第9話 日本一を望む旅烏 その一

 運転と労働。昴大との予想外の再会を果たした一日の隼人の感想は、とにかく疲れたの一言だった。


 今日はもう運転しない。

 隼人がそう思った瞬間。緊張という心のバリアが解けた事でやって来た睡魔は、汗と一緒にホテルのシャワーで洗い流した。


 今はつばめがシャワーを浴びていた。

 本日宿泊するビジネスホテルの一室で、トイレと一体化した浴室から水音が漏れ出て来る。


 それを絶えず聞いていた隼人は、時折喉を鳴らしつつ、ノートパソコンの画面に一人向かっていた。

 ホテル備えつけの寝間着姿で。


 パソコンで作業しているのは、煩悩由来の体の疼きを誤魔化す為だ。

 動機は性欲から目を逸らす為だが、動画の編集作業の為に隼人はパソコンを操作していた。


 以前訪れた観光地で隼人が撮影した、数あるつばめの解説映像を、有料の動画編集ソフトで一本の動画に纏める。


 二人の現在と未来を支えるだけに、過去のつばめの言葉を分かりやすく視聴者に伝える編集作業に手は抜けない。


 普通なら何泊かするであろう、名所や史跡などが盛り沢山の伊豆半島を日帰りで往復した。その疲れが自覚出来る頭を全力で回転させる。

 まだ寝るには早い。

 それも自らに言い聞かせながら。


 昴大は同じホテルの別の部屋に、一人で宿泊している。


『無理を言って同行したのだから、今日の夕飯の代金は俺が出す。だから、三人でどこかに食べに行こうぜ』


 今日はこの後、ホテルの一階に集まり、昴大のおごりで夕食をご馳走になる予定である。

 悪いからと最初は一度、割り勘や個別の会計を隼人とつばめは提案したが、昴大に譲る気は感じられなかった。


 並行線のまま、不毛な議論を続けるのは時間の無駄遣い。隼人とつばめは早々に諦めた。


 二台のバイクをホテルの駐車場の車一台分のスペースに駐め、隼人とつばめのバイクにカバーを掛けた後で、それぞれ宿泊手続きを済ませ今に至っている。


 疲れた頭で集中する事しばらく。

 二つの意味で周囲から意識が切り離されていた隼人は、部屋の中の変化に気が回らなかった。


「あ〜っ。やっぱり編集してるっ!」


 ホテルの寝間着に身を包んでいるつばめが、化粧を落としたすっぴんの頬を膨らませながら大股の速足で接近する。


 バイクの収納に限りがある中、これだけは絶対に外せないと、つばめが愛用しているシャンプーの香り。それを背中の中ほどまで伸びる黒髪に纏わせながら。


「もうっ! 今日の隼人は一日中働いたんだから、もう仕事しないって約束だったでしょ!」

「悪い悪い。どうにも何かしていないと落ち着かなくてな」


 感情の赴くままに生きる、野獣の如き男だと彼女に思われたくない。性欲という主語を省いて隼人は言い訳を口にする。


「む〜〜」


 隼人から見て可愛く唸り、腕組みをしながらつばめは思案する。

 見ていて本当に飽きない。

 気がつけば惚れ直している。


 つばめと出会えて。愛し合う関係になれて本当に良かった。

 心の底から隼人はそう思うも、藪蛇の可能性を考えて、その一言は胸の内にしまっておくことにした。


「……そう言えば!」


 やがて何らかの答えに辿り着いたのか。

 腕組みを解いたつばめは、興味一色に彩られた瞳で隼人を見つめる。


「隼人って大浴場が無いホテルの時、私がシャワーを浴びている間は絶対にパソコンで作業しているよね。……なんで?」

「そ、それは……」


 こちらが回避したと思ったら、向こうから話題を振って来やがった。

 世の中は思い通りにならない。隼人は痛感し、無理やりにでも心を組み伏せるしかなかった。


 記憶術に長けたつばめが断言しているのもそうだし、何より隼人本人にその自覚がある事だから。


 同意を得ず一方的に襲いかかる。

 肉食動物の狩りではないのだから、そのような行為はしたくなかった。


 分かりやすい例え方をすればそうなるけれど、そこは知性ある人間として野獣になぞらえるのはどうか? そう思った隼人は言葉を選ぶ。


 他者を都合良く動く駒。世の中の方が自分を中心に動いて当たり前。そうとしか考えられないのであれば、つばめの元許婚である細井我流と根は同じになってしまう。

 それは死んでもしたくない。


「俺がつばめを大切にしたいからだ」


 曖昧と言われれば曖昧だが、答えとして間違っていないよな?

