第2話「赤い封筒の中の刃」

 午前九時、川島亜美は郵便受けを開ける手を一瞬ためらった。そこに封筒が届いていることはわかっていた。ポストの隙間からのぞく赤い色。見慣れた封筒。あの文字。


 ──地方税事務所。


 身体がこわばった。


 封筒を取り出すと、薄紙一枚であっても鉄板のように重く感じられる。「納税通知書」あるいは「督促状」の四文字が、すでに脳内で何度も点滅していた。指先が震える。隣室の赤ん坊の泣き声が、遠くに聞こえる。


 昨夜のコンビニ弁当の残りが胃に鉛のように沈んでいた。


 彼女は三十二歳。夫と別れて二年、六歳の娘とふたり暮らし。コールセンターのパートで月収十二万、家賃四万五千円、光熱費二万円、保育料が引かれ、残るのはかろうじて食費とスマートフォン代、そしていつか何かのための「貯金」──だった。


 封筒を開ける。開けてしまえば、数字はもう現実となる。



 督促状。


 延滞金の金額だけで、今月の食費が吹き飛ぶ。何の税か、もう目を通さなくてもわかっていた。自動車税、固定資産税、住民税。数年前にやっと手放した軽自動車の未納分まで、今も彼女を追い続けている。


 「納付期限:本状到着後七日以内」


 その一文に、心が締め付けられる。無理だ、と思う。何を削る?娘の給食費か?だが、それを滞納すれば、学校に呼び出されるだろう。先生の前で、彼女はまた平謝りするのだろうか。娘の前で恥をかかせるのか。


 ──私は母親失格なんだろうか。


 炊飯器の中には、一昨日炊いた冷ご飯が少し。冷凍庫に保存していた胸肉の切れ端。これで何日、食いつなげる?



 亜美は仕事帰り、夕方の保育園で娘を迎えた。今日もまっすぐ走ってくる娘。彼女は娘を抱きしめ、頬ずりする。


 「おかえり、今日もがんばったね」


 娘は笑う。その笑顔が、彼女にとっての唯一の光だった。だが、その背後には、決して消えない影──税の帳簿がある。納税は国民の義務だと、テレビが、ラジオが、通学路のポスターが繰り返す。


 「わかってるよ。わかってる……でもさ」


 家の灯りの下で、亜美は小さくつぶやいた。誰にも届かない声。娘には絶対に聞かせたくない声。



 三日後。再び届いた封筒は、黄色だった。


 「財産差押予告通知書」


 公的文書で、こうも露骨な恐怖を叩きつけてくるものがあるのかと、彼女は目を疑った。


 『本状に記載の期限までに納付なき場合、給与または口座預金、家財等の差押えを行います』


 目の前がぐにゃりと歪む。娘のノートパソコンも、テレビも、電子レンジも──何かが消える。何かを奪われる未来が、目前に来ている。


 彼女は思った。「税金に殺される」って、こういうことなんじゃないのか?



 その夜、亜美は久しぶりに父親に電話をかけた。絶縁同然だった。離婚も知らせていなかった。だけど、藁にもすがりたかった。


 だが、受話器の向こうからは、静かな声が返ってきただけだった。


 「お前も、親になって、わかっただろ。誰にも助けられないことって、あるんだ」


 電話は、無慈悲なまでに静かに切れた。



 娘が眠った夜、亜美は封筒を並べてじっと見つめていた。赤、黄、白。すべてが国からの命令。まるで罰の色彩のようだった。


 そのとき、彼女は思った。


 ──死ぬなら、国が殺したって書いてやる。


 だがそれは、本心じゃなかった。ただ、逃げ場がなかっただけだった。


 亜美は手紙を書いた。ノートの切れ端に、娘への言葉を、震える手で書き記した。


 「あなたは悪くない。ママが、ただ、弱かっただけ」



 翌朝、差押えは行われなかった。


 ただ、勤務先に通知が届いただけだった。上司に呼ばれ、告げられたのは「給与から天引きされます」という事務的な言葉。


 亜美は、崩れ落ちそうになるのを堪えながら、うなずいた。



 それから三か月。彼女はまた、何とか日々を乗り越えていた。


 ──だが。


 六月のある日、また赤い封筒が届いた。


 その中身は、新年度分の住民税だった。

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