第五話:心の壁と運命の再会
高柳さんの言う「心を鍛える修行」は、想像以上に地味で、そして過酷なものだった。
早朝、まだ薄暗いうちから座禅を組む。高柳さんと並び、和室の静寂の中でただひたすらに呼吸を整え、心を無にする。最初は数分と持たなかった。雑念、焦り、欲望…様々な感情が次から次へと湧き上がり、集中力をかき乱す。
「FXで勝つということはな、海斗、技術や知識だけでは足りん。己の心に打ち克つこと。それこそが最も難しく、そして最も重要なことなんじゃ」
座禅の後、高柳さんはそう言って、デモトレードの課題を出した。それは、あえて勝ちにくい、あるいは精神的に揺さぶられやすいような状況設定でのトレードだった。例えば、極端にボラティリティが高い相場、逆に全く値動きのないレンジ相場、あるいは「今日は必ず損失を出せ。ただし、損失額は証拠金の1%以内」といった奇妙な指示もあった。
「勝ち負けの結果ではない。お前が、いかなる状況でも平常心を保ち、己の定めたルールを機械のように守り通せるか。それを見ている」
師匠の言葉は厳しい。だが、その厳しさの中に、俺を本気で育てようという覚悟が感じられた。
最初は、やはり感情に振り回された。含み損が膨らむと恐怖で手が震え、ルールを破って損切りを遅らせてしまう。逆に含み益が出ると、もっともっとと欲が出て利食いのタイミングを逃す。その度に、高柳さんの静かな、しかし鋭い指摘が飛んだ。
「今のトレード、心に何がよぎった?」
「恐怖、じゃな。その恐怖がお前の判断を曇らせる」
「欲望が見えるぞ、海斗。それはやがてお前を破滅させる」
俺は、自分のトレード記録と共に、その時の感情の動きも詳細にノートに記録し、毎晩それを高柳さんと一緒に振り返った。自分の心の動きを客観的に見つめ直す作業は、時に目を背けたくなるほど辛かったが、それを繰り返すうちに、確かに変化が訪れていた。
あれほど苦痛だった座禅も、少しずつ集中できる時間が長くなってきた。そして、デモトレードでも、以前のように感情の波に飲まれることが減ってきたのだ。ルールを守り抜くこと。それがどれほど難しいか、そしてどれほど重要かを、骨身に染みて理解し始めていた。
小さな利益をコツコツと積み重ね、損失が出ても冷静に原因を分析し、次のトレードに活かす。それは、かつての俺には到底できなかったことだ。「これが…師匠の言う平常心か…」微かだが、確かな自信が芽生え始めていた。FXが、単なるギャンブルではなく、自分自身との戦いなのだということも、ようやく分かりかけてきた。
そんなある日のことだった。
「海斗、たまには外の空気を吸ってこい。わしが若い頃に読んだ本なんだが、もう一度読み返したくなってな。都心の大きな書店で、これと同じものを探してきてくれんか」
高柳さんはそう言って、古びた洋書のタイトルが書かれたメモを俺に手渡した。著名な経済学者の古典だった。
久しぶりに師匠の家を出て、電車に揺られ都心へ向かう。駅に降り立つと、人の多さと喧騒に少し戸惑った。ここ数週間、静かな環境で修行に明け暮れていたせいか、全てが新鮮で、同時に少しだけ気後れする。
目的の書店はすぐに見つかった。FXや投資関連の専門書が並ぶ一角へ足を運ぶ。高柳さんに頼まれた本は、さすがに古典だけあってすぐには見つからない。棚を一つ一つ見て回りながら、ふと、初心者向けのFX解説書のコーナーが目に留まった。かつての俺が、藁にもすがる思いで手に取っていたような本だ。
「こんな初歩的な本、一体誰が読むのかしらね?」
背後から聞こえてきた、鈴を転がすような、しかしどこか棘のある声に、俺は思わず振り返った。
そこに立っていたのは、見覚えのある女性だった。艶やかな黒髪、モデルのような長身に、寸分の隙もない高級そうなスーツ。そして、何よりも印象的なのは、その自信に満ち溢れた、少しばかり人を小馬鹿にしたような表情。
間違いない。数週間前、俺がまだFXの迷宮を彷徨っていた頃に参加した、とあるFXセミナーで講師をしていた女性トレーダーだ。確か、若くして莫大な資産を築いた天才と紹介されていた。
彼女は、俺が手に取ろうとしていた初心者向けの解説書をチラリと見て、あからさまに軽蔑の色を瞳に浮かべた。
「あら、あなた…確かセミナーで、一番前の席でやけに熱心に頷いていた…初心者さん? まだそんな本を読んでらっしゃるの? 時間の無駄だわ。才能のない方は、早めに市場からご退場なさった方が、ご自身のためよ」
その言葉に、俺の中で何かがカチンと音を立てた。修行で少しばかり自信をつけ始めていたこともあったのだろう。以前の俺なら萎縮して何も言えなかったかもしれないが、今は違った。
「本から学ぶことだって、たくさんあるはずだ。あんたみたいに、最初から何でもできる人間ばかりじゃない。それに、才能なんて、やってみなければ分からないだろ!」
思ったよりも強い口調で言い返していた。彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにフンと鼻で笑った。
「FXはね、結果が全てなの。綺麗事や根性論じゃ、一瞬でカモにされて終わりよ。あなたのようなお花畑の思考回路の方は、大事なお金を溶かす前に、さっさと足を洗うことをお勧めするわ」
彼女はそう言い捨てると、ハイブランドのバッグを揺らし、颯爽と俺の横を通り過ぎようとした。その時、彼女が手にしていたタブレットが、別の客と肩がぶつかった拍子にスルリと手から滑り落ちそうになった。
「あっ…!」
俺は咄嗟に手を伸ばし、床に落ちる寸前でそのタブレットをキャッチした。彼女は驚いた顔で俺を見ている。一瞬だけ、タブレットの画面が見えた。そこには、複数の時間軸のチャートと、びっしりと表示されたカスタムインジケーター、そして複雑な数式のようなものが並んでいた。一瞬垣間見ただけでも、それがとてつもなく高度な分析を行っていることが分かった。
「…どうも」
彼女は小さな声で礼を言うと、気まずそうにタブレットを受け取り、今度こそ足早に去っていった。
残された俺は、悔しさと、そしてそれ以上に強烈な何かを感じていた。あの画面…あれが、本物のプロの世界なのか。圧倒的な実力差。だが、同時に、心の奥底からフツフツと湧き上がってくるものがあった。
「見てろよ…絶対に…!」
俺は固く拳を握りしめた。彼女との最悪な再会は、俺の胸に新たな炎を灯した。それは、見返してやりたいという闘争心であり、そして、あの高みへいつか必ず辿り着いてみせるという、強烈な目標だった。
高柳さんの「心を鍛える修行」は、まだ始まったばかりだ。だが、今日の出来事が、その修行に新たな意味を与えてくれたような気がした。
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