 頭の中で隼人は精査した。


「? 私を大切に?……ノートパソコンで作業する事がそうなるんだ……?」

「……」


 先ほどと違う意味合いで。困惑気味につばめは唸った。

 隼人もどう答えればよかったのかの正解を見失い、押し黙る。


 つばめのシャワーを浴びる音にムラムラするから、集中が必要となる編集作業で気を紛らわせている。

 いよいよ本当の事を語らなければならない時が来たのか。


 逡巡する隼人が目を逸らした先にあったホテルの窓からは、富士山の山頂部分が雲から少しだけ顔を出していた。

 これ幸いと隼人は口を開く。


「見ろよ。少しだけ富士山が雲から見えているぜ」

「ほんとだ! 到着した時は全然見えなかったのに……明日はもっと大きくてきれいに富士山が見られるのかな?」

「……見れるかどうかは、明日の天気次第だな。だが……」

「だが?」


「もし明日、富士山がきれいに見えなかったとしても心配いらない。俺がいつでも、きれいに見える日に連れて行ってやる」

「……うん。隼人が連れていってくれるのなら、明日見えなくても問題ないね」


 機嫌が直った様子のつばめは、満面の笑顔で言いながら、椅子に座る隼人の脚の上に優しく座った。

 隼人の視界を遮るように。

 ドライヤーで髪を乾かした熱と、シャンプーの香りを隼人は、肌と鼻で感じ取る。


「だから今日はもう仕事はお終い。明日は昴大さんとの再会を記念して、富士山周辺で遊び倒すと三人で決めたんだから。……四捨五入すれば今はもう明日だよ」

「……分かった」


 意味が通るような。通らないようなつばめの言い分だが、ここは大人しく丸め込まれておくのが正解と隼人は判断した。


 同時に、大胆なスキンシップを向こうから仕掛けて来たのだ。

 おそらくは、独身である昴大の手前。彼の前で隼人と睦み合う事を控えた揺り戻しなのだろう。


 今は昴大がいないからと、全力で甘えて来たに違いない。

 隼人としても拒否する理由は無い。


「じゃあパソコンの電源を落としてくれるか。つばめの体で前が見えん」

「うん。いいよ」


 つばめの腹部に右腕を回し、左手はそのままつばめの左手の上に乗せる。

 パソコンをシャットダウンさせる操作の後でつばめは、隼人の動きを拒絶するどころか、更に上半身を預けて来た。


 このままでいて。

 声にならない声を隼人は受け取った。


 望むところだ。

 何もしない事で隼人も、無言の返事で答えた。


 バイクレーサーの現役を退いた今、日課と言うほどではないが、隼人は現在でも体を世の男性の平均以上に鍛えていた。

 愛している女一人の体くらい、いつでも支えられる状態は整っている。


「……待ち合わせの時間まで、まだまだ時間があるから。少し話をしようよ?」

「ああ。いいぜ……」


 さて、何を話そうか。

 お終いと言われてしまった以上、仕事の話をするべきではない。

 ならば明日の事について話すべきか。

 無難な話題を思いついたところで、つばめが先に口を開いた。


「やっぱり私。隼人とずっとこうしていたい。本当に落ち着くから」


 他意を微塵も感じさせずにつばめは、隼人の上で言った。

 顔が見えないので表情は分からないが、声色から察するに、安らぎに満ちた顔をしているのだろうと隼人は想像した。


 密着した状態でそう言ってくれる。

