第二章:境界線

 あれは四月の終わり。

 日が暮れかけた午後六時、スマホに届いた短いメッセージが、すべてのきっかけだった。


「今夜、家に来てくれない?」


 送り主は高村麗子。

 親友・健介の恋人だった女だ。


 最初は冗談かと思った。

 けれど彼女の家は、健介と同じ部活の打ち上げで揉めた日から、何度か俺も足を運んだことがあった。母親は看護師で夜勤が多く、今日も不在だと知っていた。


 誘われる理由が分からなかった。

 だが――俺は断れなかった。


 夕暮れのなか、住宅街を抜けて高村家の玄関をくぐると、そこは異様なまでに静まり返っていた。玄関を開けると、家の匂いが甘く鼻につく。


「こっち……」


 麗子がリビングの奥からひょいと顔を出す。

 部屋着に着替えた彼女は、まるで猫のような目で俺を見た。


「健介とは?」


「さっきケンカした。電話で……酷いこと言われた」


 表情は淡々としていた。でもその奥にある何かが、俺の警戒心をゆっくりと溶かしていく。


「誰かにそばにいてほしかっただけ」


 そう言いながら、彼女はキッチンに紅茶を淹れに行った。

 俺はソファに座り、テレビもつけず、ただ時計の秒針を聞いていた。


 戻ってきた麗子がマグカップを差し出す。

 手が、少しだけ触れる。

 その一瞬で、呼吸が浅くなる。


「ねえ、昭彦くん……」


「ん?」


「好きになっちゃったら、どうすればいいんだろ」


 その言葉の意味を理解した瞬間、心臓が跳ねた。


「俺……じゃ、ダメだろ。お前、健介と――」


「でも、いまはあの人が怖いの」


 麗子は俺の膝の上にゆっくり腰を落とす。

 タオル地のパジャマが柔らかくて、生々しかった。

 近すぎる距離。

 胸の感触。

 肌の匂い。


「ダメだって、これ……」


 言葉とは裏腹に、俺の手は彼女の腰に回っていた。

 理性が軋む。

 でも彼女の目は、涙をこらえるように潤んでいて、

 そのまま――唇が、触れた。


 深く、ねっとりと、舌が絡まる。

 肩の力が抜け、口づけは熱を増し、彼女の指がシャツのボタンを外しはじめる。


「ここじゃ、寒いでしょ。……上、行こ」


 彼女の部屋は二階だった。

 ベッドに腰を下ろした瞬間、彼女は自分でパジャマの上着を脱ぎ、ブラの肩紐をずらした。


 色白の肌。柔らかそうな胸の曲線。

 頭では「見るな」と命じているのに、目が離れなかった。


「お願い、抱いて」

 その声は震えていた。


「間違ってる……」


「わかってる。でも、もう止められないんだよ」


 俺の手が、彼女の胸に触れる。

 彼女が背中をそらせ、声を殺すように喘いだ。


 そのまま、重なった。


 下着を脱がせる手がもどかしくて、肌が触れ合うたびに背徳感が濃くなっていく。

 彼女の脚が俺の腰に巻きつく。

 挿入した瞬間、声を上げそうになるのを必死で堪えた。


 繰り返す律動のなかで、倫理はどこか遠くに消えていった。


 麗子は時折、俺の名前を掠れた声で呼んだ。

「昭彦くん、好き……好き……」


 その言葉に、全身が麻痺していく。

 快楽と同時に、罪悪感がねっとりと絡みついた。


 終わったあと、俺はベッドの端に座って、何も言えなかった。


「後悔してる?」


「……してる。でも、してない」


「矛盾してるね」


「お前といると、正しいとか、間違ってるとか、全部分からなくなるんだよ」


 麗子は黙って俺の手を握った。

 その手は、あたたかくて、でもどこか――死んだみたいに冷たかった。


 それから数日、俺たちは逢瀬を重ねた。

 母親が夜勤の日だけ。

 まるでその時間だけ、別の人間になれるような感覚だった。


 セックスはいつも静かで、どこか壊れそうで、

 抱くたびに、俺のなかで何かが少しずつ剥がれていった。


「こんなこと、続けちゃいけない」

 そう何度も思った。

 でも、麗子が俺を見つめると、何も言えなくなった。


「君しかいない」

 その言葉に、俺は“必要とされること”に依存していた。


 親友を裏切っている罪悪感。

 倫理を捨ててまで求めてしまう快楽と承認欲求。

 すべてを分かっていて、それでも俺は止まれなかった。


 倫理とは、人を縛るためのものじゃない。自分の弱さを誤魔化すための鎖なんだ。


 そう思い込もうとしていた。


 けれど、この関係が永遠に続かないことくらい、わかっていた。

 いつか、すべてが露見する。

 そのとき、自分が何を失うのか。

 いや、それ以上に――誰が、壊れるのか。


 俺は、想像しないようにしていた。

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