第5話(作者:しかこ)

 目を閉じた。意識が遠のく。すぐそばで囁かれるペーターの命乞いも、木の葉の擦れる音も、真後ろの彼女の吐息さえも消え果てて、ただ赤い瞼の裏側を透かして光が見えた。

『ねえ、死にたくないの。殺される、わたし、国に戻ったらきっと』

 君がそう囁いたから、俺は何の躊躇いもなく罪を犯した。君のそれが嘘でも構わないと思った。騙されていても、俺が君の掌の上で踊る哀れな道化に過ぎないのだとしても、それでも俺はそれ以外の選択肢を持っていなかった。

 首筋に当てられたナイフが微かに揺らめいて、浅く皮膚を切った。ああ、やはり君はあの時から何も変わっていないらしい。瞳の奥には芯がある。君は誰よりも強く、美しく、けれども愚かで儚い。そんな君だから、俺はきっと。

「なあ、エカチェリーナ。俺のこと、本当に覚えてない?」

 喉を振るわせれば、その分血が滴った。彼女の手に血飛沫が降りかかって、小さく息が呑まれる。ほら、下手くそ。思わず笑いがこみ上げた。

 目を開いて立ち上がる。エカチェリーナもペーターも、俺の周りを取り囲む誰もが、壊れた人形のように身じろぎせず押し黙ったままだった。俺はマリオネットの群衆を指揮するように彼らの中央に立って、それから固く握られたエカチェリーナの右手を取った。

「覚えてるだろ。いいや、違うな。思い出したはずだ。カリングの死者蘇生法はまだ俺の域まで至ってない。所詮ただ、壊れた肉体を魔導素で繋ぎ直して、天に向かうはずだった魂を引き摺り下ろすだけの代物。だから君は、本当は魂の奥底で覚えてる。俺の名前も、顔も、どこで会ったかも、俺に何をして、俺に何をされたのかも」

 全部、鮮明に。あの白い檻の中で君が俺に何を囁き、俺が君に何を渡したのか。覚えているだろう。だから、こうしてまた俺に会いに来たのだろう。

 彼女は喉をただ引き攣らせた。何か言葉を発そうとして、また何かを呑み込んだ。彼女から漂う腐臭のなかに、甘やかなものを見出す。死体の香り。だから、エカチェリーナもその周りの軍人どもも皆、動くことを許されない。カリングの死体人形は、俺の前では文字通りの壊れた肉塊でしかない。

 当たり前だ。だって、この世界に俺より魔導素の何たるかを理解している人間はいないのだから。この馬鹿馬鹿しい腐肉を操る術も、ペンダントに込めた力も、何もかもを創り出したのはこの俺なのだから。

 だから、その力をこうして取り上げることも容易なのだ。

 彼女は、ただ深く息を吐いた。

「ー-私、そんなに嘘が下手?」

「ああ、前と変わらずね」

 きっと、一か月前の急襲の際に俺のことを覚えていなかったのは本当だったのだろう。けれども、あの俺との接触がトリガーになった。記憶が肉体に紐図けられているのなら、失われた何かだってほんの少しの刺激で揺り戻る。

 俺の血で濡れたナイフを、彼女の手から抜き取った。彼女はもはや抵抗することすらしなかった。俺は目を細めて、彼女をそっと土塊の中へと押し倒した。

「諦めが悪いのが君の美徳だと思っていたけれど」

「君がそうするつもりなら、私にはもう何もできない。今も昔もね」

「分かってるなら、どうしてわざわざ俺の前にまた現れた?」

「さあね」

 彼女は笑った。最期に見たあの笑いかたと同じだった。カリングとエリザべの丁度国境で、情報を胸に抱いて走る君の頭を撃ち抜いた、あの時と全く同じ笑顔。

 君を見た。君を守った。それから、君を殺した。

 だって、君がそう願った。

 エカチェリーナの冷え切った頬へ、指先を寄せた。10年前と変わらない温度。君はあの時、俺になんと希ったか覚えているだろうか。カリングの偵察員として捕らえられて地下牢に幽閉されていた君は、拙い言葉で俺へと語り掛けたのだ。

『死にたくないの』

『生きて祖国に戻りたいのに』

『でも、成果がないときっと私、殺される』

 馬鹿馬鹿しいほど下手くそで愚直な誘惑であったと思う。君の瞳の奥に隠されていた冷徹な計算も、利己主義も、何もかもが見え透いていた。

 だから、俺は君に全部を教えた。

 カリングもエリザべも、政治も世界も人の命も何もかもがどうでも良かった。ただ、君だけが視界に映っていた。牢獄の中で捕らわれる君の右頬は鞭に打たれて腫れていて、逃げ出せないように左脚は捩じり折られていた。奴隷みたいな襤褸に包まれて、それでも君は懸命に屈辱と敵意を隠しながら俺を利用しようと足掻いた。

「君の、そういうところが好きだったよ」

 彼女の胸元に、ナイフを翳した。彼女はほんの少しだけ頬を緩ませた。それから心底嬉しそうに、夢見る少女のように、彼女は口ずさんだ。

「死にたくないけれど、殺されたかったの」

「そう、だから殺されに来たの?」

「どうかな。どちらでも良かった。君を殺しても、私が殺されても。だって、どちらでも結論は同じでしょう」

 だって、私と君はよく似ている。本当は国も未来も人も何もかもがどうだっていいのに、運悪く歴史の動乱の丁度中心に居合わせてしまった、可哀そうな人間。

「だから、これでいいの。君がいいの」

 その言葉と同時に銀は沈み込んで、赤が、舞った。

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