第7話「失われた時間」
1
洸は妙な違和感と共に目覚めた。
部屋に差し込む光が、いつもより強い。時計を見ると、午後2時を指していた。
「え?」
洸は慌てて起き上がった。午後2時ということは、午前中の授業をすべて欠席していることになる。
しかし、洸には昨夜眠りについてから今まで、ほんの一瞬しか経っていないような感覚があった。夢の中で数時間過ごしただけのはずなのに。
スマートフォンを確認すると、田口からの着信が8件、メッセージが15件も来ていた。
『おい、今日授業来てないぞ』
『大丈夫か?』
『マジで心配してる。連絡しろ』
最新のメッセージは30分前だった。
『お前の家に行く。何かあったら困るから』
洸は慌てて田口に電話をかけた。
「もしもし、田口?」
「洸!やっと連絡来た。どうしたんだよ、心配してたんだぞ」
田口の声に安堵が混じっている。
「ごめん、寝坊して」
「寝坊?午後2時まで?お前そんなキャラじゃないだろ」
確かに洸は規則正しい生活をしており、寝坊などしたことがなかった。
「最近疲れてて」
「まあいいや。とりあえず無事で良かった」
電話を切った後、洸は違和感の正体を探ろうとした。
昨夜の記憶を辿る。夢でDream Dwellerと話し、契約について説明を受けた。それから──
「あれ?」
その後の記憶がない。夢から覚めた記憶もない。まるで昨夜から今まで、時間が飛んでいるような感覚だった。
2
洸は慌てて身支度を整え、大学に向かった。少なくとも午後の授業には出席しなければならない。
大学に着くと、いつものように図書館に向かった。そこでミナと偶然出会った。
「洸くん、おつかれさま」
ミナが笑顔で声をかけてくる。洸は少し拍子抜けした。昨日の険悪な雰囲気はどこにもない。
「先輩、こんにちは」
「昨日は楽しかったです」ミナが言う。「久しぶりにゆっくり話せて」
洸は困惑した。昨日ミナと話した記憶がない。
「昨日?」
「え?」ミナが不思議そうな表情を浮かべる。「覚えてない?昨日の夕方、学食で2時間くらい話したじゃない」
洸は愕然とした。そんな記憶は全くない。
「あ、ええと」
「でも、なんだかいつもと雰囲気が違ってました」ミナが続ける。「もっと大人っぽいというか、落ち着いてるというか」
洸は戦慄した。自分の知らない自分が、ミナと過ごしていたのだ。
「どんな話をしましたか?」
「フランス文学について、とても詳しく話してくれました」ミナが思い出すように言う。「プルーストの『失われた時を求めて』の解釈とか、とても深くて」
洸はプルーストの作品など読んだことがない。少なくとも、現在の洸は。
「それと、私の妹のことについても話しました」
ミナの言葉に、洸は凍りついた。
「妹のこと?」
「ええ。ユリのことを、とても優しく聞いてくれて」ミナの目に涙が浮かんでいる。「洸くんが私の気持ちを理解してくれて、嬉しかった」
洸は混乱した。それは確実に、洸ではない誰かがミナと話していたのだ。
3
その日の午後の授業を終えて、洸は自分の部屋に戻った。
昨日の記憶を取り戻そうと必死に努力したが、何も思い出せなかった。まるでその時間だけ、別の人間になっていたかのようだった。
洸はスマートフォンを調べてみることにした。何か手がかりがあるかもしれない。
写真フォルダを見ると、見覚えのない写真がいくつもあった。
大学の屋上から撮った夕日の写真。洸は屋上に上がったことがない。
学食でのコーヒーの写真。洸はコーヒーが苦手だ。
そして、ミナと一緒に写っている写真もあった。二人とも笑顔で、とても親密そうに見える。
しかし、洸にはその写真を撮った記憶が全くない。
メモアプリを開くと、そこにも見覚えのない内容があった。
『プルーストの時間論について』
『ミナの心の傷と向き合う方法』
『Dream Dwellerとの次の約束』
最後の項目を見て、洸は震え上がった。
「次の約束?」
洸は慌ててその詳細を読んだ。
『今度はもっと長い時間、身体を貸してもらう。3日間の予定』
「3日間?」
洸は恐怖した。3日間も自分の身体を乗っ取られるというのか。
4
その夜、洸は意図的にDream Dwellerとの接触を求めた。説明を求めるためだった。
夢の中で、いつものように白い仮面の存在が現れた。
「昨日、何をした?」
洸は単刀直入に問い詰めた。
「君の身体を少し借用させてもらった」Dream Dwellerが事もなげに答える。「心配することはない」
「心配することはないって?俺の記憶が丸一日ない!」
「それは当然だ。君が眠っている間に、私が君の身体を使っていたのだから」
Dream Dwellerの言葉に、洸は愕然とした。
「勝手に俺の身体を使うな!」
「勝手?」Dream Dwellerが笑う。「契約の内容を忘れたのか?」
