第7話 旅は道連れ その三

 内湾だからだろう。

 東京湾は波も比較的穏やかで、水深は最も深い場所で七百メートルほど。

 東京湾も太平洋の極々一部であるが、房総半島で蓋をされている事もあって、その情調には乏しい。


 しかし、下田で唯一のロープウェイで登った先にある伊豆三景の一つ、寝姿山の山頂から見た風景は違う。


 梅雨前線の影響だろうか? 

 果てしない大海原に立つ白波は、見るからに荒々しい。


 人類未踏の領域、マリアナ海溝を擁する太平洋。

 伊豆半島先端の高台から見る景色は、人智の及ばない、あまりにも雄大な太平洋の一端を来訪客に見せつけている。


 巨大かつ深淵の世界。

 ひと度荒れ狂えば太平洋の波は、石油を満載した現代の大型タンカーであっても、木の葉のように扱うだろう。


 今からおよそ百七十年前。

 造船技術が現代より低かった時代に、太平洋の端から端を、蒸気船で越えて来た男たちの歴史をつばめ語る。


「皆様もご存知の黒船を率いた、アメリカのマシュー・ペリー。日本で彼の階級は提督とされていますか、当時のアメリカ海軍の文献によれば、代将だいしょうと呼ぶのが正式なようです」


 大将は隼人も聞いた事のある単語だが、代将という言葉は初耳である。

 今回の黒船関連の話に限らず、あらゆるジャンルの蘊蓄うんちくを恋人は、いつもすらすらと話す。


 つばめが勉強している姿を隼人は、ほとんど見ない。

 二人きりの時間を大切にしたいからというのがつばめの言い分である。


 その願望を支えるのが、常人を遥かに凌ぐ記憶力だ。


 駆け落ち生活を始めてから、格段に向上した解説能力と相まって、老若男女。全ての世代の視聴者から、つばめの語りは完璧だとか。癒されるなど。、受け止められる事も多い。


 それについては毎度の事だが、カメラを構える隼人の耳は、いつもと違う声色をつばめの説明に感じ取っていた。

 些細ではあるが、普段の柔和な語り口は影を潜め、どこか険を感じさせる。


 公私に渡って一緒の時間を過ごし、心からつばめを大事に想っている。

 そんな隼人だからこそ気づけるような、軽微な恋人の変化。


 その要因は、撮影の邪魔はしないと、少し離れた場所で見学している昴大にあるのは明らかだった。


 隼人がレーサーだった頃に、最もお世話になったと言っても過言ではない先輩と、旅先で偶然の再会を果たした。

 世間は狭いなと思いながらも、思いがけない再会に心が躍っていた隼人は、恩義がある昴大を自分らの座敷に招待した。


 その席で昴大は何故か、思い詰めているようにも見える顔で、少しの間で良いから二人の旅に同行したいと切り出した。


 昴大を信頼している隼人は、昴大の申し出に違和感を覚えつつ、それでも即座に頭を縦に振った。


 愛している男が世話になったと言っている先輩だ。極端に無下な対応は出来ない。

 対してつばめは、口では歓迎の意を示しつつ、心は一歩引いた位置にいた。

 つばめは昴大を明らかに警戒している。


 (そう思うのも仕方ないか……)


 相方の対応について隼人は、十分な理解を示していた。


 それが起きたのは半年前だった。

 今回のように撮影していた際、悪意や敵意の類を醸していた赤の他人の男女が数秒間、無許可で二人にスマホを向けていた事があった。


 絶対に見間違いでも、勘違いでもない。

 そう断言出来るほど露骨に連中のスマホは、特につばめへと向いていた。


 顔出ししている者の宿命とはいえ、悪意混じりのカメラを向けられて気持ちが良い筈がない。


 強烈な憤りを覚えたものの、隼人は辛うじて無干渉を選択した。つばめは必死に顔に出さないよう努めていた。

 今にして思えば、あれがアンチと呼ばれる人間の行動なのだろう。


 心底人を不快にさせておきながら、自分らは心から愉快に笑っている。

 本当に同じ人間なのか?

 隼人は二人の存在と歪んだ笑顔に、言い知れない薄ら寒さを覚えた。


 そして同じ日の夕方に、先日と同様、追跡者と二人は鉢合わせた。

 状況証拠しか無いが、遭遇したアンチの男女が、写真つきのSNSで報告した可能性は充分に考えられる。


 タイミングから考えて、二つの件は結びついていたと考えるべきだろう。

 単なる偶然の一致で片づける。

 二つの件を別個に考えるのは、危機感の欠如でしかない。


 もちろんその時の追跡者は先日と同様、隼人の操縦技術とつばめの記憶力で、目の前から片づけた。


 隼人でさえその時の事を覚えているのだから、記憶力に秀でたつばめが覚えていない訳がない。

 隼人以上に克明に覚えている筈だ。


 半年前の出来事を踏まえた上で、今回の再会である。

 無論、百パーセントあり得ないと断ずる事は出来ないけれど、別々に行動していた隼人と昴大が、旅先で再会する可能性はほぼゼロだ。意図的に仕組まれでもしない限り。


 この点が引っかかっているのだろう。

 隼人と違い、つばめは昴大と初対面だ。

 男性より力で劣る女性だが、それでも身を守らなくてはならない時はやって来るかもしれない。


 執着している人間たちに追われる日々。

 つばめの現状は極めて特殊だ。

 突然現れた上に、逃避行の旅に同行したいと申し出た昴大に、つばめが気掛かりを覚えるのも無理はない。


(やっぱり……どこか以前の先輩と違うような)


