第10話 日本一を望む旅烏 その二
駅前の夜。
太陽と役割を交代した街の灯りが、雨を降らせない雲の輪郭を照らし出していた。
「見た目が最高に可愛いだけでなく、気配りも出来る。つばめちゃんは本当に良い女の子だな」
つばめを絶賛しつつ昴大は、ホテル出入り口の自動ドアから外に出た。
そのすぐ後に隼人が続く。
「本当に。最高の女です」
過剰にのろけると嫌味にしかならない。
端的かつ短い相槌を打った隼人は、二人が宿泊している部屋の窓を見上げた。
明かりはちゃんと点いている。
しかし、隼人の心には僅かではあるが、拭いきる事の出来ない不安が貼りついている。
つばめがホテルの部屋で、一人きりでいる事がその理由だった。
ほんの数時間前に隼人への愛を語っていた以上、今の幸福を手放したくないと思っているのは間違いない。
万が一、見知らぬ人間が尋ねて来ても、鍵を開けて招き入れるという愚は犯さない筈だ。
(大丈夫だ。つばめは絶対にそんな事をしない!)
隼人は自らに、強めの暗示を掛けるかのように言い聞かせた。
その後で、見上げていた目線を昴大に向ける。
終始和やかな雰囲気のまま、夕食の一次会は終了した。
このままカラオケで二次会しないかと昴大が発案するも、疲労と明日がある事を理由につばめは辞退を申し出た。
なら仕方ないね。
気を悪くした様子もなく昴大は、あっさりと引き下がった。隼人は当然つばめに寄り添い、ホテルに戻るつもりでいた。
しかしつばめは、積もる話も一杯あるでしょ。と、隼人の疲労を気に掛けた上で、問題ないなら昴大と一緒に二次会へ行って来たらと提案したのだ。
恋人の言葉に隼人は、体の内面に意識を向けた。
自覚出来るほどの疲労感はあるが、昴大と久しぶりに話せる時間。それと天秤にかけるだけの重さがあるかと言われれば、ある筈がない。
つばめは確かに大事だが、そのせいで昴大が蔑ろにされたとあっては、逆に彼女の重荷になってしまう。
昴大もまた上機嫌そのものだ。
ここで選択を誤れば、隼人が悪者になってしまう。
好き好んで敵を作ろうとは思わない。
隼人としても、恩がある昴大との再会を袖にしようとは微塵も思っていない。
「今日び珍しいくらいの女の子だ。絶対に手放すなよ」
「絶対にしませんよ。少なくとも俺からは絶対に」
言うまでもない事と隼人は、浮気という言葉を肺の奥に押し込んだ。
「分かっていればいいさ。……あ! そうだった」
何かを思い出した昴大は、何かに急かされているかのようにスマホを取り出す。
「済まないが、二人のチャンネル名を教えてくれ。これが終わったら部屋で見たいからな」
「もちろん大歓迎ですよ。ちょっと待って下さい……」
隼人もスマホを取り出した。
画面を指で操作して、隼人とつばめのチャンネルを表示させる。
「これです」
「えっと……【渡り鳥チャンネル 駆け落ち系配信者つばめと隼人のバイク旅】か。他はともかく、駆け落ち系配信者とは……こいつはまた思い切ったチャンネル名にしたもんだな。……これを命名したのはつばめちゃんだな?」
「そうなんですよ。インパクトがあるチャンネル名にしたいと言って。ああ見えて肝が据わっているところがありますから」
「そうだろう。隼人は慎重に事を進めるというか。昔から大胆な性格じゃなかったからな」
チャンネル名を決めた際のやりとり。
これを思い出した隼人は、ごく軽い頭痛を覚えはしたが、昴大の好意的なフォローに救われた気がした。
「でも、俺はこういうの好きだぜ。型に嵌まらない、自由な感じがしてな……」
「先輩?」
「ん! ああいや、何でもない」
会話の中身を考えれば、熟考を挟む必要があるとは思えない。
しかし昴大は、後悔や未練など。昔の自分に何らかの強い念を抱いている時の、歯を噛み締めている表情を見せるも、それは一瞬の事だった。
ため息を強く短く吐いた昴大は、即座に平常の精神に立ち返る。
レースの最中に、レース以外の雑念に囚われるのは良くない。能力が落ちるだけでなく最悪、死亡事故に繋がる。
レーサーの専売特許ではないけれど、気持ちの切り替えは、早ければ早いほど良いのだ。
「ま、とにかくチャンネル登録はしておくよ」
「ありがとうございます」
「それに、登録者数も十万人を超えているのか。凄いな」
「それ、明日で良いのでつばめにも言ってやって下さい。めちゃくちゃ喜びますよ」
「ああ、分かった」
