第13話 日本一を望む旅烏 その五

 夕陽の色に染まる富士山。

 日本で最も美しい山の景色の一つ。


 そう言っても過言ではない光景を前に隼人は、キャンプ場から借りた焚き火台でバーベキューをする為の火起こしと、野菜の下ごしらえをしていた。


 燃やしているのは薪ではなく木炭。

 薪は木炭よりもすすが多く出てしまうからだ。

 安さよりも健康を。

 その事実を知っているからこそ隼人は、薪より値段が高い炭を選んだ。


 今日泊まるキャンプ場は、東の方向に富士山を望む場所にある。

 夕焼けの西日を浴びる富士山を眺めつつ隼人は、屋根つきの炊事場にて一人で調理作業をしていた。


「隼人。昴大さんとテント立てるの終わったよ」

「おう。ありがとな。こっちもすぐに焼けるくらいの火力になったぜ。野菜も全部切った」


 そこへつばめが昴大と共にやって来た。

 テント泊をする時の二人の取り決めの一つに、風が強いなどの例外を除き、調理とテント設営を交代でするというのがある。


 今日の調理担当は隼人。テント設営担当はつばめだった。


 キャンプ泊が小学校以来という昴大は、テントを立てたいと言ったので、つばめと一緒にテントを設営。

 その作業を終えて炊事場にやって来たのである。


「手伝うよ。何をすれば良いかな?」

「そうだな……」


 つばめの問いに隼人は、言いながら周囲を見渡した。


「こっちも火起こしと、野菜を切るのは終わっているから。皿とかの準備を頼む」

「了解。任せろ」


 どちらかの作業が先に終われば、終わっていない方の作業に合流するのも二人の間で決められている。

 その不文律に従い、つばめと昴大は手をしっかりと洗った後で、飲み物や皿の準備などの作業を始めた。


 共同作業で絆を深めるという意味もあって二人はこれまで、パエリアやブイヤベースなど。家でもほとんど作られないような料理に挑戦した事もあった。


 しかし今回は、いつもと違い時間があまり無かったのと、昴大がいるから皆で賑やかに食べるのが良いだろうということでバーベキューとなった。


「流石、手慣れているだけの事はある。素人目で見ても、テントを立てるつばめちゃんの動きに無駄はなかったしな」


 三人分の紙の皿や割り箸を用意しながら昴大が言う。

 隼人とつばめのテントと、昴大がキャンプ場からレンタルしたテント二つは、炊事場から少し離れた、富士山がよく見える場所に設営してある。


「つばめちゃんの指示が無かったら、俺だけではこんなに早く立てられなかっただろうしな」

「そんな事ないですよ。昴大さんのおかげで普段より早く立てられましたから」


「俺とつばめは週に一、二回くらいの割合でキャンプをしていますから。これくらいは」

「普通は……ああいや。何でもない」


 バツが悪そうに昴大は、焼肉のタレや塩コショウが入っている、隼人とつばめのマイバッグの元へ向かった。


「……つばめ。そろそろ肉を焼き始めないか。後は飲み物を用意するくらいだし」


 恐らく昴大は、普通の人はそこまでの頻度でキャンプをしない。そのような事を言おうとして、慌てて口をつぐんだと隼人は推測した。

 それを言ってしまえば、二人の生活が普通ではないという意味になるからだ。


 口が滑るなど誰にでも起こり得る。

 頭に来る事は無かった。

 表情からしてつばめも同様だろう。

 してもしなくても良い指示を出す事で隼人は、若干淀んだ空気を吹き飛ばそうと目論んだ。


「うん。分かった」


 笑顔で答えたつばめは、炭が燃え盛る焼き台の上に鉄板を置き、少し時間を空けた後で豚肉から焼き始めた。

 脂身が無い時の定石通り、充分に豚の脂が流れ出たところで、他の肉や野菜を載せていく。


 肉の様子を確認しながらつばめは、昴大がここに来る道中のホームセンターで購入した、テーブルの上に置いてあるクーラーボックスの蓋を開けた。


