第14話 日本一を望む旅烏 その六

「まだお腹いっぱいだよ」

「あれだけ食えば当然だろ」


 天井にぶら下げた、太陽光と手回しでの蓄電が可能なランタンがテントの中を照らしていた。


 横になっている隼人の左手とつばめの右手は、二人の指を交互に組み合わせる事でしっかりと繋がれている。

 この手は絶対に離さない。

 決意をお互い確かめ合うように。


 季節を問わず、テント泊では必須の折りたたみのマットの上で横になっていた隼人は、隣で寝そべるつばめの横顔を見ながら呆れ混じりに言った。


 今いるキャンプ場は標高が八百メートル以上の場所にあるので、初夏とはいえ夜は冷えるかもしれない。

 安眠の為に、空気で膨らませる枕で二人は頭を支えている他。収納袋に入れたままの寝袋も二つ。それぞれの枕元に用意してある。


 バーベキューを完食した後で、灰とゴミの処理と鉄板を洗うなどの片づけを済ませてから、キャンプ場の有料シャワーで汗汚れを洗い流すなど。

 食後から一時間以上が経過しているにも関わらず、未だにつばめは腹をさすっていた。


 親しき仲にも礼儀あり。

 隣のテントに一人でいる昴大に配慮し、声を落として二人は会話していた。


 最も、さほどうるさくないいびきが十分ほど前から、隣のテントから聞こえて来ている。

 なので声量に注意しながらも、隼人はそれほど気兼ねしていなかった。


 昴大は夕食の場で、三本の缶ビールを飲んでいた。

 安眠妨害と言えるほどではない、昴大のいびきを耳にしながら隼人は、二十歳を前に飲酒について調べる中で目にした文章を思い出した。


 酒を飲めば寝つきは良くなるが、睡眠の質は悪くなるという研究結果だ。

 それは前日の疲れが抜け切らないという事だろうか?


