめが言う通りの賑やかさだ。
隼人たちとは別に受付をしていた、若い男性四人組が盛り上がっているのも、雰囲気作りに一役買っていた。
「カラオケボックスはこんなものだ。皆で歌って騒ぐ場所だからな」
「ふぅん……そうなんだ……」
昴大は最初から楽しむ気満々であるし、隼人もつばめと初めてのカラオケだ。
カラオケデートに準じているだけに、隼人の気分は右肩上がりで高揚している。
そんな二人とは対照的につばめは、何処か腑に落ちないというか。納得していないように思える顔をしていた。
少なくとも、これから楽しく歌おうという顔には見えない。
隼人と昴大。つばめとの間で何かが食い違っている。
マラソン大会のスタート地点で、隼人と昴大がやる気に満ち溢れているのに、つばめは出来るのであれば帰りたいとさえ思っている。
そんな感じを隼人は受けた。
体調不良にも見えない。
駆け落ちの放浪に出た最初の頃は、慣れないバイクに酔っていたつばめだが、今は完全に克服している。
バイク酔いの可能性も除外した。
「受付終わったぜ……ってつばめちゃん。何だかテンション低いな。ここに来る間に夫婦喧嘩でもしたか?」
「し、してません」
図星を突かれたからなのか? ありもしない疑いをかけられたからなのか?
口調こそ物腰柔らかだが、有無を言わせぬ迫力を全身から醸してつばめは、昴大の言葉を否定する。
「そ、そうか? ならいいんだけど……」
つばめの迫力に気圧された昴大は、そう言った後で助けを求めるかのように、狼狽え気味に隼人の目を見据える。
「つばめが言った通り、俺たちは喧嘩なんてしていませんよ」
「……あ〜すまん。夫婦喧嘩については俺の勘違いだったな。けど、つばめちゃんのテンションが低いのは確かだろ?」
「テンションが低い?……テンションって紐とか針金が引っ張られた状態の意味の英語ですよね? 私は紐でも針金でもありませんよ?」
なぜ人間を紐や針金に例えるのか。
意味を理解していない、きょとんとした顔でつばめは首を傾げた。
「え? つばめちゃん。楽しいからテンション上がるわ〜とか言わないの?」
「……すいません。そのような言い回しをした記憶がないです」
つばめは数瞬考えるも、思い当たる節が無いと答える。
つばめと昴大が大きく食い違う中、隼人だけが今の状況を正しく理解していた。
「先輩。つばめは安易にカタカナ語や俗語を使うなっていう家庭で育ったんですよ。だからテンションじゃなくて、士気とかやる気とか。日本語で言わないと意味が通じない時があって」
カタカナ語の意味が通じない。
世俗に疎い、つばめの箱入り娘ぶりの中で一番多いパターンである。
俗語とまでは行かないけれど、保守的な家庭で育ったつばめは現代的と言うべき表現に疎い。
デートやインターネットのような、適切な日本語訳が存在しない言葉を除き、出来るだけ日本語での表現をしないと理解が及ばないのである。
また、たとえ漢字であっても、SNSのコメントで(笑)の意味合いで草が用いられる理由をつばめは理解していなかった。
隼人はこれまで、カタカナ語やインターネットスラングをほとんど理解していないつばめの辞書。あるいは通訳の役割を果たしてきていた。
「そういう事ね。……つばめちゃん。ここはなんて言うか。……気兼ね無しに、楽しく歌って良い場所なんだから。そんな顔をしていたら、楽しめるものも楽しめなくなるぜ」
カタカナ語を日本語に置き換えながら話しているので、分かりやすく頭を捻りながら昴大は言葉を紡いでいく。
「……確かにそうですね。暗い気持ちでいたら詠む歌も暗くなっちゃいますもんね」
「……」
読む?
歌は歌うものだろ……つばめの言い損じか?
心の中で腕を組み考えるも、読むという動詞を歌につける理由が、隼人には全く見出だせなかった。
一先ず隼人は言い間違いで処理する。
「と、とにかく部屋は取ったんだ。立ち話は後にしよう。時間がもったいないから早く行こうぜ」
昴大も隼人と同じ事を感じている。
それを言葉の端々に読み取れた。
そうしましょうと隼人も同意する。
人前で歌う事と明らかに違う緊張。あるいは微かな不安を抱えながら隼人たちは、指定された部屋の中に入った。
人数は三人なので、あてがわれた七人くらいが定員の部屋の中は暗い。
前後に長い長方形の形状に、壁にもたれ掛かって座る長椅子とテーブル。一番奥にカラオケの機器とモニターが配置された、典型的なカラオケルーム。
外からの視線を最小限にする為に、扉以外に窓は一つも無い。
狭い上に、太陽光が完全に遮断された部屋に観葉植物がある筈もなく。
天井のミラーボールやタンバリンなど。人工物しか存在しない室内に、自然を感じさせる要素はゼロだ。
「……今はこういう場所でも歌を詠むんですね。全く知らなかったです」
「「……」」
モニターの光が闇を照らす室内を軽く一瞥しながらつばめは、戸惑いをより色濃くしていく。
何の説明も無いまま、初めて見る道具で作業しろと言われた時のような気分に隼人は陥る。
初見で未知の物をどう扱えば良いのか?
