第3話「沈黙する請求書」

 加藤志穂(かとう・しほ)は、電車の窓に映る自分の顔を見つめていた。疲れた表情、目の下のクマ、乾いた唇——まるで他人のようだった。今朝、会社のデスクに届いたのは一通の封書。市税課からの督促状だった。固定資産税の未納、延滞金、支払期限。本来なら驚く内容でもない。ただ、彼女にはそれを払う余裕がなかった。


 志穂はかつて、夫とともに小さなアパートを所有していた。夫が急死したあと、賃貸で得られるわずかな収入が彼女の命綱だった。しかし、借り手が次々に出て行き、今では空室だらけ。税金だけが毎年確実にのしかかってきた。家は資産ではなかった。罠だった。


 「売ればいいじゃない」と言う人もいた。だが買い手はつかず、老朽化が進む一方。更地にすれば固定資産税は六倍になる。選択肢など、最初からなかった。


 夜、志穂はキッチンのテーブルに督促状を広げた。封筒の角が湿って、少し歪んでいた。彼女はふと、家計簿を開いた。ここ数か月、赤字続きだ。電気代を払えば食費が削られ、携帯代を滞納すれば医療費が浮いた。バランスなど、もはや幻だった。


 「国は、どうしてわたしを責めるの?」


 誰に問うでもなく、声が漏れた。翌日、志穂は市役所に赴いた。分割納付を相談するためだ。窓口の男は事務的に説明を始めた。


 「五万円を三回、合計十五万円の納付になります。今月末までに初回をお願いします」


 志穂は目を見開いた。五万円など、どこにある? しかし彼女は、わかったと頷いた。そうするしか、なかった。出てきた廊下で、志穂は思わずしゃがみ込んだ。手の中には、白い請求書。重くて、冷たかった。


 その日の夜、彼女は押入れの奥から古いダンボール箱を取り出した。中には、亡き夫の遺品。遺影、使い古された腕時計、手帳、そして封筒が一通。見覚えがなかった。開けると、そこには三万円分の現金と、手紙が入っていた。


 《志穂へ。おまえが困ったときのために、少しだけ用意した。足しにはならないかもしれないけど》


 文字が、滲んだ。志穂は手紙を抱いて泣いた。久しぶりだった。泣くことすら忘れていたのかもしれない。


 翌朝、彼女はATMで三万円を入金した。残りは、あと十二万円。まだ道のりは長い。しかし、支払うということは、生きていくということだった。そう思うしかなかった。


 帰り道、公園の前で、彼女はベンチに腰掛けた。ポケットの中で、請求書がくしゃくしゃになっていた。志穂はそれをそっと広げ、空を見上げた。沈黙のまま、しかし確かに存在する、その紙切れ。政府でもなく、市役所でもない。ただ一枚の紙が、彼女の人生を支配している。


 風が吹いて、木の葉が舞った。請求書が、ふわりと風に乗って飛んでいく。志穂は立ち上がって追いかけたが、やがてあきらめた。見失ったのではない。ただ、もう追うのをやめただけだった。


 現実は変わらない。税金は待ってくれない。だが彼女の中で、何かが少しだけ変わった。たぶん、もう一度立ち上がる勇気。それは重さではなく、静かな強さだった。

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