 中には昴大がスーパーで購入した酒と、キャンプ場の自販機で買ったジュースとお茶。保冷用の氷が入っている。


「昴大さんは最初に何を飲みますか?」

「ありがと。最初はビールを頼むよ」

「はい。ビールですね」


 野外で肉を焼いて食べる。

 当ての無い旅路の中で、つばめが最も気に入った事の一つだ。

 鼻歌が聞こえて来そうなくらい喜びに満ちた表情のつばめは、水滴と氷の粒を纏ったビール缶を取り出す。


 彼女曰く、高級店のステーキは確かに美味しいし、舌も胃も満足する。が、開放感のある野外で、気心が知れた者同士で調理して賑やかに食べる。

 それがもたらす満足感は高級店にはないという。


 それはそうだろうと隼人は思う。

 確かに高級店の料理は、技巧と洗練の極みにあるのだろう。

 少なくとも味の一点において、単なるバーベキューが高級店のステーキに敵う筈がない。


 一回の食事だけで何万円もする。隼人はそのような店に入った経験が皆無なので、中身については想像するしかなかった。


 しかし、テーブルマナーやドレスコードなど。自由を束縛する類の規則はここには無い。

 当たり前の常識さえ守れば、自由気ままに飲み食いが出来る。


 良識以外の規則が無い、最高の時間が二ヶ月ぶりにやって来た。

 カラオケ店での恥も、笑い話にしそうなくらいつばめの機嫌は良い。


 細かい理屈は学者に任せるとして、隼人もつばめの心理は充分に分かる。

 脳の何処かで何かが味覚を麻痺させているのだろう。辛気臭い雰囲気で食事をしても味がしないだけだ。


 逆に多幸感に包まれた中での食事は、食品工場で大量生産される品であっても美味しく感じられるものだ。


 良くも悪くも精神状態は、生理学的な影響を味覚に与える。

 隼人はその両方の状態を、身を以て体験していた。


 初めてつばめの事情を知った日。

 母親がいない事を除けば、普通の家庭で育った隼人には、想像すら出来ない苦悩の年月をつばめが過ごして来た事を知った。


 話を聞く事以外は、何一つつばめの力になれなかった隼人は、バイクで速く走れるだけの無力な人間である事を知った。


 加えて、もっと早く聞いてやれば良かったという後悔が隼人の心を支配した。

 そうすれば、つばめの苦悩を少しでも減らせてやれたのに、と。


 それまでの人生の中で、間違い無く最大であった無力感と後悔。この二つを噛み締めながら帰宅後に自炊した夕食は、何の味もしなかった。


 逆に、初めて渡り鳥チャンネルの登録者数が十万人を突破した時に食べたのは、その日が悪天候であった為、コンビニで購入した物となった。

 しかし、多幸感が調味料になっていたのだろう。


 テントを叩く雨音を聞きながら、つばめと二人で祝いながら食べたコンビニの弁当おにぎり。

 いつもと同じ包装をしているのに、それらはまるで二人の為に特別に作られたかのように、最高に美味しかった。


 味以外の要素が複雑に絡み合う事で、単に焼いただけの肉も総合的な意味で最高の味になる。

 味覚の面からも隼人は、つばめの存在を愛おしく思っていた。


「昴大さん。隼人。肉焼けたよ」

「ああ。分かった。今行く」

「うん。良い匂いだ」


 隼人がつばめへの愛を再認識している間に肉が焼けたようだ。

 焼けた肉が焦げるのを防ぐ為、炭の量を減らす事で鉄板の上に設けた保温区画。そこに肉を移動させているつばめの呼び声に二人は答えた。


 隼人はクーラーボックスの中から、緑茶のペットボトルを取り出した。


「つばめは何を飲む」

「そうだね。紅茶にしようかな」

「紅茶ね。……あいよ」

「ん。ありがと」


 隼人はつばめに無糖の紅茶のペットボトルを手渡した。昴大は既にビールを手に持っている。


 二十歳になっていない事以上に、今の生活をしている限り隼人は、いかなる時も飲酒はしないと心に決めている。