 男冥利に尽きる言葉だ。


「俺もつばめを離さない。何があっても」


 それに応えて隼人も、僅かな力を両腕に加えて言った。


「……私ね。出会う前から好きだったよ。隼人の事を」

「そうなのか?」

「うん。そう……下田からの道中は、私が隼人に聞いてばかりだったから。今度は私の事を話すね」


 昴大の登場が影響しているのは間違いないだろう。

 下田からここに着くまでつばめは、隼人の事をいつも以上に聞いてきた。自分の事を知ってほしい願望もあるので、痛くもない腹を探られる苦はなかった。


 しかしつばめは一方的で、公平性に欠いていると思ったようだ。隼人の上で、僅かに考える素振りを見せた後で口を開く。


「あれは私が、駆け落ちの計画を練る前。黒塗りの車で中学校に通っていた時だったよ」


 よほど機嫌が良いようだ。

 つばめ本人が言うところの籠の中の鳥。実家で過ごしていた時の話を自分から切り出したのだから。


 無理をしているようにも思えない。

 それならば余計な口を挟む事も無いと隼人は、口を閉ざし、傾聴の姿勢を取る。


「車が信号で止まった時、隣から腹に響くような音が聞こえて来て。何かな? と思って外を見たら、一台の大型バイクが同じ信号で停まっていたの……」

「大型バイクのエンジン音を聞いてテンションが上がる人間は、それだけでバイク好きだ」


「……その理論の是非はともかくだけど、そのバイクは男性の人が運転していて。何だか、凄く自由というか。……彼の走りたい通りに走れているって感じが伝わってきたの」

「そうだ。レースや仕事で走っているなら別だが、バイクの行き先は自由に決められるものなんだ」


 相槌と言うには、かなりの熱量を込めて隼人は言った。


 バイクレーサーは引退したが、バイクへの情熱は全く冷めていないどころか、年を追うごとに熱を帯びている。

 体が続く限り、一生バイクに乗り続けたいと隼人は考えている。


「その人も私たちと同じで、幾つも収納箱をつけていたから、バイクで一人旅をしていたのかもしれない」

「そうかもしれないな」


「そこから両親や家の者に内緒で、スマホでバイクの事を調べて。その魅力にどんどん嵌っていったの。その中で隼人の事を知ったわ。高校生で日本一になったって」

「なるほどな」


 初対面にも関わらず、いきなり現れて駆け落ちを申し込んだのには、そのような背景があったのか。

 自由を求めていた籠の鳥が、どこへだって行けるバイクに興味を持ち、その流れの先で隼人の存在を知り接触してきた。


 自身のみならず、隼人の人生を良い意味で変えた。

 つばめの接触は、単に情動に突き動かされたのはではなく、きちんと考えた末の行動だった。その事に隼人は得心がいった。


「表彰台で隼人が笑顔でいる写真を見て、そこから惹かれ始めたんだけど、どこに住んでいるかも分からなかったから。その時は諦めたの。……借りを作る事だから、藤倉家の力は使いたくなかったし」


「……ま、俺は近所のお嬢様女子高の制服を着たつばめが現れた時は、少しばかり驚いたな。学校のランクが違いすぎて、生徒の接点はほとんどない筈なのに」


「そうなの! まさか隼人の高校が近所にあるとは思わなくて。同じ学校の人が話していたのを聞いたの。バイクレース日本一の高校生男子が、同じ市内の高校に通っているって」


