第8話 旅は道連れ その四
「風が気持ち良いね」
つばめと一緒の人生を彩る。
その為には、仕事はもちろん大事だが、旅を楽しむ事も忘れない。
今この時こそが、人生の煌めく一ページとなるのだから。
下田で予定していた全ての撮影を終えた隼人とつばめは、昴大と共に下田の遊覧船に乗船した。
熱海でもそうだったが、五月の大型連休とお盆休みの間にある今は、平日という事もあり観光客の姿は少ない。
最も良い位置を難なく押さえた、黒を基調とした遊覧船の甲板。ここで感じる潮風は、つばめが言った通り、心地良いの一言だった。
海と湖の違いはあれど、遊覧船に乗った時の動画は、つい一ヶ月前に配信していたので今回は見送る事にした。
仕事抜きに短い船旅を謳歌する。
柵にもたれながら風を愛でる恋人。
青空が所々で見える、雲優勢の明るい空を背景に、カモメやウミネコといった海鳥が船を追いながら飛んでいる。
つばめが手なづけているかのように。
実に絵になる光景だった。
この様を見せつけられれば、許婚がつばめにぞっこんである事のみ頷ける。
しかし隼人は、顔を知らない。知りたくもない男のそれ以外を認める気には絶対にならない。
つばめを振り向かせる為のやり方や、接し方。人格については最悪としか言いようがないからだ。
「そうだな。肌で感じる風はやっぱり気持ちが良い」
隼人は彼女の言い分を全肯定する。
バイクを運転している時は、もちろんヘルメットの着用は必須であるし、暑くてもライダースーツは着た方が良い。
しかし、肌が露出していないその状態で感じるのは、風というより風圧だ。
涼を感じるどころか、運転を阻害するものでしかない。
今は自分で操縦していない事もあって隼人は、風の心地良さを全身で味わう。
潮気を含んだ風に乗せて、隼人が許婚に抱いていた不快な感情。これを吹き飛ばすイメージだ。
「今は運転していないからな。なおさら心置きなく味わえる」
「あ……」
言葉にならない声を零してつばめは、申し訳なさそうに俯いた。
自らの至らなさを恥じる。
そう読み取れるような顔をしている。
「どうしたつばめ。……もしかして船酔いか?」
恋人のただならない言動に隼人は、思いついた推測を口にした。
一ヶ月前に遊覧船に乗船した際は、特に体調不良を訴えなかったつばめだが、人間の体調は一定ではない。
前回は問題が無かったとしても、今回もそれがそのまま当て嵌まるとは限らない。
長時間バイクに乗るのは過酷である。
ハンドルと座席の位置を変えられないバイクでの移動は、背もたれつきの快適な座席を備えた四輪車の移動よりも体力を消費するからだ。
健康管理にどれだけ注意を払ったところで絶対は無い。
どうしても疲れは溜まるし、風邪を引く時は引く。
体調が崩れる時はいつかやって来る。
放浪の生活をしていればなおさらだ。
体調不良は、放っておけば事故に繋がる危険な状態である。
つばめの安全の為にも、顔色が悪いなどといった異変を見逃してはならない。
逆も然りで、つばめも常日頃から、隼人の体調の変化に注意を払っている。
「ううん。船酔いとかはしていないよ」
隼人の気遣いにつばめは、頭を振りながら答えた。
「体は健康そのものだけど、運転を隼人に任せきりにしているのが申し訳ないと思って。……やっぱり今からでも、私も大型二輪の免許を取れば……」
「それは前に決着がついた事だろ」
つばめの申し出に隼人は、即座に口を開く。
「運転は俺の役目。つばめは道案内と動画の事を考えていれば良いんだよ」
「そうだぜ。つばめちゃん」
隼人の側に立って昴大が口を開く。
「隼人は元バイクレーサー。今から免許を取ろうというつばめちゃんが、隼人と同じレベルでバイクを操れる筈がない。餅は餅屋。それも隼人は、日本一にもなった事がある餅屋だぜ」
「先輩の言う通りだ。つばめが今から免許を取ったところで、俺と同じ水準の運転が出来ると思うか?」
「……それは絶対に無理」
「だろ。その気遣いは素直に嬉しいが、適材適所というやつだ」
「うん」
「まぁ、今更俺が君に言うまでもないだろうけど、隼人の運転技術は超一流だ。俺だってプロだった人間。運転の技量について見る目はあるつもりだ」
「……昴大さんから見て、現役だった頃の隼人はどんな感じでしたか?」
昴大の言葉を糸口につばめは、分かりやすく話題を切り替える。
