君が咲いた季節に恋をした

でも、葵くんは笑わなかった。ただ真っ直ぐに笹木さんを見つめ、言った。

「君の言葉は冷たくて、何も響かない。誰かを踏みにじることに、価値なんてないよ」

ざわりと、周囲の空気が揺れた。

「華純さんの絵にはね、静かだけど、ちゃんとあたたかい色があるんだ。……君には、きっと見えないんだろうね」

笹木さんの顔がこわばった。その瞳が、作品へと向けられる。

そこに描かれていたのは、どこまでも孤独な景色の中に、にじむように灯ったひとつの光。

――見覚えのある構図だった。

冷たい水、にじむ制服、濡れた髪と、ぼやけた鏡の中の自分。

それは、紛れもなく“あの日”の記憶だった。

そして今、その記憶が、絵として賞賛されている。

生徒のひとりが言った。

「この絵、コンクールで最優秀賞取ったんだよね」

「すごいよね。なんか……本当の気持ちが詰まってる感じする」

周囲の視線が、私の方に集まる。憧れを込めたまなざし。

そして、笹木さんにも何かを悟ったような、微かな軽蔑の目が向けられた。

彼女は何も言えずに、唇を噛み、視線を逸らした。

「……つまんない」

そのひと言だけを残し、笹木さんは踵を返し、足早に教室を出ていった。

でも、もう誰も彼女の背中を追いかけなかった。

代わりに――

「月岡さん、すごいね」「絵、もっと見たいな」

そんな言葉たちが、私のまわりに静かに広がっていく。

澪は、葵くんの隣で小さく微笑んだ。

あの時、確かに失ったはずの”色”は――今、確かに自分の中で息をしている。

夕暮れ。

美術室の窓から差し込む茜色の光が、澪の頬をやさしく照らしていた。

誰もいない部屋。

ほんの数か月前まで、ここは私にとって“逃げ場所”だった。

でも今は少しだけ違う。

筆を取る指先が、かすかに未来を描こうとしている。

静かな時間のなか、カーテンが風に揺れ、紙の上の色彩が微かに震えた。

「……終わったんだな」

ぽつりと、私が呟いた。

あの日、目を背けたくなるようなことがあった。

何もかもを諦めかけたこともあった。

でも、あの言葉が、あの絵が、あの想いが澪の中に、灯を残してくれた。

「……ありがとう、葵くん」

誰にも聞こえない声で、そっと呟いたその瞬間。

「ん? 呼んだ?」

不意に、背後から聞こえた声に肩が跳ねた。

振り返ると、半開きのドアの向こうに、夏目くんが立っていた。

校舎の夕日を背に、柔らかな光の中で、彼の瞳はまっすぐ澪を見ていた。

「ううん……なんでもない」

顔を赤くしてうつむく私に、彼はくすりと笑った。

「でも、いい色してるね。その絵」

「……そうかな」

「うん。君の色、ちゃんと届いてるよ」

そう言って、彼はふわりと笑う。

その笑顔に、私の胸の奥が静かにあたたまっていくのがわかった。

もしかしたら、また傷つくこともあるかもしれない。

でも、もう逃げない。

澪は、筆を握り直した。

――大丈夫。私はもう、透明なんかじゃない。

窓の外、桜の木が、夕風にそっと揺れていた。

その色は、ほんの少し前の自分では信じられなかったほど優しい桜色だった。

こうして、澪の物語の第一章は、静かに幕を閉じた。

でもこれは、きっと始まりにすぎない。

恋と、痛みと、再生と――

その先に続く物語が、今ここから、また描かれていく。



風が変わった。

春の終わりが、少しずつ輪郭を失い、初夏の匂いを運んできている。

季節は、あっという間に過ぎていく――まるで、何かを急かすように。

仕事終わりのアトリエ。

スケッチブックの上で、澪の鉛筆の動きがふと止まる。

「月岡さん」

静かな声が、背後からそっと降りてきた。

振り返ると、そこには葵くんがいた。

窓の外、夕焼けが彼の輪郭を柔らかく照らしている。

でも、その瞳の奥に、どこか言い出せずにいる何かが揺れていた。

「……どうしたの?」

澪が問いかけると、彼は少し視線を逸らしてからポツリと呟いた。

「……あと半年で、異動するんだ。仕事の都合で、東京の本社に行くことになって」

しばらく、言葉が出なかった。

ただ心の奥に、どこか知っていたような、でも聞きたくなかった答えが、静かに沈んでいく。

「そっか……」

やっとの思いで出た声は、ひどく小さかった。

「言うの、迷った。伝えたら、距離を取られそうで……」

「……取らないよ」

即座に、でも震えながら澪は返した。

本当は怖かった。

誰かを好きになるということが、失うことにつながるのなら――また、透明に戻ってしまいそうで。

けれど、もう目を背けたくなかった。

夏目くんが、そっと微笑んだ。

その笑顔が、今はやけに遠く感じる。


***


そして、数日後。

「じゃあ……元気でね」

駅のホーム、改札前。

葵くんの手には、大きなスーツケースがあった。

「……うん。そっちも、ちゃんと食べて、ちゃんと描いて」

冗談のように、でも優しくそう言ってくれる夏目くんの声に、涙が滲む。

「……まだ、ありがとうも、好きも、全部言い切れてないのに」

「じゃあ、いつかまた会えたときに、まとめて聞かせて」

彼は、そう言って笑った。

最後に交わしたハイタッチ。

それが、手のひらの温もりとして残っている。

電車がゆっくりと動き出し、葵くんの姿が少しずつ遠ざかっていく。

その背中が見えなくなるまで、私はずっと、動けなかった。

吹き抜ける初夏の風の中に、彼の声がまだ、かすかに残っている気がした。

改札を抜けると、すでに構内アナウンスが響いていた。

「まもなく、2番線ホームより列車が発車いたします――」

ホームに出た瞬間、風が吹き抜ける。

その向こうに、見慣れた後ろ姿があった。

制服の上に羽織ったベージュのジャケット、少し伸びた黒髪。

「葵くん……!」

私は名前を呼ぶように声をあげた。

でも、風にかき消され、届かない。

彼はもう、ドアの前に立っていた。

足が勝手に動いた。

改札を越え、構内を走っていた。

スケッチブックの入ったバッグが肩からずり落ちそうになる。

それでも、止まらなかった。

「待って……待ってよ、葵くん!」

階段を駆け上がり、ようやくホームに飛び出したその瞬間――

プシュー、と冷たく閉じるドアの音がした。

発車のベルが鳴る。

電車がゆっくりと動き出す。

その中に、葵くんがいた。

驚いたように目を見開いた彼と、澪の視線が一瞬だけ重なった。

彼は口の動きだけで、ゆっくりと言った。

「――さよならじゃない。また会おう、華純さん。」

澪の足が、止まった。

次の瞬間、叫ぶように名前を呼んだ。

「葵くん――!!」

でも、電車のドアはもう開かない。

加速して、遠ざかっていく。

ホームの端から澪が手を伸ばしても、届くはずがなかった。

彼の姿が見えなくなった瞬間、胸の奥で何かが壊れたように感じた。

それは静かな崩壊ではなく、張り詰めた想いが一気にあふれ出すような――

どうしようもない、感情の奔流。

「っ……うぅ……っ……!」

目の前が滲んだ。

涙がこぼれ、止まらない。

声を殺して泣いても、嗚咽が勝手にこみ上げてくる。

会社の制服の袖で拭っても、次々に涙が溢れ出す。

ホームの片隅で、小さな背中を震わせながら、私はその場に立ち尽くしていた。

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