第六話:師匠の過去と修羅の宴

あの高慢な女性トレーダーとの再会は、俺、相馬海斗の心に新たな炎を灯した。悔しさと同時に、いつか必ず彼女の鼻を明かしてやりたいという強烈な対抗心が、日々の修行への集中力を研ぎ澄ませていく。

「雑念が消えたな、海斗。良い目をするようになった」

座禅の後、高柳さんが珍しくそんな言葉を口にした。確かに、以前よりも心の波立ちが少なくなり、デモトレードでも冷静な判断ができる瞬間が増えていた。あの女性トレーダーの存在が、結果的に俺をもう一段階上へと押し上げようとしているのかもしれない。

そんなある日の午後、高柳さんから家の蔵の掃除を頼まれた。普段はあまり使われていない薄暗い蔵の中は、古い道具や書物が山積みになっていた。埃を払い、整理整頓を進めていると、奥の方で埃をかぶった一つの桐の木箱が目に留まった。何の気なしに蓋を開けてみると、中には色褪せた新聞の切り抜きや、海外の金融雑誌の古いバックナンバー、そして一枚の写真が大切そうに仕舞われていた。

息を呑んだ。

一枚の新聞記事には、こんな見出しが躍っていた。「“孤高の鷹”高柳、アジア通貨危機で歴史的勝利! 一夜にして数十億の利益か」。別の金融雑誌の表紙には、今よりもずっと若く、鋭い眼光を放つ高柳さんの写真と共に「The Hawk eyes Asia – The story of Japanese legendary trader」という特集タイトルが組まれている。そして、セピア色に変わった写真は、高柳さんを中心に、数人のいかにもトレーダーといった風貌の男女が、大きなトロフィーを囲んで誇らしげに微笑んでいるものだった。

「師匠…これ…」

夕食の席で、思い切って木箱のことを尋ねると、高柳さんは少し遠い目をして、猪口の酒をゆっくりと呷った。

「…ただの、過去の残骸じゃよ」

そう言って多くを語ろうとはしなかったが、その横顔には、俺の知らない激動の時代を生きてきた者の深みが刻まれているように見えた。

「ワシはな、海斗。かつて、“孤高の鷹”などと呼ばれ、市場では少しばかり名を知られた存在だった。大きな成功も手にした。だがな…」

高柳さんは言葉を区切り、窓の外の月を見上げた。

「力だけでは、本当の勝利は掴めん。むしろ、力を持てば持つほど、見えなくなるものがある。ワシはそれに気づくのが…ちと遅すぎたのかもしれんな」

その声には、深い自嘲と、どこか寂しさが滲んでいた。なぜ師匠がFXの表舞台から姿を消したのか、その理由の一端に触れたような気がして、俺は何も言えなかった。ただ、師匠への尊敬の念と、この世界の奥深さ、そして厳しさを改めて感じていた。

数日後、高柳さんの元を、恰幅の良い初老の男性が訪ねてきた。どうやら旧知の仲らしい。俺がお茶を出して部屋の隅に控えていると、二人の会話が自然と耳に入ってきた。

「高柳、今年も“修羅の宴”の季節が近づいてきたな」

「ふん、まだあんなものを続けておるのか、物好きな連中もいたもんじゃ」

「はは、お前さんがそう言うな。エンペラーは、今年もあの玉座に悠々と座り続けるつもりかのう…」

「知ったことか。今のワシには、縁のない話じゃ」

「そう言いつつ、気になるんじゃろ? 新たな挑戦者は現れるのか…それとも、またエンペラーの独壇場か…」

“修羅の宴”…。不穏な響きを持つその言葉と、エンペラーという謎の存在。俺の胸が、理由もなくざわついた。

客人が帰り、静かになった部屋で、俺は高柳さんに尋ねた。

「あの…さっきお話に出ていた“修羅の宴”というのは、一体…?」

高柳さんは、少し面倒くさそうな顔をしながらも答えてくれた。

「文字通り、修羅たちが集う宴よ。非公式の、しかしこの業界の裏では最も権威あると言われるトレードバトルのことじゃ。かつては純粋な腕試しの場だったが…今のエンペラーが頂点に君臨してからは、血生臭いだけの場所になり下がったとも聞くがな」

エンペラー…。またその名が出てきた。そして、俺の脳裏に、あの高慢な女性トレーダーの顔が浮かんだ。彼女も、もしかしたら、あのような場所に身を置いているのだろうか? 自分とは住む世界が違うと思っていたが、本当にそうだろうか?

ふつふつと、新たな感情が湧き上がってくるのを感じた。師匠のようになりたい。そして、あの女性トレーダーに、今の自分ではない、成長した自分を見せつけたい。そのためには…。

「師匠…!」

俺は、いつの間にか立ち上がり、高柳さんの前に進み出ていた。

「俺も…その“修羅の宴”というものに出てみたいです!」

決意を込めた目で、俺は高柳さんに告げた。修行の成果を試したい。そして何より、今の自分がどこまで通用するのか、知りたい。

高柳さんは、俺の言葉に驚くでもなく、ただ静かに俺の目を見つめ返していた。その表情からは、賛成も反対も読み取れない。だが、その瞳の奥に、ほんの一瞬、かつての“孤高の鷹”と呼ばれた男の鋭い光が宿ったような気がした。


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