大好きな隼人の過去を知りたい。
その顔は愛と好奇心で満ち溢れていた。
「どんな感じかと言われれば、とにかくひたむきだったな。これまで沢山の後輩を見てきたけど、隼人はその中で、群を抜いて真剣に取り組んでいたよ。……それだけにいきなりの引退には驚いたな。もっと上を目指せた筈なのに」
隼人と過ごした日々を懐かしむように、遥か彼方の雲を見据えながら昴大は口を開く。
「Moto3やMoto2のみならず、GPだって狙えただろうに。他の連中も不思議がっていたぜ。俺と同じで」
「モトスリー? モトツー?」
バイクレース界の用語をつばめは、首を傾げながら、棒読みで復唱する。
『私は隼人の事を知りたかっただけであって、バイクレースそのものには、ほとんど興味が湧かなかったのよね』
以前つばめは、何かの折にそう語っていたのを隼人は思い出した。
「ああ、つばめちゃんは知らないか。……そうだな。……プロ野球で言うところの、一軍や二軍みたいなものと思ってくれていい。GPクラスが一軍の最高峰で、次いで2と3の順で、レースのグレードが高くなるんだ」
「そうなんですね」
「引退したのは、守りたい恋人が出来たからで……」
「そうだろうな。今だったら理解出来る。こんなに良い子をふざけた許婚から守る為なら、俺だって人生を懸けるさ」
昴大を信じると決めた二人は、次の遊覧船の出港を待つ時間を利用して、全ての事情を昴大に説明していた。
隼人とつばめの出会いも、つばめの黒歴史に触れない範囲で説明している。
見た目は最高だが、初対面の女にいきなり駆け落ちしてと言われても、首を縦に振れる筈がない。
初見の相手に言うべきものとは到底思えない、衝撃的な告白をされた時、隼人はつばめからの告白を断った。
言葉を選ばずに言えば、やばい女だと思ったからだ。
男女が近所の店で買い物するのと、駆け落ちを同列に考えているのだろうか?
冷静な頭で考えれば、いかに自分が言っている事の破天荒さが分かる筈だ。
ただならぬ事情を彼女に感じながらも、明確に断ったのだからもう来ないだろう。
そんな隼人の予想は、翌日に脆くも崩れさった。
『私にはもうあなたしか頼れる人がいないの!』
またしても、破壊力抜群の重い一言をぶちかまされたからだ。
当然隼人は二回目の告白も断った。
そっちの事情はさておき、こちらはそこまで深い信頼関係を築けていないと思ったからだ。
隼人の中でつばめが、危険人物だという思いは益々強くなった。
つばめが懸命に駆け落ちを申し込み、胡散臭さから隼人が断る。
これほどまでに濃度が高い記憶を、おいそれと忘れられる筈がない。
空前絶後の押し問答はその後七回まで続いた。
八回目にしてようやく隼人は、半ば根負けする形で、話だけでも聞いてみようと考えを変えた。
自身の過去と未来を切実に語る彼女の口調は、本当としか思えなかった。
隼人を罠に掛けてやるといった、
話だけでも聞いてもらえる。
それが分かった時のつばめの、安堵から来るとびきりの笑顔。それを目の当たりにした時が、隼人がつばめに恋心を抱いた最初だった。
とんでもない女から、守りたい女へ。
話だけでもと思っていた心はいつの間にか、愛情にとって変わっていた。
つばめとの馴れ初めを思い出しながら隼人は口を開いた。
「それに俺は最初から、Motoクラスのレーサーになる気はありませんでした」
「バイクレーサーになっておきながら、Motoに興味が無かった?」
「俺は親父のような、白バイ警官になりたくて。少しでもバイクの操縦の経験を積んでおきたかったから、レーサーになったんです」
「???」
先ほどのつばめ以上に昴大は、言っている意味が分からないと首を傾げる。
昴大の反応を受けて隼人は、レーサーならばそう思うのも無理はないと思った。
一口に和食と言っても、蕎麦や懐石料理などに細分化されるように、バイクに乗る仕事にも幾つかの種類がある。
寿司職人になっておきながら、天ぷらを極めたいんです。隼人の言葉はそう言っているようなものだからだ。
「今まで誰にも言わなかったのは、俺がレーサーになった理由が他とは違うから。変な奴と思われたくなかったからです」
つばめをよく知らない内から、人生の夢を語って聞かせようとは思わなかった。
好きになったらなったで、つばめに変人と思われたくない。
