君が咲いた季節に恋をした
彼がくれた言葉も、想い出も、どれも全部あたたかすぎて。
だからこそ、いま、こんなにも苦しい。
――さよならじゃない。
そう信じたくて、でも、今はただ涙しか出てこなかった。
やがて電車の音が完全に消えると、ホームには私のすすり泣く声だけが、そっと響いていた。
彼の言葉を信じるには、まだ少しだけ、時間が必要だった。
葵くんがいなくなったあの日から、オフィスの空気は何ひとつ変わっていないように見えた。
でも、私にとっては、すべてが少しずつ違っていた。
隣の席にはもう、彼の気配はない。
窓の外を見ても、同じ空が、少しだけ遠く感じる。
それでも、私は毎日、アトリエに通っていた。
誰もいないその部屋は、まるで自分の心の中のように静かで、少しだけ寂しい。
イーゼルの前に立つたび、思い出すのはあの言葉。
「華純さんの色は、透明じゃなくて、ちゃんとあったかい」
その言葉だけが、今も胸の奥に灯り続けている。
……だったら、私は――私の色を、描きたい。
そう思って私は少しずつスケッチブックに向かいはじめた。
はじめは筆が進まなかった。
葵くんがいない世界を描くなんて、意味がないと思っていた。
けれど、気づけばキャンバスに広がる色たちは、どこか優しかった。
あの日、美術館で見た春の花。
あの時、カフェの窓から差し込んだ陽の光。
そして――彼が残してくれた言葉。
静かに、でも確かに、華純の絵は変わっていった。
同僚たちも、少しずつ私の絵に目を留めはじめた。
「これ、月岡さんが描いたの?……すごい、なんか、綺麗っていうより、あったかい」
そんな言葉をもらっても、私はただ、はにかんで頷くだけだったけれど。
それでも胸の奥が、ふわりと揺れた。
放課後の美術室は、今日も静かだった。
夕陽が傾き始め、窓から差し込む光が、机の上にやわらかなオレンジ色を落とす。
その光の中で、私は筆を持っていた。
パレットの上には、彼と出会ってから少しずつ集めた色たち。
冷たい青、優しい白、春のような桜色。
透明だった自分の内側に、確かに灯っていたものを、ひとつずつ絵に落としていく。
――これは、私が今ここにいるという証。
カンバスに描かれるのは、過去の傷ではなかった。
水をかけられた日の悲しみも、言葉が出なかった朝も、すべてはもう、筆先の色になっていた。
痛みを経て、それでも生きている心の軌跡。
そのすべてを、澪は今、絵の中に封じ込めていた。
コンクールの応募要項をまとめた紙が、机の隅に置いてある。
葵くんに勧められて、ずっと迷っていたものだった。
でも、今なら描ける。
あのときよりも、きっと、自分の想いを。
彼にもう一度、わたしの“色”を見てもらえる日が来ることを願って――
筆を止めて、ふと窓の外を見上げる。
遠くで鳥の影が西の空を横切っていた。
風が少し吹き抜けて、スケッチブックの端がめくれる。
胸の奥に、まだ少し痛みが残っている。
でも、その痛みさえ、今の自分を描く大切な一部だと、そう思えた。
だから今日もまた、私は静かに、そして確かに、筆を動かす。
描かれていくのは、もう“透明”ではない色。
何かを恐れていたあの頃の自分とは違う、あたたかな色彩。
それは、誰にも気づかれなかった彼女の“心”が、ようやく見つけた輪郭だった。
そして今も胸の奥で、かすかに灯り続ける、ひとつの恋のかけら。
彼と過ごした、あのやわらかな春の日々が、色になって残っている。
静かな教室に、筆の走る音だけが優しく響いていた。
数年間は、まるで色を失った世界にいた。
季節は何度もめぐって、桜は咲いては散り、夏が過ぎ、冬の静けさが心を包む。
でも、どの季節も――彼がいないまま、ただ通り過ぎていった。
時間だけが過ぎて気づけば私は三十歳になっていた。
アトリエのある学舎は静かで、キャンパスの窓から見える空は広かった。
それでも、広がっているのは空だけで、心の中は、どこか狭く感じられた。
講義を受け、作品を描き、誰かと話し、笑っている自分がいる。
それなのに、胸の奥にぽっかりと空いた穴は、埋まることがなかった。
――「また、会おう」
あのとき、電車の窓から夏目くんが言った言葉。
ずっと、そこだけが時間を止めているようで、私はその記憶の中を歩いていた。
ふと、駅のホームに立つと、あの日の風を思い出す。
信号の音、電車のドアが閉まる音、ホームの端に立つ背中。
――それでも、彼は振り返って、微笑んでくれた。
忘れたくないと思った。
でも、忘れられないというのは、少し違う。
あの人がいないと、世界は少しだけ鈍くなる――そんな感覚。
新しい出会いもあった。
誰かに絵を褒められたり、一緒に展示に出そうと声をかけられたり、友人と夜遅くまで話し込んだ日もあった。
笑っていた。でも、心の奥底ではずっと問いかけていた。
「……葵くん、今どこで、どんな絵を見てるの?」
スマホのフォルダには、いまだに消せないままの彼との一枚の写真。
美術館のカフェで、何気なく撮られていた横顔。
もう画面が少しぼやけてきているけど、そこに写る葵くんの目は、たしかにわたしを見ていた。
時は流れる。
でも、想いは流れきれないまま、澱のように胸の底に残り続けていた。
そして、今日もまた、筆を取る。
アトリエに差し込む午後の光が、白いキャンバスの上を斜めに照らしていた。
柔らかな木の匂い、絵具と溶剤の混じった匂い。
静寂のなかで、私の指先が絵筆を握る音だけが、わずかに空気を震わせている。
描く理由は、もうわからなくなっていた。
何を表現したいのか、何を伝えたいのか、問いかけても答えは返ってこない。
けれど、それでも筆は止められない。
描くことでしか、自分が“ここにいる”という実感を得られない。
絵の具の色が、心の中の沈黙を、少しだけ塗り替えてくれるような気がしていた。
キャンバスに浮かび上がるのは、どこかで見たような空。
優しい風の色、遠ざかる背中、夕暮れに滲んだ涙。
形のない記憶が、色に姿を変えて、少しずつ塗り重ねられていく。
“まるで、いつかまた彼に出会える日を信じて描き続けているみたいだ”
そんな風に、自分で思ってしまうことがある。
もうどこにいるのかもわからない人。
会える保証なんて、どこにもない。
けれど、キャンバスの奥で彼の面影だけは、いつもすぐそこにあった。
ひと筆ごとに、遠くに離れていった日々が、少しずつ澪の心の中に戻ってくる。
ひと色ごとに、過ぎ去った季節が、やわらかなぬくもりとして甦る。
それが救いだった。
それがすべてだった。
だから、今日も描く。
きっと、どこかで彼も、何かを描いていると信じて。
まだ交わることのない線の先に、再び重なる日が来ると信じて。
澪の指先は静かに動き続ける。
世界が静かに流れていくなかで、ただひとつ、澪だけはその場所に留まりながら、色を探し続けていた。
展示会当日、私は朝から落ち着かない気持ちで会場に向かった。
ギャラリーの一角。白い壁に沿って作品が静かに並んでいる。
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