つばめにとって渡り鳥チャンネルは、生活資金を稼ぐ為だけの存在ではない。
愛する隼人との共同作業である。二人で知恵を絞り、試行錯誤を繰り返しながら企画運営しているものだ。
それが今や配信者全体の一パーセントにも満たない、十万人超えのチャンネルにまで成長させる事が叶った。
それでいて今この時も伸び続けている。
『今は、このチャンネルが私の子供みたいなものだから』
つばめの何気ない一言を隼人は思い出した。
今の放浪生活をしている限り、子供を産み育てる事は不可能だ。
提出した婚姻届は受理されたにも関わらず、二人はまだ子宝を得られない。得てはならない状態にある。
不意に発せられたものの、隼人との子供が欲しい。言葉を変えて発せられた、つばめの心からの願いが、余すところなく乗っていたと隼人は考えている。
つばめにとってチャンネルの成長は、我が子の成長と同義なのだ。
隼人も同じ気持ちでいる上に、つばめが喜んでいる顔は、どんなに美味しい料理よりも大好物である。
それ見たさに隼人は、昴大に希望を伝えていた。
「……頑張っているんだな。隼人もつばめちゃんも。未来が全く見通せない中で、懸命に……」
「……」
対する昴大の反応は、背後に後悔と苦悩を感じさせるものだった。
隼人は昴大の人となり以外は、彼の過去を全く知らない。知っているのは静岡県出身である事くらいだ。
(確か先輩は、浜松市の出身と言っていたような……)
隼人はおぼろげな記憶を頭の中から引っ張り出した。
(先輩は筑波を拠点にしていた。……今は浜松に帰る途中なのか? それにしては寄り道がとんでもないが……)
昴大と再会したのは下田。
そして明日は富士山の方に行く予定で、昴大も乗り気である。
筑波から浜松に帰るにしては、相当な寄り道だ。のんびり帰るつもりと言ったところで、かなり苦しい説明なのは否めない。
二人の旅に同行させてくれ。
そう申し出た理由は、今の昴大の反応に隠されているのかもしれない。
昴大が大きく迂回し続けている理由については、本人の説明を待つしかない。
もし昴大が浜松へ帰るつもりなら、隼人とつばめにしても伊豆半島で撮影する目的は達成した。
後は東京と逆の方角に行くだけ。浜松へ行く分には何ら問題はない。
隼人は今も昴大が、細井我流の手下だと思っていない。
昴大の人間性は信頼しているが、それとは別に隼人には、彼の行動について気になる点が一つあった。
元とはいえ、隼人もレーサーだったから分かる。
使わなければ感覚が衰えるのは、道具を使うスポーツ全般に言える。バイクレースも例外ではない。バイクの走行感覚は、間が空けば空くほどに失われていく。
瞬発力や持久力。体幹などのトレーニングもレーサーには欠かせない。
旅をしながらでも各種の体力トレーニングは出来るけれど、走行練習だけは法律の面で不可能だ。
レースを想定した速度で一般道を走ろうものなら速度超過は免れないし、レース用のバイクで公道を走ってはならない。
同行する具体的な期間は分からないが、このまま同行を続ければ続けるだけ、昴大がレーサーとして培ってきたものは喪失していく事になる。
昴大がその事を知らない筈がない。
理解した上でやっているのだ。
自ずと一つの推論に行き着くも、本人がそうだと口にしていない以上、隼人から切り出すのは憚られる。
それくらい繊細な事だ。
相手が旧知の仲であろうと、おいそれと他人の人生に首を突っ込むつもりはない。
それに、そうではない可能性はまだ充分に考えられる。
なので隼人は、この件は胸に秘めておくことにした。
杞憂で済んだなら墓場まで持って行けば良いし、的中したところでそれは昴大の人生である。
犯罪を防ぐなど。特段の理由も無しに、隼人が勝手に介入する訳にはいかない。
「ああ、いかんいかん。せっかく隼人と再会したのに」
立ち止まっていた昴大はそう言って、バツが悪そうに、自分の後頭部を右手で掻いた。
仕草からして、隼人の予想通りの事を考えでいた可能性はある。
「そうですよ。久しぶりに先輩と会えたんですから。楽しく食べましょうよ。俺もう腹ペコです」
心中を漏らす事なく隼人は言った。
昴大との再会を楽しむ為にも、彼の過去について、下手に触れないでおこう。
そう結論づけた隼人は、空腹を我慢する事に注力した。
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