他者と一線を画した、ある意味、非常識とも言える動機を隼人は、嫌われたくない一心でつばめに隠してきた。
だが、昴大との再会で状況は変わった。
下手に隠すよりも、自分という人間をより知ってもらおう。
柔軟に考えを変えた隼人は、つばめへ重きを置いた説明を続ける。
「でも今は、つばめの隣にいられれば、他と違っていようが構わない。むしろ俺の事をよく知ってほしいとさえ思うから」
「そうだったんだ。……でも、話してくれて嬉しい。これでまた一つ隼人をよく知ることが出来たから」
トルコキキョウのような可憐な花を思わせる、小さくも、美しくて清らかな笑顔でつばめは言った。
またしても隼人は、これで何度目かも分からない、つばめの笑顔に惚れ直した。
遊覧船の音響装置から、何らかの説明が聞こえては来たが、内容までは聞き取れなかった。
「なるほどな。……ま、人の人生はそれぞれだ。何でも利用すれば良い。犯罪さえしなければ全く問題ないだろ」
「先輩……」
「あ!」
「どうしたつばめ?」
「だったら隼人が白バイの警察官になれていないのは……」
「それは気にするな」
花が萎れるように意気消沈する。
隼人に迷惑を掛けていると自分で理解している。その時の顔に間違いない。
自分が隼人の夢を絶ってしまった。
話の流れから隼人は、つばめが何を言おうとしているのかを瞬時に把握する。
心の傷にさせない為にも隼人は、つばめの発言を遮る。
「さっきも言ったが、今の俺はつばめの隣にいる事が何より大事なんだ。それは、白バイ警官になるよりも遥かに重要だ」
「隼人……」
「だからその事は気にしなくていい。俺が心から納得しているのだから」
船のエンジンが、低速の重低音を発している事にも気づかないほどに、隼人とつばめは二人の世界にいた。
「あー。二人でお楽しみのところ申し訳ないが……」
そこへ気まずそうに、自分の後頭部を掻きながら昴大が口を挟む。
「そろそろ港に到着するみたいだぜ。続きは降りてからやってくれ」
「「……」」
気恥ずかしさを覚えつつも、それ以上の多幸感を隼人は感じていた。
恐縮しながらも、嬉しそうにしている反応から、つばめもまた同じ心境でいるのが伺える。
その後三人は、他の乗船客らと共に船を降りた。
二台のバイクを駐輪した場所に着いた隼人は、背負っていた黒いザックを下ろす。
その中から隼人は、見た目がトランシーバーのような形状をした、黒い機械を取り出した。
バイクに盗聴器や発信器などが仕掛けられていないかを確かめる為の、電波探知機である。
二人がバイクから、完全に目が届かない場所に離れてしまった場合、探知機で調べるのが二人の中での決まりとなっている。
バイク左側面の、前から後ろと上下を隼人は入念に調べていく。
「こっちは異常無しだ」
「うん。了解。こっちは任せて」
左側面に異常が無いのを確認し終えた隼人は、右側面にいるつばめに探知機を手渡した。
つばめは右半分を調べていく。
今の二人の全てを支えている。そう言っても過言ではない、二人にとっての愛車。
面倒を見るのも二人一緒で。
そう取り決めている。
「? 何をしているんだ。それ」
バイクに無線機のような機械を、まんべんなくなぞるように当てている。
一般人よりもバイクに深く携わっているからこそ、整備用の工具ではない機械でバイクを調べている。そんな二人の行動は、昴大からは奇異に見えるのだろう。
昴大が再び疑問を呈する。
隼人がそれに答えた。
「二人共バイクから離れている間に、発信器や盗聴器が仕掛けられているかもしれませんから」
「……例の許婚とやらか?」
「はい。念には念を入れるだけです。後になって後悔しても遅いですから」
つばめを失う痛み。
それは想像が及ばないくらい、激痛に違いない。
考えるだけで身の毛がよだつ。
つばめも同じ気持ちだと語っていた。
二人が引き裂かれるという、最悪の未来を回避する為にも最善を尽くす。細心の注意を二人は払っていた。
「……そうか」
申し訳なさそうに両目を閉じ。手が震えるくらい力強く両拳を握り締める。
(先輩?……)
立ち尽くす昴大の姿に隼人は、その心の内を読み取る事が出来なかった。
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