ぼくらの倫理と嘘

夏凜

第一章:倫理の授業

「正しさって、誰のものだと思う?」


 教師の声が、黒板にチョークを滑らせる音と重なった。五月の午後、窓の外には風に揺れる桜の葉。だが教室の空気は、重く、どこか生臭かった。


 倫理の授業だった。


「たとえば、友人が罪を犯していたとして。それを告発するのが“正義”だとしても……そのせいで誰かが傷つくなら、正しさって本当に意味があるのかな」


 教師は、生徒たちの目を一人ずつ確かめるように見渡す。けれど、その視線の先には、俺の心なんて届いていなかった。


 秋山昭彦。

 俺のことだ。

 ただの優等生。成績も悪くないし、校則違反なんてしたこともない。倫理の授業も好きだった。少なくとも、あの春までは。


 でも、いま俺は、誰にも言えない秘密を抱えている。


 親友を裏切った罪。

 人を壊したかもしれない疑惑。

 そして……教室の隅で、今こちらを見ている、高村麗子という存在。


 彼女の目と、目が合った。


 一瞬で、心臓が痛む。


 麗子は、なにごともなかったかのようにノートに視線を戻す。けれど俺にはわかっていた。あの目に宿る、静かな狂気のような光を。

 俺にしか見せないあの顔を。


 その夜――

「お願い、黙ってて」

 そう言って、彼女は泣きながら俺の服を脱がせた。


 ……それが、すべてのはじまりだった。


「秋山、どう思う?」


 不意に名前を呼ばれて、現実に引き戻される。


「え……?」


「今話していたテーマ、“正義”と“沈黙”のジレンマについて。君ならどうする?」


 クラス中の視線が、俺に向けられた。皆が俺の答えを待っている。


 ……この場で「沈黙は罪です」と言えば、俺は自分自身を告発することになる。

 でも「守るべきものもある」と言えば、それは言い訳になる。


 正しい答えなんて、もう俺には分からなかった。


「……ケースバイケース、だと思います」


 ようやく絞り出した言葉は、空虚だった。


 教師は少し眉を寄せて、他の生徒に話を振った。ざわつきが戻ってきて、俺はようやく呼吸ができた。


 麗子は、ふっと笑ったような気がした。


 あの笑みが、怖い。


 あの夜から俺たちは、倫理を裏切っている。

 俺は、親友の恋人を抱いた。

 彼女は俺を選び、俺は黙ってその罪を引き受けた。


 正しさなんて、とっくに壊れていた。


 黒板に書かれた言葉が目に入る。



「正義は、正しい者のためのものではない。声を上げた者のためのものである」



 皮肉だった。

 俺には、声を上げる資格なんてなかった。


 チャイムが鳴った。

 誰もが教科書を閉じ、教室を出ていくなか、俺だけが席を立てずにいた。


 麗子が通り際、俺の机に指を添える。


「……放課後、またあの場所で」


 小さな声が、耳を刺した。


 俺は、頷くことすらできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る