「契約にそんなことは」
「君は私により大きな力を与えてもらう代わりに、君の身体と時間を提供することに同意した」
洸は契約の時を思い出した。確かに「相応の対価が必要」と言われていた。しかし、具体的な内容は説明されていなかった。
「詐欺だ」
「詐欺ではない。君が詳しく聞かなかっただけだ」Dream Dwellerが冷酷に言う。「それに、君は私のおかげでミナとの関係を改善できたではないか」
確かにミナは喜んでいた。しかし、それは洸の功績ではない。
「俺は君に身体を貸すために契約したんじゃない」
「目的は関係ない。契約は成立している」
Dream Dwellerの言葉に、洸は絶望した。
5
「今度はもっと長い時間、君の身体を借用する」Dream Dwellerが続ける。
「どのくらいだ?」
「3日間」
洸は恐怖した。3日間も自分が消失するのか。
「断る」
「断る権利はない」Dream Dwellerが断言する。「契約は絶対だ」
「なら契約を破棄する」
「破棄?」Dream Dwellerが嘲笑う。「君はもう普通の人間ではない。私なしでは存在できない」
「どういう意味だ?」
「君の現在の能力は、すべて私が与えたものだ。契約を破棄すれば、君は何も残らない空っぽの人間になる」
洸は愕然とした。自分の存在そのものが、Dream Dwellerに依存しているのか。
「それに」Dream Dwellerが続ける。「君は既に私の一部になりつつある。分離は不可能だ」
洸は理解した。もう後戻りはできないのだ。
「君は徐々に私に同化していく」Dream Dwellerが説明する。「最終的には、君と私の区別はなくなる」
「それは」
「進化だ。君は不完全な人間から、完璧な存在になる」
洸は恐怖した。それは進化ではなく、自分の消失だった。
6
夢から覚めた洸は、深い絶望に包まれていた。
自分の身体が、もう完全に自分のものではない。Dream Dwellerがいつでも乗っ取ることができる。
そして3日後には、長期間の乗っ取りが始まる。
洸は鏡の前に立った。そこには普通の自分の顔があった。しかし、時々別の表情が混じることがある。
「俺はもう俺じゃない」
洸は絶望的に呟いた。
その時、スマートフォンに田口からメッセージが来た。
『明日一緒に飲まない?最近のお前が心配だ』
洸は田口に会いたかった。しかし、自分の異常を説明することはできない。
『ごめん、忙しい』
洸は返信した。
しかし、その直後に別のメッセージが送信されていることに気づいた。
『やっぱり飲もう。君と話したいことがある』
洸は送信履歴を確認したが、そのメッセージを送った記憶がない。
「また別人格が」
洸は恐怖した。もう昼間でも、別の人格が表に出ることがあるのだ。
携帯電話が鳴った。田口からだった。
「洸、メッセージありがとう。明日の夜、いつもの居酒屋で」
「え、でも俺は」
「何?さっき自分でメッセージ送ったじゃん」
洸は混乱した。田口に説明できない。
「あ、ああ、そうだね」
電話を切った後、洸は恐怖した。
もう自分の行動をコントロールできない。いつの間にか別の人格が表に出て、勝手に行動している。
7
翌日の夜、洸は約束の居酒屋に向かった。
正確には、向かわされた。自分の意志ではなく、何かに操られるように足が向いた。
居酒屋で田口が待っていた。
「洸、来てくれてありがとう」
田口が嬉しそうに言う。しかし、洸は自分が話すことができるのか不安だった。
「最近のお前、本当に変だからさ。心配してたんだ」
田口が真剣な表情で言う。
「心配なんて必要ない」
洸の口から、自分の意志とは違う言葉が出た。それは洸の声だが、洸の言葉ではなかった。
「お前は俺の変化を理解していない」洸の声が続ける。「俺は進化しているんだ」
田口が困惑の表情を浮かべる。
「進化?何それ」
「君のような平凡な人間には理解できないだろうね」
洸は恐怖した。自分の口が勝手に動いている。これは確実に別の人格だった。
「洸、お前やっぱりおかしいよ」田口が心配そうに言う。「病院行こうぜ」
「病院?」洸の体が笑った。「君こそ、嫉妬という病気を治した方がいい」
田口が傷ついた表情を浮かべる。洸は必死に自分を取り戻そうとしたが、身体をコントロールできなかった。
別の人格が、洸の大切な友人を傷つけている。
しかし、何もできなかった。
洸は自分の身体の中に閉じ込められた囚人になっていた。
そして、これはまだ始まりに過ぎなかった。
3日間の完全な乗っ取りが、すぐそこまで迫っていた。
洸の恐怖は、現実のものとなっていた。
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