つばめの真意が掴めない男二人は、揃って口を閉ざすしかなかった。
「と、とりあえず飲み物を頼もうぜ。酒はまだ飲めないから俺はコーラにするけど、隼人とつばめちゃんは何にする?」
妙な雰囲気を執り成そうとするあまり、焦りを隠しきれていない口調で昴大は言った。
テーブルの上にはパウチされた献立表が置かれている。
その中にアイスコーヒーの文字を見つけた隼人は即決する。
「俺は決めたぜ。つばめは何にする?」
その後で壁にある受話器の隣に立った。
昴大は先輩だし、つばめは受話器の意味を知らない可能性がある。自分の役目だ。隼人は気を悪くする事はなかった。
「えっと……じゃあ、緑茶で」
「了解。食べ物はどうします?」
「昼メシを食べたばかりだし。とりあえず今は何もいらないな」
「私も」
「分かった。飲み物だけで」
受話器を取った隼人は、対応した店員に注文の三品を告げる。
分かりました。少しお待ち下さいと店員が言って通話が終わった。
その間に昴大はマイクや端末の準備を進めていた。
「最初は誰が歌う? 最初は野郎より、女の子の歌を俺は聞きたいけどな」
「わ、私ですか?」
つばめの顔に貼りついた困惑が、平面から立体になったように隼人には見えた。
隼人と昴大。つばめとの間にある何かのズレがより顕著になった感じだ。
「わ、分かりました。では折角なので、富士山を使った歌を」
「お! 良いね。という事は演歌かな? つばめちゃんは声もきれいだから。演歌でも何でも。いい歌が聴けそうだ」
「あ、あまり期待しないで下さい……あそこで歌えばいいのですか?」
つばめの目は部屋の奥に向いていた。
「あそこでも良いし。椅子に座ってモニターを見ながら歌っても良いよ。つばめちゃんのやりやすいようにして」
説明しながら昴大は、タッチペンつきの端末をつばめに差し出した。
「分かりました。こういう場所で歌うのは初めてですが、僭越ながら私から歌わせてもらいます」
言ってつばめは、曲の入力はおろか、マイクさえ持たずに奥へ向かった。
「あれ?……つばめちゃん。曲入れてないよね?」
「? はい。歌は私の頭の中に全部入っていますから」
昴大の疑問符に、つばめもまた疑問で答える。
例えるなら、昴大は海水浴に行こうと言ったのに、つばめはスキー板を持ってきたかのようなちぐはぐさだ。
そのやりとりに隼人は静観を決めた。
確実につばめは、海水浴にスキー板を持ってくるのに近いレベルで何かを勘違いしている。
しかし、その何かが分からない以上、現時点では手の打ちようがない。
これまでもそうだった。
発生するまで世間知らずは、外から一切見えない。事が起きてから教える対処療法が唯一の打てる手だ。
相手の間違いを正すのも役目の内。
お互いが支え合い生きて行くとはそういう事でもある。
マイクを持っていないつばめがモニターの前に立った。
カラオケでは常識の行動を一つも取らないつばめに昴大は、どう動けば良いのか分からず固まっている。
「失礼します。飲み物をお持ちしました」
ノックの後で扉を開けた若い男性の店員が、飲み物を片手に入室して来たのと、つばめが短く息を吸ってから口を開いたのは同時だった。
「田子の浦にうち出でてみれば白妙に富士の高嶺に雪は降りつつ」
(ああ……読むじゃなくて詠むの方ね)
つばめの短歌を聞いた瞬間、直近の疑問が全て解消すると同時に、隼人の意識は小学生の頃に戻った。
学校行事の中であった、校内百人一首大会の本番と練習で何度も耳にし、今も薄ぼんやりと覚えている短歌の一つ。
短歌や俳句では、歌を詠むという言い方はごく自然な事である。
逆に短歌や俳句と関わりが無い者は、読むの表記を思い浮かべる筈だ。
隼人は同じく小学校の授業で、俳句を学んだ経験を思い出した。
五・七・五と季語。
先生から俳句の基本を学んでから繰り出したのは、近所の公園だった。
自然の真っ只中で俳句を考えた記憶が蘇ったのと、短歌と俳句を発表する場は和室というイメージが一般的だ。
藤倉家での教育が根底にあるのだろう。
これまでの言動を鑑みればつばめが、普通の日本人より長く短歌に接して来たのは疑いようがない。
そんな彼女からすれば、自然を一片たりとも感じられないカラオケで歌う事は戸惑いでしかなかっただろう。
「今日びカラオケで短歌を歌う女子がいるなんて……」
昴大と男性店員は逆の意味で呆然としていた。人間、予想外の事態に接すれば硬直する実例だ。
「……また、やった?」
二人の反応を目の当たりにしたつばめもまた、呆然としながら隼人に問うた。
「ああ。またやった。だが問題ない。ここは歌う場所だ。現代の歌もあれば、昔の童謡もある。ならば短歌を歌っても何ら問題ない。つばめが気にする必要は一切ない」
つばめといると本当に飽きないな。
妙な意味で隼人は、妻に迎えた女と出会えた喜びを噛み締めつつ、その言葉を飲み込んだ。
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