君が咲いた季節に恋をした

誰もいないはずのその部屋は、薄橙の夕陽に照らされて静かに呼吸しているようだった。

窓の外には、春の終わりを告げるように、風に揺れる桜の花びらが舞っていた。

遠くで部活の掛け声や、笑い声が聞こえる。それでも、この部屋だけは時が止まっているかのように、しんと静まり返っていた。

わたしはいつもの席で部屋の隅の窓際に近いイーゼルの前に立ち、ゆっくりとスケッチブックを開いた。

鉛筆を持つ手がかすかに震える。思い描くものはあるのに、心にかかるもやが、それをはっきりと形にさせてくれない。

それでも、描くしかなかった。描かないと、何も残らない気がした。

真っ白な紙の上に、ひとつ、またひとつと線を重ねていく。

それは誰に見せるためでも、認めてもらうためでもなく、わたしが今ここにいるという証のようだった。

“透明”に戻ってしまった自分。

けれど、描くことだけは、どこかに自分の色を残せるような気がした。

気づけば、外は薄暗くなり、窓の外の桜が影の中に溶けていった。

蛍光灯の白い光の下、紙の上には、静かな色彩が少しずつ広がっていた。

それは、まるでわたしの心の奥底に、まだわずかに灯っている“希望”をすくいあげるような、淡く、儚い色だった。

誰もいない美術室。

静けさが降り積もるように、空気はひっそりとわたしを包み込んでいた。

壁に立てかけられた何枚ものキャンバスが、夕暮れの光をぼんやりと受けて、どれも眠っているように見える。絵具の匂いがまだ微かに残っていて、乾きかけた油彩や筆の影が、時間の止まったこの部屋の息づかいだった。

カーテンの隙間から差し込む陽射しが、床に長い影を落としていた。

わたしはその光と影の境目に座り、スケッチブックを膝に置いたまま、しばらく動かなかった。

静寂の中、自分の呼吸の音だけが、やけに大きく感じられる。

ここだけは、誰にも見つからない。

誰にも触れられず、誰にも傷つけられない。

そう思うと、ほんの少しだけ、胸の奥が緩んでいくのを感じた。

ざらりとした紙の手触りを指先で確かめてから、わたしは鉛筆を取った。

描きたいものがあるわけじゃない。ただ、今の自分を確かめたくて、無心で手を動かす。

鉛筆が紙の上を走るたびに、頭の中のもやが少しずつ薄れていく。

カリカリと響く鉛筆の音だけが、この部屋の静けさに優しく混じりあっていた。

誰にも届かなくてもいい。

誰にも認められなくても。

それでも、自分の中に何かがまだあるのなら、それを描き出したい。

光が少しずつ沈み、空の色が深い藍に染まり始めたころ。

窓の外では、今日の最後の桜の花びらが、風に乗ってふわりと舞っていた。

その空間はわたしにとって、世界とつながる、たったひとつの場所だった。


「やっぱりいい絵だね。ところで最近、話しかけてくれないけど……どうしたの?」

不意にかけられたその声に、わたしは鉛筆を握ったまま、びくりと肩を震わせた。

夕暮れの光が差し込む美術室。その静けさを破るように、葵くんがゆっくりと近づいてくる。

彼は、わたしの肩越しにそっとスケッチブックを覗き込んでいた。

「――君の描く世界は、誰より鮮やかだね」

その言葉は、とても静かで、でも確かに胸の奥まで届く強さがあった。

忘れかけていた温度が、わたしの胸の内にゆっくりと広がっていく。

「……葵くん」

わたしは、おそるおそる顔を上げた。

そこには、あの日と変わらない優しいまなざしの葵くんが立っていた。

でも、あのいじめの出来事以来、自分は彼にふさわしくないと思い込んでしまっていた。

「せっかく……話しかけてくれていたのに、ごめんなさい」

言葉を絞り出すように、わたしはうつむいたまま続けた。

「でも……私、葵くんと一緒にいると、また誰かに何かされるんじゃないかって、怖くて……」

喉の奥が詰まって、これ以上話せそうになかった。

それでも――

「華純さん」

名前を呼ばれたその瞬間、胸がきゅっと締めつけられた。

顔を上げると、夏目くんは変わらず真っ直ぐな目で、わたしを見ていた。

「僕は……華純さんが傷つくようなこと、絶対にさせたくない」

「だから、何かあったら、僕にも話して。ひとりで抱え込まないで」

わたしの視界が、にじむ。

それは恐怖のせいじゃなかった。安心に似た感情が、じんわりと胸の奥をあたためていた。

「……ありがとう、葵くん」

言葉は、思っていたよりもずっと小さく、でも確かに唇からこぼれ落ちた。

胸の奥にずっと貼りついていた不安や恐れが、ゆっくりとほどけていく感覚があった。

夏目くんの表情は何も変わらないのに、不思議とそれが嬉しくて、安心できた。

照れ隠しのように少しうつむいたまま、わたしは指先に力を込める。

震えていた手は、まだ完全に止まってはいない。

でも――たしかに、今は前よりもずっとあたたかいものを握っている気がした。

「言葉にするの、苦手だから……うまく言えないけど」

視線はまだ下に落ちたまま。でも、ほんの少しだけ、口元に笑みが浮かぶ。

「でも、夏目くんが声をかけてくれて、嬉しかった」

その瞬間、夏目くんの優しいまなざしが、わたしの胸をふわりと包んだ。

彼は何も言わず、ただゆっくりと頷いて、そっと隣の椅子に腰を下ろした。

二人の間に流れる静寂は、不思議と心地よかった。

「……なんか、今なら描けそう」

ふと呟いた言葉に、自分で驚いた。

けれど、それは嘘じゃなかった。

葵くんのまなざしが、冬のように冷えていた心に、静かに春を運んできてくれたから。

「また、見せてくれる?」

葵くんの問いかけに、わたしはゆっくりと頷いた。

今度こそ、ちゃんと前を向いて彼と、同じ景色を見たいと思ったから。

窓の外、夕日が静かに傾き始めていた。

柔らかなオレンジ色が、二人の影をそっと重ねていく。

わたしの頬にも、小さな陽だまりのような笑みが灯っていた。


5

仕事終わりの部屋。

白い壁に飾られた数々の作品のなかで、澪の絵はひときわ静かな存在感を放っていた。

それは、あの日――

冷たい水に打たれ、心の底まで凍えた記憶と、

それでも前を向こうとした小さな再生の物語。

絵の中の少女は、にじんだ水彩の中にたった一つ、あたたかな色を宿していた。

「これ、月岡さんが描いたの?」

誰かの声がした。振り返ると、教室の数人が集まっていた。

「すごい……」「これ、なんか、泣きそうになる」

そんな声が聞こえるたびに、私の胸の奥で、何かがじんわりとほどけていく。

と、そこに――笹木さんが現れた。

ヒールの音を鳴らして近づいてきた彼女は、周囲の空気など気にせず、まっすぐ華純の方を睨みつけた。

「ふーん。……やっぱり、だったんだ」

その声には、いつものような棘と、自分でも気づいていない焦りが混じっていた。

「葵くんも、あんたの絵とか、そういうのが好きってこと?」

すぐ隣にいた夏目くんが、静かに顔を上げた。

「笹木さん」

呼びかける声は、低く落ち着いていた。

「……なんで澪なんかと一緒にいるの? 地味で暗くて、前まで誰とも話してなかったじゃん」

一瞬、空気がぴたりと止まる。

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