 それでいて隼人もまた、昴大に引っかかる何かを感じていた。

 カメラを構えつつ、横目で昴大を見た。


 過去の昴大と比較した限り、以前の快活さに乏しいように感じる。

 あるいは無理やり元気ぶっているというか。空元気という言葉を隼人は思い浮かべる。


 レーサーを引退してから隼人は、世界と日本を問わず、バイクレースの情報は一切見ないと決めていた。

 未練や欲に振り回されたくないからだ。

 なので昴大の事情は分からない。


 昴大はプライベートをほとんど話さない人間だったから、レース以外の事情も隼人は知らない。

 静岡県出身と、本人が言っていたのを覚えている程度だ。


 つばめの懸念は理解出来るが、それとは別に、バイクレース界の右も左も分からない頃から世話になった恩に報いたい。

 その思いは簡単に捨てられるほど、軽いものではなかった。


「……黒船の一件における江戸幕府の対応について、指揮系統の乱れや無駄が多いなどの賛否両論はあるでしょう。しかし、先人の方がいて下さったからこそ、今の私たちがいる。その事は忘れてならない事だと思います」


 先人がいてくれたからこそ今がある。

 隼人の思考を読んだかのように、つばめは言葉を発した。

 あまりにも適時な言葉は隼人の心に、象の一歩の如き重さで響いた。


 公私に渡って昴大は、隼人を可愛がってくれた。

 昴大がいなかったら隼人は、高校生レーサーとして日本一になる事は無く、つばめと出会わない人生を送っていたかもしれない。


 言うまでもなく、そんな人生は却下だ。

 はからずも昴大は、つばめとの縁を繋げてくれた。少なくとも、その一助となったのは確かだ。


 恋人と恩人の事情。

 板挟みの隼人が悶々とカメラを回す中、声に若干の固さはあったものの、きれいにつばめは締めくくった。


「……どうだった?」


 会心の出来でなかった自覚があるのだろう。

 一息吐いた後でつばめは隼人に対し、自信無さげな声と、探るような瞳で感想を求めて来た。


「噛むとかは特に無かったからな。動画としては何の問題も無かったぜ。ただ……」


 一言一句、集中して聞いていたとは言い難いものの、言い間違えなどの失敗は無かった筈だ。

 しかし、いつもより固い解説だった。

 これを今のつばめに告げて良いものかどうか? 隼人は言い淀む。


「良いよ。言いにくい事でも。何か他に感想があるなら言って。今後の解説に生かしたいから」


 つばめの目が真っ直ぐ、隼人の目を見据える。澄んだ茶色の瞳には、覚悟や向上心などの思いがありありと浮かんでいた。

 こんな目をされては、真剣に向き合わない方が失礼というものだ。

 隼人は恋人の思いに、真摯に向き合う気持ちを固める。


「……分かった。些細ではあったけど、いつもより声が固いというか。緊張していたような感じがしたな」

「ああ、やっぱり隼人には見抜かれていたね」


 心の内を見抜かれていた恥ずかしさからか、はにかんだ笑顔でつばめは視線を斜め下に向ける。


「……先輩の事か?」

「……うん」


 隼人の手前だ。言いにくそうにつばめは頷いた。


「この一年近く、日本全国を巡って来たから隼人も分かるでしょ? この広い日本の中で、偶然に二人の人間が再会するというのが、どれだけゼロに近い確率かを」


 それこそ砂漠で針を探すようなものよ。

 極めて難しい探し物をする。その代表と言える例えをつばめは口にした。

 偶然にしては出来過ぎている。

 その点は隼人も認めるところだ。


「不便だけど隼人と一緒にいられる。私は今の幸せを手放したくない。それを脅かすものはいらないの!」


 絶対に譲れない!

 普段は柔和なつばめだが、これだけは何があっても諦める訳にはいかない。

 優しさと穏やかさが同居している声はそのままにつばめは、強固な意志を打ち明ける。隼人の目を真っ直ぐに見据えながら。


「……お前の懸念も最もだし、そう言ってもらえて俺も嬉しい」


 つばめの全力投球をしっかり受け止めた上で隼人は、その答えを本気の声と心で投げ返す。


「だが、心配はいらない。俺が保証する。先輩は俺たちのアンチなんかには絶対にならない」

「…………分かった」


 少しの思考の後でつばめは、隼人が愛してやまない微笑みを浮かべる。


「隼人がそこまで言うのなら、私も昴大さんを信じるよ」

「そう言ってくれて嬉しいよ。……先輩」


 現役時代の隼人は、本当に昴大には良くしてもらった。

 様々な思い出が去来する。

 その一つ一つが記憶の中で、宝石のように煌めいている。

 思いがつばめに通じた喜びを噛み締めながら隼人は、昴大に顔を向けた。


「話はまとまったか?……もちろん無理やりついて行くなんて言わない」


 隼人とつばめの会話を伺っていた昴大が口を開く。


「だけど、久しぶりに隼人と再会したんだから、実家に帰る道すがら。一緒にツーリング出来たら良いなと思っただけだ。もちろん俺の分の金は全て俺が出す。それくらいの稼ぎはある」

「良いですよ。旅は道連れと言いますからね」


 笑顔でつばめは昴大に語りかけた。

 その顔に固さはない。

 普段のつばめの笑顔だった。


「そうか! ありがとう。……えっと」

「藤倉つばめです。その代わり、私が知らない昔の隼人の事をたっぷり聞かせて下さいね?」

「おいおい」

「ああ。それくらいお安い御用だ。いくらでも聞いてくれ。つばめちゃん」

「……ま、いっか」


 重苦しい雰囲気の中で旅をするより遥かにましだ。

 そう思うことで隼人は、知られたくない過去の暴露という名の懸念を受け流す。


 上りはどことなく気まずい雰囲気だったロープウェイの車内だが、下りは和やかなまま三人は山麓に到着したのだった。

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