 その疑念は払拭出来ていない。

 つばめの命が自分の運転に掛かっているだけに、やっぱり二十歳になっても飲酒は止めておこう。

 改めて隼人は心に決めた。


 付随して、つばめと添い遂げる為にもずっと健康いたい。なので煙草にも手を出さないでおこうとも。


「食べ過ぎは太るだけだぞ」


 健康について考えを巡らせていた流れで隼人は、食べ過ぎによる健康への影響を、未だ満腹感を訴えているつばめに告げた。

 隼人は腹八分目ほどに抑えている。


 一回の食べ過ぎ自体の影響は小さいだろうが、乱雑に積み重ねた本のように、何かのきっかけで崩壊してしまいかねないのが健康だ。

 日頃の注意が健康管理で肝要であるのは言うまでもない。


「だって美味しいんだもん。外で食べるご飯は。お肉は特に」

「それは分かるが……」

「それに大丈夫だよ。明日は走る日なんだから。食べ過ぎた分は運動で落とせばいいんだから」


「……明日は走る距離をいつもの二倍にするか?」

「隼人の意地悪。……場所は予定通り大井川?」

「その予定だ」


 使わないものは衰え、いざという時に力を発揮出来なくなってしまう。

 バイクで移動し撮影。編集作業などを除けば、後は風呂と食事と睡眠だけ。そのような毎日を過ごしていては、試すまでもなく体力は低下する。


 適度な運動は健康の維持に欠かせない。

 そこで二人は、キャンプを週に何回か行うのと同じように、ランニングを行う事も決めていた。


 隼人は体を鍛える事が当たり前の元バイクレーサーであり、質と量が減ったとはいえ、染みついた習慣は現役を退いた今でも継続中だ。

 つばめも心技体を重んじる家訓から、小学生から高校まで。ずっと剣道に打ち込んで来た。なので鍛錬に忌避感はない。


 共に鍛錬の下地がある事と、不健康を招いてしまえば、その分だけ二人の日々に狂いが生じてしまう。


 これも二人の未来を守る一環。

 隼人の中にある強固な信念が、身と心の両方を支えていた。つばめも同様なのは疑う余地が無い。


「大井川の河川敷は、一度は絶対に走ってみたかったコースだからな。明日が楽しみだ」

「私は隼人が隣で走ってくれればどこでも幸せだよ」


 言ってつばめは、頭から爪先まで。体の右側全てを隼人に密着させて来た。

 シャワーを終えて三十分ほど経つが、つばめのシャンプーの香りは未だに健在だ。


 香りで男心を包み、絡め取る。

 欲求は右肩上がりで貯まる一方、安心しきって身を寄せているつばめに、野の鳥獣の如き真似は出来ない。


「……」


 照りつける太陽。

 大井川のせせらぎ。

 火照った肌に心地よいそよ風。

 ランニングで乱れる息遣い。

 汗が染み込んだ白いTシャツは、つばめの体のラインと下……


「また私で変な想像してない?」


 つばめに手を出せない以上、せめて想像くらいさせてくれ。

 隼人の健全な妄想は、頬を膨らませたつばめの一言により、良いところで中断させられた。


 映画で最も盛り上がる場面で停電が発生し、画面が映らなくなる。

 最高にがっかりな気持ちを隼人は飲み下した。


「だからしてないって。疑り深いなぁ」

「本当に?」

「本当だ! 大事なつばめで変な妄想を抱く訳がない」


 本心を後づけする事で、後ろめたさを半減させよう。小賢しい舌戦を隼人は展開する。


「……今日のカラオケでの勘違いを笑わなかった事に免じて許してあげる」


 なんだかんだでつばめもまた、後づけの理由で矛を収めてくれた。

 本気で怒っていないからこそ着地が可能な妥協点。


 せっかくつばめが落としどころを用意してくれたのだ。

 ここで下手な言葉は吐けない。

 隼人が上手い話題の切り替えを頭の中で模索していた時だった。


「おおっ。そこそこ! 良いねぇ」


 一体何の夢を見ているのか?

 隣のテントから、はばかる事の無い昴大の寝言が聞こえて来た。

 寝言の内容と声の機嫌からして、とても幸せな夢を見ているに違いない。

 隼人とつばめは顔を見合わせ、声を押し殺して笑う。

 昴大にその気が全くないとはいえ、隼人からしてみれば最高の助け舟だ。


「……トイレがてら、少し散歩でもしてこないか?」


 腕時計を見たらまだ、二十一時を少し過ぎた程度。

 寝るには少し早い気がする。

 まだまだつばめと話していたいが、ここで話していては昴大を起こしてしまうかもしれない。

 隼人は小声で提案する。


 良い夢を見ている昴大に悪いし、もしそうなれば自分たちも悪い気になってしまうだろう。

 双方にとって良い事はない。


「そうだね。そうしよ」


 物音を立てないように隼人とつばめはそっと起き上がる。


「鍵は……あった」


全てのテントが同じかどうかは知らないが、二人のテントの出入り口を開け閉めするジッパーには二つのスライダーが取りつけられている。


二つのスライダーにはそれぞれ穴が空いている。防犯目的で二つのスライダーの穴に通した南京錠を隼人は解錠。

 天井のランタンを左手に取った隼人は、テント出入り口のジッパーを右手でゆっくり開けていく。


 野生動物がいてもおかしくない環境。

 つばめの安全の為にも隼人は、最初に顔を出し、周囲の安全を確かめる。

 幸い、目に見える範囲に動く影は見当たらない。


 簡単に着脱が出来るサンダルを履き、外側から南京錠での施錠を確認した二人は、足音を立てないようにしながらテントを離れた。


「わぁ……」


 驚嘆の声を発したままつばめは、夜空を見上げて固まった。

 隼人は妻の視線の先に目を向ける。


「これは凄いな……」


 隼人も感嘆の言葉を吐く。

 眼前には影になった富士山と、満天の星空。

 星空鑑賞の妨げとなる人工の光がほとんど無く、空も晴れ渡っているため、ありのままの星空が視界を埋め尽くす。

 隼人はランタンの光を消した。


「……何度見ても星空は見飽きないね」

「確かに」


 この旅の中で二人は、両手の指では到底足りない数の星空を見上げて来たが、いつ見ても新鮮な気持ちで眺められる。


 目に見える一つ一つの星それぞれが、人智の及ばない存在だ。

 それが無数。

 いつも新鮮な気持ちで星空を見られると言うより、絶対に把握しきれないからいつも新しく見えると言う方が正確なのかもしれない。


 二人は再び手を繋ぐ。

 宇宙の謎の解明は天文学者の仕事だ。

 今は余計な解説は要らない。


「お爺さんお婆さんになっても二人で星空を見上げようね。約束だよ」

「もちろんだ」


 いつまでも、悠久の星空を二人で眺め続けられるように。

 そう願うだけで十分であった。


(つばめとの約束を叶える為には、年老いてからも健康でいないと)


 健康でいる事。今を維持する事。


(これからも事ある事に、同じ誓いを立てる事になるんだろうな)


 つばめの手の温もりと柔らかさ。

 かけがえのない価値を握りながら、隼人は改めて決意を固めるのだった。

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