「マジか!……本当に奇跡としか言いようがないな。つばめがその会話を聞いていなかったらと思うと……」

「そうだね。二人のどちらかでも違う事をしていたら、今は無かった可能性は高いもの」


 正しい道を進まないと目的地に辿り着けないように。それぞれ無数にある選択肢の中から選んだ先に、将来を誓い合った相手がいた。


 つばめが言うように、お互いが道を一つでも違えていたら、今は無かったかもしれない。


 想像するだけで隼人は、身震いしそうになった。

 それはつばめも同様のようだ。

 抱いた体から隼人は、微かな震えを感じ取った。


 至上と信じてやまない二人の出会いを隼人は、確率とか可能性の一言で片づける事をとっくに止めていた。

 人智の及ばない、途方もない何らかの力が二人を結びつけた。そんな出会いだからだ。


 隼人が改めて、神風が吹いたとしか思えない、つばめとの出会いに思いを馳せていると、


「……私降りるね。何だか急に、隼人の顔を見て話したくなったから」

「……分かった」


 もっと上にいても良かったのに……

 口ではそう言いながらも、後ろ髪引かれる思いで隼人は、恋人を抱いていた手を解いた。


 つばめは隼人から降りたその足で、ダブルベッドの端に腰を下ろした。

 隼人は回転する椅子ごとつばめに向き直る。


「それで覚えた顔を頼りに、隼人を探し回ったわ。市内と言っても高校は幾つもあって、人数も多いから大変だったよ」

「それはそうだろう。高校は小中に比べて生徒の数が多いんだから」


 言った後で隼人は思い出した。

 つばめと対面する数日前から、市内の名門女子高の制服を着た生徒が一人、正門を遠巻きに見ていたという話を。


「じゃあ、つばめに声を掛けられる数日前から、俺の高校の正門にお嬢様高の女子生徒が出没するようになったってのは……」

「それ多分私……」

「めちゃくちゃ噂になっていたぜ。凄え可愛いお嬢様校の子が正門前にいるって」


 あれは間違いなく、有名芸能人以上の噂になっていた。有名無名問わず、一人の人間の噂としては開校以来、過去最大だったのではないか?


 あの子の目当ては誰だろうな? 俺にもワンチャンあるかな? 

 当時は男子生徒を中心に、大いなる勘違いで持ちきりとなっていた。


「もちろん隼人を探していたの。駆け落ちというか……交際を断られ続けたら、私が隼人を直接雇うプランも考えていたわ」

「それは初耳だ」


「初めて言ったからね。……隼人の事を根掘り葉掘り聞いておいて、私の事を話さないのはフェアじゃないし」

「社長とヒラの関係……それ考えたら、話を聞いておいて良かったぜ。つばめとは今と違う関係になっていたかもだし」


 よくやった。昔の俺!

 隼人は心の中で、過去の自分に感謝の念を送信した。

 つばめのストーカーまがいの行動については、あえて触れないでおく事にした。


「後は隼人も知っての通り」

「つき合ってからは、何をするにしてもほとんど一緒に行動していたからな」

「密談を含めてね」


 隼人より後に生まれたつばめが、未成年者でなくなる十八歳。それを待ってから駆け落ちを実行に移す計画の煮詰め。

 計画に穴があってはならない上に、それをいかに極秘で進めるか。


 ここまで来ると、恋人同士ではなく忍者仲間。清い交際というより隱密活動と言うのが、二人の関係を言い表す言葉としては適当だった。


 芽が出るその時まで土の中で過ごす。

 世間一般とかけ離れた中身が、二人のデートだった。


 我慢の準備期間を経たのもあるだけに、失ったものを取り戻すという気概は二人共に強い。


 昴大との約束がある。

 隼人は部屋備えつけの、デジタル置き時計に目を向けた。


「先輩との待ち合わせまで二十分ほどだ。そろそろ準備しようか」

「そうだね。これも二人の思い出作りの一環だから……今日は昴大さんの前だから、ずっと我慢していたの」


 言ってつばめは、向かい合った状態で隼人との距離を詰めた。

 彼女の視線は隼人の唇に注がれている。


 つばめが望んでいるものは同時に、隼人も求めるものであった。


「今日も一日お疲れ様。隼人」

「つばめもな」


 言って隼人は、つばめの唇に自らの唇を重ねた。


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