 一時の快楽とつばめの安全。天秤に掛けるまでもない二択だ。


 つばめもまた、隼人が飲めないのに私だけ飲む訳にはいかないと、二人共に十九歳の時点で禁酒宣言をしている。


 本物の酒を飲みたくなったら困るという事で、ノンアルコールにすら手を出さない腹づもりだ。


「全員飲み物は持ったな。……じゃあ、隼人とつばめちゃんの結婚と、夫婦円満に乾杯!」


 年長者の昴大が乾杯の音頭を取った。

 再会を理由にした乾杯は昨日の夜にしているので昴大は、隼人とつばめの結婚と仲の良さ。二つの事柄を祝うべくビール缶を持ち上げた。


「「乾杯」」


 隼人とつばめも、それぞれのペットボトルを昴大のビール缶に軽く当てながら口を揃えた。

 その後で各々の飲み物を口へ運ぶ。


「やっぱ外で飲むビールは格別だな」

「いい飲みっぷりです。先輩」

「男に褒められてもな。……いや、つばめちゃんに言ってほしい訳でもなくてだな」

「いい飲みっぷりでしたよ」


 うろたえ気味の昴大につばめは、くすりと笑って言った。

 生来の美貌と相まって、心底惚れ込んでいる隼人から見ても男殺しの笑顔だ。たちの悪い男を引っ掛けないとも限らない。

 つばめの身の安全の為にも隼人は、一言釘を刺そうと思ったら、


「参ったな。……つばめちゃん。世間知らずもほどほどにな。隼人の知り合いの俺だからまだ自制が利くけど、他の男の前でそんな顔をするなよ。下手すれば修羅場になるからな」


 代わりに昴大がやんわりと苦言を呈してくれた。俺が言うからの意味で昴大は、自分の左手の平を隼人に向けながら。


 俺とつばめの仲にほんの僅かでもひびを入れたくない。そんな配慮からの行動と隼人は解釈する。

 頭が下がる思いだった。


「あ……またやっちゃいました?」

「そ。人を信じる気持ちはめちゃくちゃ大事なのは確かだけど、世の中善人ばかりじゃない事はつばめちゃんがよく知っているだろ。つばめちゃんの笑顔は文句無しに最高なんだ。極力、隼人だけに見せるようにした方がいい」


 昴大の言葉に隼人は、口にこそ出さないが百パーセント同意する。


 交通事故や急病人に災害など。

 自己中心的な人間と揶揄されようが、緊急事態にでも直面しない限り、自分だけがつばめの特別な人間であってほしい。

 その気持ちは隼人の心中で常に存在していた。


「……まだ二人と出会って二日と経っていないけど、二人の絆は例えチェーンソーであっても切れそうにないな。それが充分過ぎるほどに伝わったよ……」


 ここで昴大は自らの行いを後悔しているというか。反省しているというか。

 これまで何回か目にしてきた表情をここでも浮かべた。その直後、自分でもその心境に気がついたのだろう。


「悪い。今は三人で楽しく飲み食いする時間だもんな。俺が水を差す訳にはいかねえや。……おっといけね。肉の面倒を見なくちゃな」

「「……」」


 含みがある物言いの後で昴大は立ち上がり、焼き台の方へ向かった。隼人とつばめは無言で顔を見合わせた。


 今は何もしない方がいい。

 半ば直感で思った隼人は、何も言わずに立てた右手の人差し指を、自分の唇に当てる様をつばめに見せた。

 つばめは神妙な顔つきで頷く。


 続けて隼人は、楽しむべき食事の時間を意図して壊す必要はどこにもないと、昴大の言葉に追従する。


「ちょっと早いかもしれないが、焼きそばを食べるか? 材料は切ってあるから後は焼くだけだし」

「うん。食べながら二人で作ろ」


 二人並んで料理を作るくらいなら、見せつけにはならないからね。

 そう言外に言わんばかりにつばめは、隼人を引っ張りながら言った。


 夜の帳が降りきり、富士山が半月に照らされる中、心ゆくまで三人は食事を楽しんだのだった。

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